引継ぎと事前調査
私は五反田にある自宅で、芸翔に提出するための報告書を作成していた。
探偵業を営んではいるが、わざわざ事務所を構えるようなことはしていない。依頼人を家に呼ぶことなどまず無い。
寝室兼リビングの壁ぎわに置いてあるスチールラックには、ラップトップ型のパソコンとプリンターの他に、プロ使用の盗聴発見器が置いてある。
書棚には携帯型の無線器や広域帯受信機の他に、市販されている盗聴器が数個、浮気現場などの証拠を押さえるための中古の一眼レフカメラとビデオカメラはもちろん、CCDカメラやファイバースコープといった盗撮用カメラ、米軍払い下げの双眼型赤外線暗視ゴーグルといった調査器材が部屋の至る所にある。カーテンは締め切ったままで、部屋の中央にある小さなテーブルには撮影道具を改造・自作するためにピンバイスや精密ドライバーなどの工具が菓子の空き箱に入っている。
調査メモや証拠記録を確認しながら、私は記憶を掘り起こし、パソコンのキーを打ち込んでいく。調査対象と調査状況の様子が頭の中で蘇っていく。
伊沢達也――若手実力派と称される男性タレントだ。
芸翔から依頼された内容は身辺調査および交遊関係。出来ることならば、伊沢にとってマイナスとなるようなネタを掴んでほしい――そういう内容だった。
依頼理由は尋ねなかった。
おそらく、伊沢が芸翔のタレントに手を出したのか、もしくは伊沢と似たようなタイプの人間をデビューさせるため、ライバルに対して戦略を得るための調査だと踏んでいた。同じ芸風、もしくはキャラクターの人間を敵視し、対策を講じるのは芸能事務所ならば当然の対応である。
伊沢に費やした調査期間は三週間程度である。その程度の期間で決定的なネタを掴めるほど芸能人の調査は甘くない。生活リズムが不定期で、休日も少ない。
決定的なネタはまだ掴んではいなかったが、調査は順調に進んでいた。
伊沢の地元は千葉で、評判はあまり良くなく、元同級生の付き合いもまだ続いている。悪友と言ったほうが正しいだろう。
ルックスも良く、若さゆえ体力が有り余っているためか女に不自由しない人生を送っている。事実、下半身に人格は無い。
モデル、アイドルの卵など喰った女は枚挙にいとまがない。伊沢がお気にいりのデリヘル嬢の存在まで掴んでいた。
もっと世間が驚くようなビックネームと付き合っているのかもしれない。事実、調査の過程で何人か有名芸能人の名が上がっている。残念ながら私の調査期間中、ビックネームとの接触は無かった。
パーティに出席するという情報は、私が懇意にしている業界関係者からだった。そもそも芸翔の仕事を受けたのはギャラ以外の何物でもない。
私の顧客である広告代理店から芸翔が私の評判を聞き付けたことが全ての始まりだった。知り合いの紹介とあっては断るわけにも行かなかった。
セレブも芸翔もどちらも好かない。昔から権力側に座する連中は虫が好かない。
その矢先の突然の調査の打切りと、別の依頼への変更――不可解極まりなかった。
報告書の作成が終わりプリントアウトすると、私は次の作業に移った。小田から預かった森川の写真をパソコンに取り込み、写真を携帯電話用の画像データに編集加工する。携帯電話に画像データを入力後、森川の名前や特徴、分かっている個人情報などとともに『情報を募る。有力情報には報酬を支払う』という内容のメールに、先程加工した森川の画像を添付すると、メーリングリストで一斉に送信した。
私の人脈から情報を募るためである。送信して五分も経たないうちに携帯の着信ランプが瞬き、振動する。
「はい」と私は携帯に出た。
――賀川っすけど。
賀川はカメ小だ。カメ小すなわちカメラ小僧である。
特に賀川はタレントのパンチラ写真やアイドルの登校写真などを盗撮しては、雑誌に投稿し金を稼ぐことを生業にしたその筋では有名な男だ。投稿写真だけで月50万は稼ぎだす。
タレントの住所確認の際などは、この男から情報を貰うことが多い。アイドルの追っ掛けと出待ちが生き甲斐のような男だ。――つまり私と同類ということだ。
――メール見ましたよ。
と、賀川は言った。
「森川隆……芹沢玲香の現場マネージャーだ。知ってるな?」
私は賀川に尋ねる。
――……知ってるなんてもんじゃないですよ。我々の商売敵ですから。
賀川の言葉に、私は吹き出した。
――以前、俺の知り合いのカメ小がドラマの制作発表で芹沢のパンチラ写真を撮ったんですけど、こいつに追っ掛けられて、フィルムは奪われるわ、胸ぐら捕まれるわでエラい眼にあったって、ぼやいてましたよ。
「……この男な、会社を辞めて現在失踪中らしい」
――マジですか?
「なにか心当たりはないか……?」
賀川は少しを間を置いて
――いや、無いですねえ。なんでですか?
と、答えた。
「この男について捜索調査の依頼を受けた。内容はメールの通りだ。書類から攻めても無駄だろうからな。何かネタはないか?」
――伊沢達也の動きを探っていたんじゃ無かったんですか……?
「依頼人の気が変わってな。いちいち詮索していたら仕事にならんさ」
――大変ですね。
「芹沢との関係はどうだったんだ?」
――プライベートで芹沢の御供をしているところをたびたび目撃されていますね。
「……付き合っていたのか?」
タレントとマネージャーの交際は珍しくない。一緒に居る時間も長く、休日も不規則。まともな出会いが少ないという実情もある。
「――単なる荷物運びや運転手程度の存在でしょう。森川は公私共に献身的に芹沢に尽くしていたようです。芹沢に取ってみれば都合のいい男だったんでしょうね」
「でも、森川本人は本気だった……とでも?」
私の言葉に、賀川は唸る。
――まあ芹沢の逢引きのカモフラージュにも一役買っていますしねえ。何せ、ほら芹沢は恋多き女らしいですから。
「ヤリマンってことだろう……?」
賀川の笑いが、電話の向こうから聞こえる。
美人への淫乱願望――男の定番の猥談である。
「実際、芹沢は尻が軽いのか?」
私は尋ねた。
――……俺が知っているだけでも3人います。飽きっぽい性分なんでしょうねえ……。裏は取ってませんけど……。俺、芹沢には興味が全く無いんで……。
アイドル専門の賀川なら尚更だろう。私もあまり興味が無い。仕事上、ゴシップはなるべく頭に入れているが、カバーし切れるものではない。それだけ芸能界は展開が速い世界ということだ。
「男の名前は解るか?」
――……調べるつもりですか?
私は笑うと、「……仕事だからな」と言う。
――最近、噂になったのは……桧垣恭吾ですね、確か。ドラマで共演して親密交際が噂されてましたけど。まあガセに近いですね。
局の話題作りだろうと、私はすぐに分かった。TV局のドラマ編成は時々こういうあざとい真似をする。
――……そう言えば。
「なんだ?」
――桧垣って別の女でも噂になってましたよね。
「誰だ」
――小川瑞貴です。
顔が何となく思い浮かぶ。私の好みの顔をした女性タレントだ。
――半年ぐらい前のドラマで三人とも共演してたでしょ……?
「……最近のドラマはあまり見ない。出来が非道いからな」と答えると賀川は笑う。
――駄目ですよ。そういう連中で飯食ってんでしょ?
賀川の言葉に今度は私が笑った。バラエティー番組制作会社が作ったコントを一時間に引き伸ばしたような内容を奥目も無く見れるほど私は若くはない。
――その芹沢と小川ですけど、二人とも仲が悪くて現場の空気最悪だったらしいですよ。
「あまり有力な情報とはいえんな」
私はがっかりした。
――いや、ここからが本題なんですが、小川瑞貴って今仕事干されてるらしいんですよ。芹沢を怒らしたのが原因かどうかは知りませんけど……。
「……そう言われれば、最近顔を見ないな――」
賀川に指摘され、私はそのことに初めて気が付いた。確かに小川瑞貴はここ数ヶ月メディアには登場していない。もっとも、この業界はすぐに新しい人材が補充され、台頭している。気に留めているほうが無理な話だ。
――どうです? 興味湧いたでしょ?
「――ああ」
確かに私の中で微かに火が点っていた。
「小川の住所分かるか……?」
――ちょっと待ってください。
受話器越しにガサゴソという音が聞こえると、「すぐに分かると思います。知り合いに確認が取れ次第、折り返します」と返答があった。
芸能人の住所確認は、芸能人の調査でもっとも労を有する。下手をすると数ヶ月を費やすこともある。そんな時に賀川が役に立つ。もっとも、賀川も私にターゲットの住所を確認してくることはよくある。持ちつ持たれつということだ。
――で、伊沢の方ですけどなんかネタ掴めました……?
賀川が楽しそうに尋ねてくる。この手の情報交換が一番面白い。趣味の合う人間と話をすることほど楽しいことはない。
「下らないものばかりだ。もっと時間と手間を掛ければ、別だがな」
――タレントとは付き合ってないんですか?
「賀川ちゃんが好きそうなマイナーな連中ばかりだ。ムカつくから聞かない方がいい」
舌打ちする賀川に、私は笑った。
「芹沢、森川とともに小川のネタが入ったら私に教えてほしい」
賀川は「了解しました」というと電話を切った。
もう少し聞き込みが必要らしい。別の情報筋に当たろうと電話帳をスクロールする。
指の動きが心なしか鈍かった。