もう一人の芸能界の大物
タクシーが目的地に近付くにつれ、私の気持ちは沈んでいった。
私は今、神楽坂に向かっている。神山が指定した場所だった。
女との待ち合わせでもないのに、仕事同様スーツ姿だった。
芸能界の大物に会うという事に加え、調査でもいい結果を出せていないというのも私を憂欝にさせている原因だった。
今のところ、私は完全に後手に回っている。こちらの行く先々で蓮沼が現われる。
蓮沼は奥野からどんなネタを捻り出しているのか。いや、森川に対し罠を張っているという言い方の方が正しいだろう。
調査をしていく一方で、蓮沼の奥野に対する行為は少々大袈裟すぎる気がした。
たかだか、森川一人を引き込むために、わざわざここまでする必要があるのだろうか。
単に蓮沼が周到なだけなのだろうか。それとも別の目的があるのか。そこまでして、森川を抑えたい理由が、蓮沼にあるのだろうか。
全てが不可解だった。
もし、会食の席で、神山に吊し上げを食らうようならば私は仕事を断るつもりであった。
だが、果たして辞められるだろうか。
プロとしての意地もある。個人的な興味もある。私自身この調査を最後まで続けてみたかった。
そして瑞貴のこともある。今調査がストップすれば、私に利用価値が無くなり、瑞貴も私との繋がりを絶つだろう。それが一番避けたかった。
私は苦笑した。自らで自らの首を絞めている。
神山はともかく、瑞貴との関係は今後とも継続していきたい。その為にはもう少し親密になる必要がある。この前ような雰囲気では距離をつめることもままならない。
真意を聞き出すにはあと数回、会う必要がある。そのためには今のこの調査を続行させる必要がある。つまりはクライアントの接待は必要不可欠だった。
タクシーは住宅街の中へ入っていた。場所が場所だけに、富裕層が住むような高級マンションや大きな家が立ち並ぶ。
一画でタクシーが停止した。私は金を払い領収書をもらうと、タクシーを降りた。
木造の塀に囲まれた店構えである。
創作懐石を食べさせる店で、有名料理店で修業を積んだ職人が腕を振るう店らしい。おそらく神山が普段から、業界関係者との商談や打ち合せに利用しているのだろう。
入り口で私を迎えた仲居に自らの名を告げると、奥に通された。
店は、廊下の床や壁、生けている花や花器、美術品に至までたっぷりと金を掛けている。
私のような地を這いつくばるような庶民が決して出入りできるような店では無かった。
この国を動かすような連中が密談を行なうために利用するような店なのだろう。
渡り廊下から石庭が見える。
「――こちらでございます」
仲居が膝を折り、障子を開けると、私を中へ促す。
部屋には一人の男が待っていた。
歳は50に手が届くくらいのはずだが、30代でも十分通る。
金持ち特有の脂肪の塊ではなく、一八〇前後の長身で、スリムな肉体に高級そうなダブルのスーツを着こなしている。おそらくスポーツかジムで身体を鍛えることは欠かしていないだろう。
顔の肌は黒光り、全身から精気が漲っている。髪に白いものは一切混じってなく、黒々とし、後に撫で付けている。柔和な形になっている眼窩の奥は鋭い。
全体的に落ち着いた大物の雰囲気を身体から発している。
男は立ち上がると、手を差し出す。
「お初にお目にかかります。神山です。お噂はかねがね――」
声も驚くほど若かった。低音でありながら、よく通る。
私は気圧されたのか、神山の手を握る。面積が広く長い指だった。腕には白色の光を放つケースの時計を見た瞬間、私は思わず目を見張った。
「……パテックフィリップですか?」
私は思わず口にしていた。
「よくご存じですね。ワールドタイムです」
神山は自慢げに言う。
ホワイトゴールドのケースが輝いている。
物の価値も分からず流行りもののフランクミュラーや金ムクのロレックスを巻くような趣味の悪い男ではないらしい。
「時計がお好きなんですか?」
「ええ。まあ……」
神山の問いに、私は曖昧に頷く。探偵稼業の悲しい習性だった。身につけている装飾品から、行きつけの店を割り出すことが良くあるため、自然とブランド品には詳しかった。
「……時計もタレントも同じですな。金と手間が掛かる」
時計を見ながら言う神山の言葉は重かった。
「だからこそ愛着が湧く」と私が言うと、「その通りです」と神山は同意した。
「小田から話は聞いていると思いますが、根津さんにはご足労いただき感謝の極みです」
神山は頭を下げる。どうやらこの男馬鹿ではないらしい。社会的地位がありながら礼儀を弁えている。
だが、多少演技じみていることも否めなかった。
「お座りください」と神山に促されるままに私は席に着く。正直、神山の視線を受けとめるのは私にとってかなりの負担だった。
「瀬川さんは災難でしたね」
私は言った。
「……いえいえ、いい薬ですよ。この業界の女は男を見る目が無くてね。まあ、狭い世界で出会いも少ないですから仕方がないんです。私も多少大目に見ていますが」
いやにあっさりした言い方だった。神山はもう瀬川に関心が無いのかもしれない。確かに恋愛に狂った女タレントを制御するのは、面倒で労力がいる。
「瀬川さんと相手側の男の今後は……?」
「別れさせました」
神山は事無げに言った。
「スポンサーの契約の手前もありますからね。違約金を相手側にちらつかせたらあっさり引き下がりました。瀬川も納得積みです」
神山に凄まれたら、そうなるだろう。
自社タレントへの対応と神山の決断の速さに、私は恐くなった。まったく他人事ではない。
「調査の方はどうでしょう?」
神山が尋ねてきた。
「お恥ずかしい話ですが、はっきり言って芳しい成果は上げていません。今関係者と接触しようとして色々探りを入れて入れますが……」
「……調査はまだ始まったばかりでしょう。期待していますよ」
神山の一言に身震いする。
私の愚にもつかない曖昧な答えに嫌味を言うどころか、応援した。尻の穴がこそばゆくなった。
やはり何か思惑があるのだろうか。今日は、いやに疑心暗鬼になっている自分に苦笑することはなかった。それだけ目の前の男は油断ならない。無意識的に堅くなっている自分がいた。
障子が開き、料理が運ばれてきた。
寿司の盛り合わせ、天麩羅や揚げ物、刺身の盛り合わせ、お吸い物などがテーブルに並んでいく。
高級食材をふんだんに使い、生み出されたものだということは、容易に想像が付く。
口のなかに入れると板前の仕事の凄さがよりいっそう理解できた。
私は箸で料理を口に運びながら、次に何を尋ねるか考えていた。
ここで一発、私の方から打って出たほうが、いいのかも知れない。
「神山さん、一つお聞きしたいのですが?」
私は切り出す。
「なんでしょう」
「藤崎のネタを仕掛けたのは貴方なんですか?」
「いきなり核心を突いてきますね」
神山は苦笑する。
「――我々も驚いているんですよ、実は」
「つまりあなた方ではないと……?」
「ええ」
「では、伊沢達也と藤崎理奈の関係はご存じだったんですか?」
私の問いに神山から笑みが消えた。
「そもそも、何故伊沢達也の調査した理由は……? そして芹沢玲香の元マネージャーの捜索に切り替わったのか、その訳をぜひお聞かせ願いたい」
私の問いに、神山はただ黙って視線を送るだけだった。
「そして、私が森川を捜しだした後、彼をどうなさるおつもりですか?」
神山はお銚子を取ると、「確かに伊沢達也は藤崎と付き合っているという情報は事前に入手していました」と答えた。
神山の言葉に私は顔が強ばることを意識せずにいられなかった。
「――ですが、あくまで信憑性に乏しい情報でした。だからあなたに依頼したのです」
私は神山の言葉に箸を止めた。
「……逆にお聞きしますが、仮に伊沢が藤崎と付き合っているということを伝えていたら、あなたは動いて頂けましたか?」
私は神山の問いに言葉に窮した。
「我々、芸翔はここ数か月何度もタレントのスクープ攻勢に曝されていました。セレブであるのは明白です。我々としても手を打ちたかった。だからこそ根津さんに伊沢達也の調査をしたのです。ご理解頂きたい」
納得できなかった。
そして芸翔はいや、神山はやはり何かを掴んでいるという予感がした。今度は藤崎に狙いを絞るのだろうか。また何かしかけるつもりなのか。
確信が無くて、いまいち踏み込めない。神山の機嫌を損ねかねない。
「互いに話し合ったうえでシェアの分け合ったほうが懸命なのでは?」
私の意見を神山は鼻で笑った。
「私はともかく、物部がそんな生温い提案を呑むと思いますか?」
「呑まないでしょうね」
私の答えに神山は再び笑う。
「物部は私が同じ土俵にいるという認識すらできていない。しかももはや私に追い詰められて土表ぎわだというのに、だ……歳は取りたくないものです」
物部をここまでこき下ろすなど、さすがは芸能界を物部と二分する男である。考え方や仕事のスタンスがまったく違う。
「物部に私の存在を認めさせるには、乱暴だが情報戦をこちらから仕掛けるより無い。ときに根津さん――」
突然名を呼ばれた私は「はい?」と聞く。
「いま、現在セレブで使いものになるタレントは何人かだと思いますか?」
「……さあ。何人ですか?」
関心の無い話だった。芸翔であろうが、セレブであろうが芸の無い連中が跳梁している事に代わりはない。作り上げられたタレントには興味はない。
神山は座りを直すと「藤崎玲奈だけです」と乗り出すように言った。
「……事実上、一人なんですよ。後は事務所の営業力とゴリ押し、マネーパワーによるものだ。だから向こうは情報戦を仕掛けるより他ない。それしか無いんです」
「……著作権ビジネスをお忘れですか。物部は多大な原盤権を持っている――」
セレブのもう一つも側面であり、根幹でもある原盤権の掌握――所属するアーティストのみならず、さまざまな有名歌手や作曲家からスキャンダルや契約を楯に、弱みに付け込むこと楽曲の原盤権で奪い取った。
原盤権は莫大な金を生む。セレブの屋台骨が揺らぐなど到底思えない。
「知的所有権ビジネスか……」
神山は鼻で笑った。
「――物部の生命線である著作権ビジネスも、違法コピーの横行により尻窄みになるのは必定です。アメリカのメジャーレーベルですら潰れるくらいの時代ですからね……。いかに法を整備しようと無駄なことだ。次の潮流が音楽配信となりつつある音楽業界においてあがりは薄くなる一方だ。昔のような莫大な利益はもはや望めない――」
私は神山の冷静で見事な現状分析に正直舌を巻く思いだった。あまりにも正鵠を射ている。
芸能プロの幹部は現状分析というものができない。過去のやり方に固執し、周到するのが芸能プロの伝統だ。特に最近はタレントを育成するという考えは希薄で、宣伝費にやたらと金を賭ける。
音楽配信の流れはもはや時代の流れといってよい。その潮流はいかに芸能界の帝王といえども留めることはできない。再編は求められ、すでに始まっている。業界人ですら、想像もつかないくらいの速さで、だ。
スマートフォンが主流になりつつある今、さらに加速するだろう。
神山は中々先見性がある。芸翔のトップは伊達ではない。
「それに好き好んで、過去のソフトにわざわざ金を払う馬鹿がどこにいます……? リメイクなどの小手先で大衆を欺くのは限界がある――」
そう言うと神山は酒を煽る。
「特に今は韓国勢の台頭もめざましい……と」
私も知ったようなことを言うと、神山は渋い顔になる。
「……ええ。にもかかわらず、今だにセレブは雑誌や放送による情報操作やイメージ戦略より大衆をだませる思っている。実に前時代的だ。このIT社会に於いて時代遅れも甚だしい。ネットの掲示板をご覧なさい。大衆は我々が思っているよりずっと聡明だ」
「――そうですね」
私は同意した。
「そんな、時代錯誤な芸能プロとシェアを分け合う理由がどこにあります? この際、物部には己れの力の衰えを十二分に理解してもらう必要があります」
神山の宣戦布告そのものだった。
「藤崎理奈に関しては、私はアクティブが仕掛けたものだと考えています」
「それはないでしょう。アクティブは、セレブと懇意だ。仕事上の仲間といってもいい。その関係を壊してまで、こんなことをするはずが無い」
「――先日、アクティブスターの社長に酒の席に誘われましてね」
私は料理を吹きだしそうになった。
「……アクティブ側は今後セレブと一緒にやっていくことはジリ貧を意味すると考えている。ゆえに我々芸翔と関係を深めたがっている」
「……本当ですか」
「乗り換え時というのもありますでしょう。何事も――」
神山の言葉に、私は肝が冷える思いだった。
「私としても芹沢玲香のみならず前々からアクティブのタレントの層の厚さには個人的に注目していました」
「……マネージャーを抑えたところで何ができるって言うんですか? 彼はなにか芹沢玲香の弱みでも握っているんですか?」
「その通りです――」
神山は認めた。
「――件の男は、芹沢玲香に関して決定的なネタを所持しているようなのです」
「なんですか、それは……?」
自らの好奇心を抑えられず、私は思わず尋ねていた。
「芹沢玲香の芸能生命を奪いかねないものとでもいっておきましょう――」
神山は言い切った。
特ダネと称し、芸能事務所に近付いてくるこの手の業界関係者は跋扈する。そんな連中をいちいち相手にするほど芸能事務所は暇ではない。
決定的な何かを神山は掴んでいるのだろうか。
「……今回の話を偶然聞き付けましてね。私の方からアクティブに事態の収拾を持ち掛けました。アクティブと私の間では、全て私に任せてくれるとのことで話は着いています」
私は自分が巻き込まれている事態の大きさに、身震いする思いだった。
「アクティブとしては広告主との契約の関係上、芹沢を守ってほしい、と。そのネタを森川が所持していた場合、もしこれが社会に流出すれば、芹沢玲香のタレント生命はもちろんですが、アクティブが大打撃を喰らうのは必至です。その損害は億単位に達するでしょう」
私は全身の肌が粟立った。恐怖によるものなのか、興奮によるものなのか、自分でもわからなかった。頭をフル回転させても、答えを弾き出すことができない。
「……神山さんは森川氏をどうするおつもりですか?」
私は神山に尋ねずにはいられなかった。
「ネタを奪って、アクティブから芹沢玲香でも引きぬくつもりですか?」
私は疑問を神山にぶつけていた。
「私としてはアクティブと良好な関係を築くためにアクティブを支援したい。互いが発展するためにも、障害は取り除いておきたいということです。ただそれだけですよ。アクティブのやり方がどうであれね……」
芸翔が後ろ盾になることにより、アクティブは強固なものとなる。互いの利害は一致する。
「セレブも森川のネタを入手することで、芹沢玲香を引き抜きたい……?」
「そういうことでしょう」
神山は頷く。
「……はっきり言って、自信がありませんね。セレブはすでに各方面に圧力を掛け始めています」
私は本音と事実を言った。
「私が貴方を全力で護るとおっしゃっても?」
神山が言った。白々しい言葉だった。
「……頼もしいですね。本当のことならば」
神山の口元に笑みが浮かぶ。ぞっとするような笑みであった。
「調査の方はそのまま続行してください。もしセレブがなにかしてくるようならすぐに私にご相談してください。すぐに手を打ちます」
「確認しておきたいのですが、私の仕事は捜索対象者を捜し当てることでよろしいのですね。彼が所持するネタを回収するのではなく……」
「はい。潜伏場所を見つけしだい、後はこちらで森川と直接話を付けます」
神山自身半信半疑なのだろうか。いや、少なくとも神山は確信を得ている。
「いずれにしろこちらは後手に回っている。セレブの幹部の一人が森川氏の関係者に接触しています」
「誰ですか?」
「現在調査中です」
私はあえて蓮沼の名を伏せた。
「今、調査対象の関係者の口を割らす為に関係者の周辺を洗っています」
「ほう」
「アクティブスターの社員なのですが、ただ接触しただけでは口をおそらく口を割らないと思いますので、少々乱暴な手を使おうと思っていまして……。接触してもかまいませんか? もちろん神山さんの名は絶対に出しません」
「――かまいません。しかしながら、なるべく芹沢玲香本人には悟られないように事をすすめて頂きたい。本人はまだ、このことを知らないので――」
「心得ました」
私の言葉に神山は微笑む。再び悪寒が走る。
「……やはり、根津さんと会って正解でした。写真や聞き伝えでは人柄というのはわからない。本人と直接会うのが一番だ。今日の食事は実に有意義なのもとなりました」
上機嫌な神山とは対照的に、営業用スマイルを必死に繕う私の中に不快さと不可解さが渦巻いていた。