救出
頭が痛かった。ひどく深酒したときのような状態だった。
重い瞼を意志でこじ開けると、座っているのは助手席だった。私の車の中だった。窓の外を見ると、昨日私が拉致された地下駐車所内だった。
何を注射されたのか、分からない――肉体的なダメージもさることながら、精神面を完膚無きまでに打ちのめされていた。
なんとか車は運転できる。口の中が切れているのか、ジクジク痛む。体のあちこちも熱を帯び、疼いている。
脅しや恐喝を受けたことは二度三度ではないが、ここまで暴力を行使され、ねじ伏せられるなど私の人生ではなかった。
車の時計を見ると、午後二時を回っている。
時間が経つと供に屈辱感が募る。血が逆流するほど悔しかった。
運転席を見るとアタッシュケースとノートパソコン、携帯電話が置かれていた。私はモニターを起こし、パソコンの電源を入れた。
編集ソフトを立ち上げると芹沢玲香の携帯電話の全データは消去されていた。
いや、消去されたというよりデータを奪われたと考えるのが妥当だ。
精神的にも肉体的にも疲れ切っているのに、痛みと悔しさが眠りに入ることを妨げる。そして、こんな眼にあった原因をつくった奥野を恨んだ。
逆恨みだとはわかっている。だが、納得がいかなかった。なぜ自分がこんな目に遭うのか、意味が分からなかった。
崩れそうな精神をやっとの思いで支えながら、今何をするべきなのか、何をしなけれならないのかを私は必死に考えた。思考の鈍さがもどかしかった。
自分の間抜けさと運の無さを呪っていた。
奥野を攻めすぎたのも、原因の一つだ。
ここから移動しなければならないが、その前に確認作業を行なわなくてはならない。
慎重と臆病に勝るプロの仕事は無し、だ。
二度とミスは許されない。
臆病に、用心深く、静かに、そして執念深く、だ。
負傷した体を引きずりながら私は車から出ると、車の後部へ移動した。
バンパーの裏を手で探ると四角い金属物のような感触に突き当たった。接着が強力で外すのにてこずりながら、やっとの思いで取り外し、金属物を確認する。
GPS発信機だった。強力磁石により車体に接着し、電波を発進するタイプだ。
怒りと不愉快さがないまぜになる。
こんなものを付けられては、私の行動が筒抜けだ。私をわざと泳がせ、依頼主を割り出すつもりだろう。舐めた真似をする。私は発信機を地面に叩きつけた。
車体番号から私の個人情報も抜かれていると考えるのが、妥当だろう。敵は予想以上に厄介だと実感する。
トランクやグローブボックス、後部座席など盗聴器の存在を一通りチェックしながら、私は次の行動はどうするか、頭を巡らした。
自宅部屋には戻らないほうが良いと判断した。
しばらくは身を隠した方がいいかもしれない。
運転席に座りながら私は、神山の保護を求めるか逡巡した。依頼人に保護を求めることはともかくとして、報告の義務はあるかもしれない。
瑞貴のことが頭を過る。とたんに不安になった。瑞貴と私の関係がセレブ側に漏れているだろう。携帯電話には幸い『小川』という名で登録されている。だが、曽根崎は私の関係者に片っ端から聞き込みを掛けるかもしれない。
仮に神山に相談したとして、私はともかく瑞貴まで保護の対象としてくれるかどうか怪しい。いずれにしろ瑞貴に警告を促す必要がある。
私はともかく、瑞貴は守らねばならない。
周りの足場がどんどん崩れていく感覚に襲われながら、私は瑞貴に電話をした。
いや、会話することで誰かに縋りたかったというのが本音だろう。携帯を取り出し、瑞貴に発信する。
――はい。
瑞貴はすぐに電話に出た。
「曽根崎という男が私の前に現われました。セレブの人間です」
返答がない。しばらく無言が続く。聞こえているのだろうか。
「御存じですか……?」
――いいえ。
瑞貴の反応が悪かった。
――……でも顔を見れば多分わかると思います。
瑞貴の声に精彩を欠いていた。
前回にも増して、元気が無い。どこかささくれだっていて、気力というものが無く、倦怠感が漂っている。蓮沼に何かされたのだろうか。
腹部が痛む。気力が萎えそうになる。
「仕事でヘマをしました。向こうに私達の関係が伝わった可能性が高い」
痛みに耐えながら、言い訳にもならないことを私は言った。
――……大丈夫ですか? 息が荒いようですけど……?
瑞貴の問いに、私は言葉を詰まらせた。
――……何かあったんですか?
「……なんでもありません」
自分の心と身体の状態を見透かされた気がした。私は急に恥ずかしくなった。
――そちらに向かいましょうか……?
瑞貴の言葉に縋りそうになる。
「……相手は手段は選ばない連中です。私とあなたの関係とのバレれば、貴方に害が及ぶ。今の私には貴方を守る自信が無い」
――……何かあったんですね?
瑞貴の察しの良さに、私は観念した。
――直ぐにそこに行きます。
「待ってください……!」
私は瑞貴を制止した。
ここに直接来てもらう訳には行かなかった。
我々の関係を知ってくださいと敵に教えるようなものだ。
「……分かりました。どこかで落ち合いましょう。でも、こちらの安全を確認した上でもう一度電話します」
――必ず電話くださいね。
と言うと、電話が切れた。
瑞貴の対応が嬉しかった。言葉では強がっていながら、安堵している自分が居ることに苦笑した。瑞貴の善意を無にしてはならない。
私は痛みに耐えながら、車を移動させるためにキーを回した。
私は車の後部座席で横になっていた。痛みが確実に私を苛む。眠りに入ることを一行に許さない。
胎児のように手足を縮めながら、瑞貴の訪れを待っていた。
何度もUターンを行い尾行確認をしながら、移動し、どこで出会うのが最適かを考えた結果、私が指定した場所は新宿サブナードにある地下駐車場だった。
叩きつけた発信機は別の車両に取り付けた。多少の時間稼ぎにはなるだろう。
瑞貴が来てくれることが今の私の最後の希望だった。時間の歩みは緩慢だった。体の痛みが時間と共に増していく。
頭上の上でガラスをコツコツと叩く音が聞こえた。私はドアノブに手を掛け、ドアを開ける。
手に力が入らない。
瑞貴だった。
「どうしたんですか……!?」
私を見るなり、瑞貴は驚きの声を上げた。
「すみません」
私は咄嗟的に謝っていた。
「セレブにやられました……」
私の言葉に、瑞貴の表情が曇る。
瑞貴はレザーのアウターにレザーのスカートを着ていていた。
スタイルのいい瑞貴には、よく似合っていた。
「病院に行った方が……」
「……大丈夫です」
荒い息をしながら、私は拒否した。息をするたびに、脇腹が痛む。
もしかしらアバラをやられているかもしれない。
瑞貴はいったん車から出ると運転席を開ける。席に座ると、瑞貴は「……ともかく、わたしの部屋に行きましょう」と言った。
「……それは駄目だ」
私は即座に拒否した。
「だからって、貴方の部屋にはいけないでしょう……?」
反論できない。代案も浮かばない。
「……わかりました。甘えさせてもらいます」
私は観念した。
瑞貴はバックミラー越しに私を見ると、車を動かした。
瑞貴の運転は危なっかしかった。決して上手いとはいえない運転技術だが、私に不安はなかった。
瑞貴と会えたことの方が、むしろ私の心に安堵感をもたらしていた。
私は後部座席で尾行車両を確認しながら、何度も角を曲がり尾行確認をさせた。
人目を避けるために夜まで待った。瑞貴宅に着くまで私は眠ることはなかった。
瑞貴の自宅は吉祥寺にある。
車をマンション近くのパーキングエリアに止める。車から出ると瑞貴に支えながら、私は瑞貴のマンションに入っていった。
幸い瑞貴の部屋に着くまで、マンション住民と誰とも会うことはなかった。
瑞貴が鍵を開け、部屋の扉を開けると香りが飛び込んできた。瑞貴の匂いだった。玄関で靴を捨てるように脱ぎ、中に入る。
瑞貴が壁にあるスイッチを入れると、部屋に灯が点った。
通された部屋は寝室だった。ベットまで運ばれると私は瑞貴からずり落ちるようにベットに傾れ込んだ。
限界だった。
ベットからは瑞貴の体臭が仄かに漂う。身体は痛みで苛まれているのに、私の心は徐々に落ち着いていった。
瑞貴は一旦寝室を出て、再び救急箱を持って部屋に戻ってくると、私の傍らに膝を折った。
「上着を脱げますか?」
瑞貴の言葉に、私は服を脱ぐ。
身体を捩る度に、痛みが走る。
服を脱ぐのも苦痛だった。不様なまでに、身悶えながらジャケットの袖から手を抜き、瑞貴に手伝ってもらい、やっとのことで上半身裸になる。
青痣だらけの腹部に、瑞貴は大きく目を見開いた。
瑞貴に優しくされている内に私の中で惨めさが募る。心が折れそうだった。
「抱き締めてもらえませんか」
私は瑞貴に大それた事を口にしていた。
瑞貴はまったく迷う事無く私を抱きしめた。華奢で細い腕が絡み、見た目よりもずっとふくよかな胸が私の顔に押しつけられ、甘い匂いが私を包む。
優しさが欲しかった。女の肉の柔らかさが実感として欲しかった。
金で買ったものではなく、無償のものを――。
私の要求に応えてくれた瑞貴に心の底から感謝していた。
「……落ち着きました?」
私を抱きながら、瑞貴が尋ねる。まるで母親のような優しさに満ちていた。
「ええ」
私は瑞貴の腕の中で頷くと、瑞貴は私から離れた。救急箱を開け湿布を取り出す。まるで私の負傷箇所が分かるのか適切に湿布を貼っていく。
湿布を貼り終えると、瑞貴はテープで湿布を固定し、包帯を私に巻いていく。
「……ご用意がいいんですね」
私は瑞貴の治療を褒めていた。
「意外に生傷が絶えない仕事だから……。病気になっても病院に簡単には行けませんし……」
湿布の匂いに頭が刺激されたのか、私は瑞貴との電話を思い出していた。
「……この前何を言おうとしたんですか?」
私の問いに瑞貴の腕が止まる。
瑞貴は私を見る。
今日出会って初めて彼女の目を見たような気がした。
瑞貴は無言だった。今にも泣きだしそうな哀しい眼をしていた。
「事務所――」
瑞貴が呟いた。
危うく聞き逃すほど、低い声だった。
「はい?」
「ついに契約の更新を打ち切られました――」
頭を不意に殴られたような思いだった。
「……クビです」
突然のことに言葉もなかった。
「なんと言ってよいやら……」
私の言葉に瑞貴は苦笑する。
「……こうなることは、予想してました。前々から仄めかされてました。会社を守るために私を切ったんです。……仕方の無いことです」
瑞貴をよく見ると頬の当りの肌がひどく荒れている。
ここ数日の瑞貴の精神状態を物語っていた。
「申し訳ありませんでした。お役に立てなくて……」
「なんで根津さんが謝るんですか……?」
瑞貴は笑いながら言った。その通りだった。
何もしてやれない癖に傲慢だった。
「……フリーの身です。根津さんと同じですね」
瑞貴の痛々しい冗談に、私は笑うしかなかった。
かける言葉が無いとはこのことだった。
何を言えばいいのかわからない。女を楽しませるのは、決して不得意ではないが、こういう場面は苦手だった。怪我など言い訳にもならない。
言葉を探していると、「少し眠ったほうがいいですね」と瑞貴は私を宥めるように言った。
「……眠るまでここに居てもらえませんか」
私はまたも甘ったれた頼み事をした。
瑞貴は微笑すると、私の手を握る。
私は何か言おうとしたが、諦め、眼を閉じた。
安心によるものか、眠りはすぐに訪れた。