ギブアンドテイク
私と瑞貴は近くの喫茶店に入った。結局、瑞貴は私に従った。
芸能人を調査して、いつも真っ先に驚かされるのはその頭身と細さである。
小川瑞貴も例外ではなかった。
座高は女性にしては高く、一目でスタイルが良いとわかる。
間近で見る彼女は、画面やレンズ越しで見るよりも遥かに美しかった。
さすがは芸能人だった。
顔のパーツ一つ一つとってもまったく欠点がなく、正しい配置で小さな顔に収まっている。
黒目がちの柔和な瞳は長い睫毛に彩られ、憂いに満ち、不安げな顔を浮かべている。どこか幼さと成熟さが同居した作りの美貌だった。
ボディは典型的なモデル体形だ。腰が高く、細くて、そしてしなやかだった。
芹沢礼香のような人工美に満ちた美しさではない。全く手を加えていないナチュラルさに満ちたものだった。
柑橘系の香水を使っているのか、瑞貴と体臭と交ざりあった甘い香りが私を激しく酔わせる。私の中で動悸が激しくなっていた。
「申し訳ありません。お話をうかがえたらと思いまして、後を尾けました。お許しください」
と、私は切り出し、瑞貴に謝罪すると、名刺を差し出す。
正規調査用のものだった。その他身分を偽った変装用のものも何枚か常備所持している。
名刺一枚で、人間は簡単に騙されてくれる。
「わたしは何も知りません。申し訳ありませんが……」
だが、瑞貴は席を立とうとしなかった。押しに弱いタイプなのだろうか、先程から私の頼みを断らない。
「……何せ、何にも手がかりがなくて、こっちも困ってましてね。何でもかまわないんです」
私は言う。
少し瑞貴を解す必要があった。今の状態では聞ける話も聞けない。
「……森川さんの会社に行って、聞いたほうがよろしいんじゃないんですか?」
そっけない意見だった。
「ああいう所は、変な噂を立てられるのを嫌うんですよ。聞き込みしようとしたところで箝口令が叱れているに決まってる。まあ、まず外堀を埋めようと思いましてね。ご協力頂けませんか……?」
私はなるべく丁寧な言葉遣いを心がけた。慇懃無礼な態度では心を開いてはもらえない。
瑞貴は何も答えなかったが、ようやく安心したのか、軽く息を吐く。
私は瑞貴には悟られないようにICレコーダーの録音スイッチを押す。ICレコーダーにはマイクを接続している。後で聞き込みの内容を検証するためだ。
「……たしかに、森川さんとは面識があります」瑞貴は口を開いた。「ドラマ収録の現場で何度かお話したこともありますから……」
「本当ですか……?」
私の問いに瑞貴は頷く。
「優秀なマネージャーだと思います。芹沢さんにはもったいないくらいの……」
「――のようですね。彼を悪く言う人間は誰もいない。口を揃えて言うのは芹沢さんばかりだ」
瑞貴の表情が綻んだ。
「仕事に対しては真面目な方でしたか……?」
「森川さんが……ですか?」
私は頷くと「はい」瑞貴は答えた。
「……芹沢さんの現場には必ず訪れていました。芹沢さんの仕事を確認するために。芹沢さんは何かとトラブルの多い方ですから……」
「そんな熱意にあふれた方が、突然会社を辞めた。小川さんは森川さんはなぜ失踪したと思いますか?」
「芹沢さんに愛想がつきた。そういうことなんじゃないでしょうか?」
再び眉間にしわを寄せながら瑞貴が答えた。芹沢のことになると、表情が険しくなる。
「芹沢さんとはどういう方ですか?」
私は臆せず尋ねる。
「――自分の利にならない人とは口も聞かない人ようなです。ADなんか全く相手にしません。そういえば、お分りになりますか?」
「自己中心的な方だと?」
私のストレートな言い方が可笑しかったのか、瑞貴は肯定するように微笑する。
「……質問を変えましょう。芹沢さんの交友関係についてお聞きしたいのですが」
私の問いに、瑞貴の表情が一瞬変わるのを見逃さなかった。
「根津さんは芹沢さんに問題があると思ってらっしゃるんですか……? 森川さんの個人的な理由かも……恋人とうまく行かなくなったとか――」
「残念ながら、彼に恋人が居るという事実はありません」
否定する私に、瑞貴は窓の方を見ると「なぜ私の所に来たんですか……?」と訊いた。
瑞貴の質問に私は答えられなかった。
「……正直にお答えしていただいてかまいませんよ」
瑞貴が自嘲気味に笑いながら言う。そのどこか憔悴した様子が奇妙だった。
「調査を始めたばかりで、いきなり近辺関係者に聞き込みはできませんよ。他意はありません……。不愉快に思われたら謝ります」
私は頭を下げる。
瑞貴は再び外に視線を向けると、「誰かと付き合っている人はいるようですよ」と言った。
「へえ、どなたですか?」
「さあ……そこまでは。わたし、彼女とは友達じゃないので……」
私が芹沢の話をする度に、瑞貴は言葉の端々に芹沢への嫌悪感を滲ませていた。芹沢玲香の事は本当に嫌いらしい。
芹沢玲香と瑞貴の間に何があったのか、踏み込みたいのは山々だが、調査上関係ない情報だ。
「商売敵……ですか?」
私の言葉に、瑞貴は笑う。
「向こうはわたしを相手にもしてませんよ」
一筋縄ではいかない目の前の女に対し、私は徐々に楽しくなっていた。久しぶりに味わう男女の駆け引きだった。
「……森川さんでないことは確かです。彼とはないと思います」
瑞貴は断言すると「でも一度くらいなら関係はあるかも」と続けた。
「えっ?」
瑞貴の言葉に、私は自分の耳を疑った。
「……時々でしたが彼の芹沢さんを見る眼がマネージャー以上のものを感じたことはあります。酔った勢いとか、本人の気紛れとか。芹沢さんにとっては遊びでも、森川さんにとっては……」
「確証があるんですか?」
「いいえ」瑞貴は即座に否定した。「――すみません。少し言葉がすぎました。忘れてください」というと瑞貴は頭を下げた。
私は瑞貴の言葉が戯言は思えなかった。女はそういうことに敏感だ。女同士が感じる何かがあったのだろう。悪評を立てるために出た言葉だとは到底思えなかった。少なくとも、そんなことを何の良心の呵責もなく出来るほど瑞貴は器用ではないだろう。芹沢への感情的態度がそれを如実に表していた。
もう少し会話を続けていたかったが、これ以上話しても何も得られないようだ。
「――いろいろとありがとうございました」と席を立とうする私に、「待ってください」と瑞貴は呼び止めた。
「一つお願いがあります。聞き込みに対する謝礼というわけではありませんが……」
突然の瑞貴の申し出に、私は身を堅くする。金銭でも要求してくるつもりだろうか。
「……なんでしょう?」
私は尋ねた。
「……もし、森川さんの居場所がわかったら、わたしにも教えていだだけませんか?」
瑞貴の思わぬ頼みに私は返答に窮した。
瑞貴は何か決意を秘めたような表情をしていた。それはグラビアやテレビでは決して見せたことがない、小川瑞貴という仮面を脱いだ小川康子という人間性を覗かせていた。
私は席に再び着く。
「……困ったな。それは依頼人に対する裏切り行為ですからね……」
「無理でしょうか……?」
瑞貴は食い下がる。
すぐには回答できなかった。
「……では、こうしましょう。芹沢玲香や森川さんに関する情報が何か入ったら根津さんにお教えいたします。なんでしたら、私が直接動いて情報収集に協力しても構いません」
思いがけない提案に私は戸惑った。
「――ギブアンドテイクですか?」
私の言葉に瑞貴は頷く。
「……わたしのような人間を情報源に持っているのは根津さんにとっては損にはならないと思います。あなたの言う通り、森川さんの元同僚達は絶対に情報を漏らさないでしょうし――」
私は瑞貴の申し出に正直困惑していた。瑞貴は私の調査結果を週刊誌にリークでもするつもりだろうか。忠告しておくべきか迷った。
芸能界の大物たちですら、その掟は守る。そうしなければ圧力を掛けられ、仕事を失う。
現にご意見番と称する連中は絶対に大手のタレントを批判しない。槍玉に上げるのは弱小事務所の連中ばかりだ。自らの同胞には手厚く保護し、反逆者たちは徹底的に弾圧する。それがこの世界の体質だ。
だが、瑞貴の言う通り、業界関係者の情報はきわめて貴重なのも確かだ。瑞貴の提示した条件は手がかりの無い私にとってとても魅力的だった。少なくともネットの情報に振り回されるよりはましだろう。
瑞貴の次の一言が決定的だった。
「少なくとも貴方の仕事を邪魔するようなことはしません」
「……わかりました」
私は観念したように言った。
「ただし、口外無用が絶対条件です。業界の方ですからその理由はいわずとも分かるでしょうが、よろしいですね……?」
「約束します」
瑞貴は私のことを真っすぐに見ながら言った。
私は改めて瑞貴に美しさを再確認していた。油断しているとその美しさに吸い込まれそうになる。
事前に打ち合せしたかのように、私と瑞貴は携帯電話を同時に取り出していた。