六本木での張り込み
私は奥野の自宅アパートを張り込んでいた。
奥野の自宅は中野にある。安月給のサラリーマンにふさわしいアパートだった。二階建の壁の薄そうな作りで、申し訳なさそうに非常階段が備え付けられている。双眼鏡を使わとも人の出入りがよく見えるため、張り込みを行なうのにこれほどやりやすい建物はないともいえる。
奥野の自宅住所はえりを通してアクティブスターの社員名簿を入手することで割り出した。奥野のシフトに関しても同様に把握済みである。
今日森川は仕事は休みである。動きはない。
芸能事務所と聞こえはいいが、ハードな仕事のわりには薄給の為、人材の流動が激しい。慢性的な人不足であるのはどこの事務所も似たり寄ったりだ。就職情報誌を見れば、その事情が垣間見れる。休みは極端に無い。
逃亡中の森川が身を寄せる所はどこだろうかと考えた場合、真っ先に考えられるのはやはり奥野だということに結論が至り、私は奥野の自宅近辺を探ってみた。だが、森川と思われる男が出入りしている形跡や目撃情報はない。
しかし情報交換をしている可能性は捨てきれない。私は奥野の行動確認を実行に移した。
森川を確保するには奥野という情報協力者が必要不可欠だった。なんとしてでも奥野を私の側に引き込みたい。金で転ぶような男ならば芸翔に出させるつもりだった。
時間は午後二時を回ろうとしている。昼の生温い眠気が私をそろそろ蝕みつつある。
携帯電話の振動が、私を睡魔から救い上げた。宮島だった。
――……マッシブですけど、裏取れましたよ。知り合いにマッシブに寄稿しているライターがいましてね。今回のネタ、ライター仲間でもかなり話題になっていましたよ。
相変わらず回りくどい。それに腹を立てていてはこの男と付き合えない。
――で、ネタの出所なんですが、一般人かららしいんですわ。
「ほう」と、私は声を上げる。
――……あそこは、業界人から一般人まで手広く、現金買取でネタ仕入れているんでしょう? それです。
マッシブの紙面には毎号ネタ募集の告知が掲載されていることを、私は思い出した。ゴシック体でデカデカと賞金金額を表示している。
「ライターや記者ではないうことか……」
バーターが無いということはそういうことだろう。
マッシブは他の雑誌とは違い、芸能事務所と関係が深い記者が関わっていない。当然、芸能事務所からの情報提供は無い為、自分達で掻き集めるしかない。ゆえに扱うネタに無用な圧力が掛からず、死蔵されることはない。記事も新鮮で過激になる。
だが馴れ合いが無いということは、互いの落としどころを話し合うこともなく、当然芸能事務所との関係は険悪となる。その後は裁判ざたになりかねない。
しかし本は売れる。マッシブはそういうやり方で、業界に一石を投じてきた。
――ネタは、匿名で送られてきたらしくて、電話でやり取りをした後、指定口座の方に振込みを希望してらしくて、ネタ提供者との直接的な接触は無いそうです。まあ……、マッシブ側もネタに困ってたらしくて、渡りに船ということで編集長判断で買取を決断したそうです。
私は編集長の裁量に感心した。今の時代、簡単に芸能事務所の圧力に屈する連中が多い中、中々の人物のようだ。一度会ってみたいものである。
――マッシブはいつもより増刷して、このネタで今回勝負を掛けたらしんですけど、おかげで売れ行きは好調らしいですよ。
「セレブの対応は?」
――さっそく藤崎のお着きの人間がクビになりました。事務所の方も犯人探しに血眼になってますね。
携帯電話の画像から言って藤崎理奈近辺の関係者に間違いない。友人、仕事仲間などをアクティブが買収したとなれば説明がつく。
私はあることを宮島に聞きたくなった。
「……桧垣恭吾について何か知らないか?」
――何でですか?
宮島は尋ねてきた。
「芹沢の共演時のドラマの事情を関係者から生で聞きたいのでな――」
調査にはまったく必要がない事柄だった。
個人的な興味だった。もちろん瑞貴についてだ。瑞貴との事情や、そして関係があったかどうか、知りたかった。
私情が入り込んでいる――悪い癖だ。
――女遊びが祟って、今仕事干されてるって話です。繁華街を飲み歩いてるって話ですけど……。
「また、蓮沼か?」
――……おそらくは。
「住所知ってるか?」
――ちょっと、分かんないっすねえ……。
宮島の言葉を待っていると、奥野の部屋のドアが開いた。
「悪い。動きがあった。また掛け直す」
私は電話を切ると、車のキーを回した。
六本木外苑東通りの飯倉方面に、灯に照らしだされた東京タワーの姿が浮かび上がっている。森川を尾行し続けすっかり日も暮れていた。六本木が眠りから醒め、遊びたい盛りの若さをもてあました連中や外人たちで溢れかえようとしている。
常々思うことだが、六本木は仕事がやりづらい。
人の通りが多いうえにフランクな黒人の客引きは強引で目障りだし、暴力団の連中と思われるゾロ目のナンバーの高級車が我が物顔で駐車している。黒人はともかくヤクザに絡まれでもしたら面倒だ。
出版社のスクープ隊と思われる車両とバッティングすることもしばしばだ。隠しカメラを設置するポイントもない。
そんな悪条件の中、私はとあるビルを監視していた。車をビルの斜向かいの通りに停め、ビル入り口を出入りする人間を双眼鏡で確認するという実に古典かつ効率の悪いやり方だった。
外苑東通り添いの脇を入った奥にあるビルだ。ビルは居酒屋チェーン店やクラブのテナントが入っていて、他に高級キャバクラが存在する。業界関係者の間では、芸能人がよく利用する事で有名な店だ。
奥野には似付かわしくない場所だった。安月給のサラリーマンごときが妄りに出入りできるところではない。まさかスカウト目的ではないだろう。
尾行を開始してすぐに奥野は、銀座へ向かい、高級ブティックの直営店を数件回った後、寿司屋で早めの夕食をとった後、六本木へ移動していた。
奥野は銀座で一人の女と合流いた。
女は二十歳前後で一見お嬢様風だが、よく見ると化粧が濃く、身につけているものも高級品ばかりだった。
えりの言っていた奥野がハマっているキャバ嬢に間違いない。素人さを売りにするような六本木によくいるタイプのキャバ嬢だ。育ちは良く、おそらく昼は大学に通っていて、アルバイト感覚で夜の仕事に従事しているのだろう。奥野との行動も、同伴だろう。
私は張り込みを続けながら、キャバクラに潜入するかどうか迷っていた。
ただのキャバクラではない。高級キャバクラである。普通のキャバクラならともかく、高級キャバクラともなれば調査経費は莫大なものとなる。
依頼人に確認する必要がある。だが、先日の一件が電話することを躊躇わせていた。
携帯が震えた。
開くと、携帯の画面には「小田」という名が表示されている。
苛立ちや不信感を抑えながら私は「はい」と電話に出た。
――……根津さんですか。
小田の呼ぶ声に、私は何も答えない。
――……わざわざ出向いて頂きながら、このたびは申し訳ありませんでした……。
小田は、すまなそうに言った。長年の経験で身につけたであろう交渉術に私は苦笑する。そもそも小田に腹を立てても意味が無い。
「――伊沢さんの調査を進んでいますか?」
私は皮肉をこめて言うと、小田の誤魔化しともとれる笑い声が聞こえてきた。
――それですが、ご説明も兼ねて、せめてものお詫びに神山が根津さんをお食事に誘いたいと……。
「神山……社長の神山さんのことですか?」
――ええ。
我が耳を疑った。芸翔のトップが一調査屋を飯に誘うなどありえない。いや尋常でないと言うほうが正しい。
「……お断わりしてもよろしいですか。お偉いさんと飯を食うのは性に合わない」
――そこをなんとか……。
小田は食い下る。
神山の私の顔を覚えられるのは避けたい。今後、度々便利屋のように使われるのもイヤだった。今回のことで芸翔の仕事はしばらく受けないことに決めていた。
だが、神山の真意を知っておくことは今度の私の行動を決める上において確認しなければならないことであるのも確かだった。
私の足元は薄氷の上にある。
依頼において成果を上げていないという負い目もあった。もっともそのことで攻められるようならば、この調査は即刻打ち切る。芸翔との付き合いもこれまでだ。
「――わかりました。返答に少々時間を頂きたい」
私は返事をわざと濁した。腹は決まっているのに、単に勿体付けたかっただけだ。
――そうですか……。
「……話は変わりますが、いま調査対象の関係者を張り込んでいましてね……」
――はい。
視線の先で、黒塗りの車が一台止まっていた。
「六本木の高級クラブなんです。場所が場所だけに経費が掛かると思われますが、潜入を認めて頂きたいのですが……」
――分かりました。私の方から言っておきます。
「よろしくお願いします」
「では」というと私は電話を切った。私はビルへ向かうため、車を移動させようとする。
ハンドルを握る手が硬直した。
視線の先の車の屋根から一人の男が見えた。
双眼鏡を取り確認する。
その中に見覚えのある男がいた。
蓮沼だった。