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子供でも読める短編

トイレ掃除のジレンマ

作者: 響音(ひびね)
掲載日:2026/04/29

「おかえりーお疲れサンバー」

家のドアを開けたら、鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌の妻の紅子が立っていて、詩郎は面食らった。今日はどんよりと葬式みたいになっているか、活火山のように爆発しているか、どちらかだと思っていたからだ。

「どうしたの…?」

「え?何が?」

「機嫌、良さそうだね」

「そう?ふふふ」

踊りそうな足取りでリビングに戻る途中、廊下にあるトイレに向かって

「ちょっと、数也!そこ!ちゃんと拭いて!サボったら追加で1日増やすよ!」

と語気強めに声をかけた。

「はぁぁぁい」

気のない返事がしたので、詩郎が紅子の後ろから覗き込むと、苦虫を噛み潰したような顔をしながら数也がトイレの中をブラシでこすっていた。

「え?数也がトイレ掃除?」

リビングに入ってそう紅子に質問すると、紅子は「ふふん」と鼻を鳴らした。

「そうよ。あ、スーツを置きに2階に上がるわよね?私も行こーっと」

トントンと足取り軽く2階にあがっていく紅子の後ろをついていくと、階段を上がりきった正面にあるトイレに今度は、

「理人!あんたも!もーほんとに!そこもちゃんと拭いて!サボったら1日追加で増やすからね!」

と再度語気強めに声をかけた。

「はぁぁぁぁい」

詩郎がこちらも後ろから覗き込むと、こちらもトイレの壁を拭きながら、しょぼくれた表情で、数也と同じ顔の双子の理人が見上げてきた。

フンフンフーン、と本当に鼻歌を歌い出しながら先にリビングに戻っていた紅子に、詩郎が着替えて部屋着のカーディガンを羽織りながら階段を降りてきて再度訊いた。

「どうしたの?」

「え?何が?」

「なんで数也と理人はトイレ掃除してんの?今までしたことなかったよね」

「ふふーん」

紅子が得意そうに鼻を鳴らした。

「数也と理人、夜中にゲームしてるみたいって話したじゃない」

「あ…うん」

今日、紅子の機嫌が悪いだろうな、と詩郎が思っていたのは、この問題だった。子どもたちには『ゲームは夜8時まで』というルールを課しているのだが、一昨日、紅子から

『数也と理人が寝るフリしてベッドでゲームをしてるっぽい』と相談を受けた。

(最近、寝るのが早いな。感心感心)

なんてのん気に考えていた詩郎は、ブツブツと怒っている紅子に、内心バクバクしながらも表面上は殊勝な顔で

『うん、そうだね。俺もそう思っていたよ』

と深くうなづいた。

『朝起きてくるのも遅いし、起きてきても眠そうだし。怪しい』

といっていたのだが、何しろあの双子は紅子の子らしく頭が切れるため、なかなか尻尾を掴ませなかった。それに紅子はここのところイライラしていたのだ。

「それが今日、ベッドにゲーム機があってね」

数也と理人が一緒に寝ているベッドのことだ。どちらかが片付け忘れたのだろう。

「あんたたち、隠れてゲームしてるでしょ!って言ったんだけど、2人ともしらばっくれて」

ああ、と詩郎は間の抜けた声を出した。きっと数也は、好きなマンガの主人公がよくやる、右上を見ながら音の出ない口笛を吹く、というとぼけ方をして、理人は下を向いて目をキョロキョロさせて突っ張った腕でTシャツの裾を握りしめながら「し、知らない」とでも言ったんだろうな、と想像がついた。

「だからね、条件を出したの。あなたたちどっちかが罪を認めて、もう一人が黙ってたら、正直に話した方は無罪にしてあげる。もう一人は2箇所のトイレ掃除を1ヶ月間すること。でも、2人ともしゃべったらトイレ掃除それぞれ1箇所ずつ一週間すること。2人ともしゃべらなくても、2人ともトイレ掃除1箇所ずつ3日はさせるわ。さあどうする?って。そうしたら、2人ともペラッペラしゃべりはじめたの。だから2人とも1週間トイレ掃除〜」

「おお、すごいな。手品みたいだ」

紅子が得意気に「フンッ」と鼻を鳴らした。

「ん…?あれ?それ、なんか似たようなのを聞いたことあるな…」

「さすが詩郎さん、『囚人のジレンマ』よ」

「あー聞いたことあるけど、なんだっけ、それ」

「ノイマンのゲーム理論のひとつよ。私も実際には初めて使ったけど、こんな風になるのねぇ」

歌うように紅子が言う。

「あー。聞いたことはあるけど、詳しくはわかんないなあ」

紅子はキッチンで冷蔵庫からキャベツを取り出しながら答えた。

「今回、パターンは3つあったわけよね。

お互い黙ってたら2人とも3日トイレ掃除。

2人とも自白したら2人とも一週間トイレ掃除。

片方が自白してもう片方が黙ってたら、自白した方は無罪放免、黙ってた方はトイレ掃除1ヶ月」

「うん。そうだね」

「ってことは、お互いに『自分が自白して、相手が自白しない』だったら自分は無罪放免になるから、それが一番いいでしょ」

「そうだね。もし自分が黙ってて、相手がしゃべったら、自分だけトイレ掃除1ヶ月になるんだもんね。ああ、だから、数也も理人もしゃべりはじめた、ってことか」

「そういうこと。でもお互いの一番の利益を考えたら、本来は『2人とも自白しない』が一番いいでしょう?」

「2人とも3日で済むもんね」

「そうそう。つまり、2人とも黙ってれば3日で済むのに、お互い『自分の最大の利益は何か』と追求した場合、『自白する』とした方がいいわけよ。っていうか、それが合理的。でも、罰はお互い一週間に伸びる。これが『囚人のジレンマ』」

「ああ、2人がお互いに信頼できれば罰は3日で済むのに、それぞれ自分の利益を追求しちゃった結果、罰が一週間に伸びる、ってことか」

「そうそう」

「あれ?でも、なんでこれ、『囚人』なんだっけ?」

「もともとの例えがね、囚人が捕まったときに、2人とも自白しなかったら2年の懲役、二人とも自白したら5年、一人が自白してもう一人が自白しなかったら無罪と10年、って考えるの。だから『囚人のジレンマ』って名前がついてるわけ」

「なるほどね。それの応用だったわけだ」

「そゆこと〜」

「何はともあれ、トイレ掃除が楽になってよかったな」

「でしょ〜?これからちゃんと掃除したかチェックしないとだから、詩郎さんもそこんとこ、こまめによろしくね!よかったら見てきて、もう一回」

フンフンフーン、とキャベツを切っていく紅子を見ながら、もう一度トイレを周る。2人ともブツブツ言いながら、言われた手順通りこなしているようだ。

「大丈夫そうだよ」

「あら、よかった。もうこのままトイレ掃除係に任命しようかしら」

ニヤリと笑う紅子に、詩郎は苦笑した。

「流れで係に任命すると、反発するかもしれないから、そこは応相談だな」

「それもそうね。あ、詩郎さん、ピーマン冷蔵庫から出して」

詩郎は、てくてくとキッチンに歩いていき、冷蔵庫の引き出しを開いてピーマンを発見した。

「何袋?」

「2袋〜」

「はーい」

ピーマンを2袋取り出し、流しの近くに置く。

「ん、ありがと〜」

キャベツをフライパンに入れながらそう言った紅子に、詩郎は質問した。

「紅子さんだったらどうする?」

「え?何が?」

ピーマンを袋から取り出して洗いながら、詩郎が続けた。

「いや、もし、ね。紅子さんが俺と一緒に犯罪を犯して、一緒に刑務所に捕まったらどうする?一緒に2年服役する?それともしゃべっちゃう?」

「んーそうねぇ。私はしゃべらないかなあ」

「そうなんだ!それだけ俺は紅子さんに信頼されてるってことだね」

そう言いながら、ピーマンをまな板に置いていく。

「んー、信頼、というよりは」

「え?」

ピーマンを包丁でリズムよくダン、ダンと半分にする紅子がつぶやいた。

「もし詩郎さんがしゃべって私が10年収監されたとして、10年後、私が刑務所から出てきたあと、無事でいられると思わないでよね、草の根をかき分けても、地の果てまで逃げても、必ず見つけ出してあげるから、覚悟しといてね、って感じかしら」

見上げながらニッコリと笑った紅子に「ひっ」と詩郎はのけぞった。

「お母さーん、終わったよー」

「こっちもー」

と声が聞こえ、

「はいはーい、ちょっと待っててねー」

と紅子は包丁を起き、トイレに向かった。

「よし。合格。お風呂入っといで」

「はー、やっと終わった…これが1週間とか、地獄…ねえ、いつもより念入りにやらせてない?」

数也が恨めしそうに紅子を見上げる。

「そりゃそうよ。罰なんだから。明日もよろしくね!」

「へいへーい」

「じゃあ、理人の方も見てくるわ」

トントン、と紅子は階段をあがっていく。数也はキッチンにいる詩郎に気がつくと、

「お父さん、お母さんのこと、裏切らない方がいいよ。ずっと根に持つから。ほんとにやめたほうがいいよ。僕は今回心から学んだ。お父さんも気をつけて」

と真剣な表情で言った。さっきの会話を思い出していた詩郎は、

「そうだな。数也の言う通りだ。母さんを裏切るのは絶対にやめておくよ」

と真剣な顔で返し、2人同時に「うん」とうなづいた。



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