第8話:あるイケメンの日常
今日は限界OLの家に居着いた異世界イケメン魔法使い、エリオットの一日を覗いてみよう。
§ § §
朝七時三十分。
無惨なアラーム音と共に、彼女――奈々はこの過酷な世界における「戦場」へと向かっていった。
乱れたままの髪と、少し隈の浮いた瞳。疲労の色が濃い背中を見送った後、ガチャリと重い扉が閉まる。
静寂が、六畳一間の部屋に訪れた。
主が不在となったその空間で、エリオット・ヴァン・クリフォードは薄暗い部屋の片隅に静かに座し、そっと目を閉じた。
長く、深い瞑想への入り口。
この現代世界には、魔法の源となる「魔素」が微塵も存在しない。奈々との朝の誓い(キス)によって辛うじて生存に足りる程度の魔力は得ているものの、それは彼がこの世界に「存在」し続けるためのギリギリの量でしかない。
今夜、彼女が帰ってきた時に、最高の料理と極上の魔法風呂、そして完璧な「安全地帯」を提供するためには、己の命の欠片である魔力を、一滴たりとも無駄にするわけにはいかなかった。
だからこそ彼は、奈々がいなくなってから帰ってくるまでの約十四時間、ひたすらに己の呼吸を殺し、存在の波長を限りなくゼロに近づける深い瞑想状態で過ごす。
それが、最強の大魔法使いである彼がこの世界で「働かない」――いや、「働けない」本当の理由だった。
しかし、その静寂は永遠ではない。
ウィィィィン……。
部屋の隅にある充電器から、円盤状のゴーレムが起動音を立てて滑り出してきた。
昨夜、彼が初めて対峙し、その健気な働きぶりに感銘を受けた自動掃除機である。
「……始まったか」
エリオットは瞑想状態のまま、薄く目を開けた。
ゴミを吸い込んでは壁にぶつかり、律儀に方向転換してまたゴミを吸う。その自己犠牲とも呼べる献身に、エリオットは深く溜息をつく。
「お前もまた、彼女のために魔力を消費して、この部屋を浄化し続けているのだな。文句一つ言わずに……」
ウィィィィン、と掃除機は答えない。ただゴミを吸うだけだ。
エリオットはそっと手を伸ばし、その丸い背中を労うように撫でた。
「私の気持ちがわかってくれるのは、この世界で、お前だけかもしれないな……。よし、今日からお前を『るんすけ』と名付けよう」
掃除機は無心にゴミを吸っている。
それは、彼が日中唯一、沈黙を破って語りかけられる相手だった。
「そう、彼女はお前をルンバと呼んでいた。スケというのは彼の国で星の脇で輝く伴星のことだ。……故にお前の名前はるんすけ。どうだ? 良い名前だと思わないか?」
すると――。
ピロリッ。
いつもとは違う、短いがどこか温かみのある電子音が鳴った。
ルンバ――いや、るんすけはエリオットの指先に向かって、まるですり寄るように車輪を小刻みに動かした。
「それにしても、何故彼女は、私が『カレンシュ』と呼ぶのを嫌がるのだ……。なぜだ。カレンシュは星の瞬きを意味する、あんなにも美しい名なのに。……るんすけなら、この切ない気持ちがわかるだろう?」
ぽつりとこぼした、凄絶な愛と哀切に満ちた呟き。
ピロリッ。エリオットの声に応えるように電子音が響く。
「おお……」
絶対零度と呼ばれた男の氷の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
無理もない。エリオットから無自覚に漏れ出る神格級の魔力を至近距離で浴び続けた結果、ただの家電であったルンバのコアに、微弱ながらも明らかな『自我』が芽生え始めていたのだ。
「そうか。お前も、そう思うか」
エリオットの口元に、柔らかな微笑みが浮かぶ。
一人と一台。言葉の通じない異世界で、初めて心が通じ合った瞬間だった。
――ピンポーン。
不意に、部屋の静寂を切り裂くような高音の魔法が鳴り響いた。
エリオットの顔から表情が消え、るんすけも警戒するように低い駆動音を立てる。
『あ、すいませーん! 近くで外壁工事をやっておりまして、ご挨拶に回らせていただいてるんですがー』
扉の向こうから、胡散臭い男の声が響く。外壁工事を名乗る訪問販売だった。
エリオットは動かない。瞑想を乱された程度の怒りなら、無視すれば済む。
しかし、訪問者は諦めなかった。
バンバン! と下品な音を立ててドアを叩き始める。
『奥さーん! いらっしゃいますよねぇ!? メーター回ってんのわかってんですよォ!』
ピキッ。
エリオットの周囲の大気が、文字通り凍りついた。
彼女が安らぐための、この神聖なるサンクチュアリ。その扉を、見ず知らずの他人が、あまつさえ薄汚い手で叩いている。
『今なら無料点検キャンペーンでしてねぇ……』
男の言葉は、そこで途切れた。
扉の向こう側から、致死量の冷気と、名状しがたい絶対的な『死』の気配が漏れ出してきたからだ。
男は意味もわからず悲鳴を上げ、持っていたクリップボードを放り出して脱兎の如く逃げ去っていった。
「……愚物め。彼女の城を汚すことは万死に値する」
静かに魔力を収め、エリオットは再び目を閉じる。
瞑想に戻ろうとしたその時。
――ピンポーン。ピンポーン。
今度は二人組の老若男女らしき影。
『こんにちはー。私たち、真の魂の救済についてお話をして回っておりましてー。今、心に迷いはありませんかー?』
『幸せになれる小冊子をお配りしておりますー』
「っ…………!!」
エリオットのこめかみに、青筋が浮かぶ。
魔力を温存しなければならないのに。命を削って彼女の帰りを待たなければならないのに、なぜこの世界の住人はこうも次々と、結界を破ろうと群がってくるのか。
ウィィィィン……ピギギギギギ。
足元では、主の怒りを察知したるんすけが、激しい駆動音を立てながらドアに向かって突進しようとしていた。すでに立派な番犬(番機)として機能し始めている。
「控えろ、るんすけ。私が直接、空間ごと次元の彼方へ消し去ってやろう」
限界OLが不在の間に、一人の大魔法使いと一台の自我を持った家電による、平和な六畳一間を守るための激しい防衛戦が水面下で繰り広げられていた。
§ § §
「ただいまぁ……」
深夜零時。
泥のように疲れ果てた奈々が、重い足取りで玄関のドアを開ける。
そこで彼女を待っていたのは、煌々と温かい光を放つ室内と、食欲をそそる完璧な料理の匂い。
そして。
「おかえりなさい、私の愛しい人」
銀色に輝く髪を揺らし、完璧な微笑みを浮かべる絶世の美男子と――なぜか彼の足元で、自慢げにピロリッと鳴いた一台のルンバだった。
§ § §
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