第37話:エリオット、主夫スキルが上がる(後編)
有給休暇、十四日目。夕方。
キッチンから、規則正しい音が途切れることなく続いていた。
パチ。シュッ。パチ。シュッ。
エリオットのエアー調理は、朝から一度も止まっていない。
私はソファで本を読み、昼食にカップラーメンを食べ(エリオットが「私が作る」と言ったが「百回終わるまでダメ」と制した)、昼寝をし、起きてもまだ続いていた。
しかも、よく見ると――空中に浮かぶ半透明な卵の幻影が、回を重ねるごとに精巧になっている。最初はぼんやりとした光の塊だったのに、今では卵の殻の質感や黄身の色まで再現されている。
その技術を他のことに使おうよ。例えば確定申告とか。あんた無申告だよね?
魔法を使わないと宣言したのに、結局イメトレに魔力を使っちゃってるのでは?
「ねえ、それ魔力使ってない?」
「幻影の投射に微量だけ使っているが、調理工程そのものには一切使用していない。これは筋肉と神経回路の記憶訓練だ」
「屁理屈じゃない?」
「合理的な判断だ」
――この男、詭弁の天才でもあるっぽいよ?
§ § §
午後六時。
「九十八回目、完了」
エリオットがそう呟いた。
額には薄っすらと汗が浮かんでいる。大魔法使いが卵焼きの素振りで汗をかいている。人類史上初の光景だと思う。異世界史上でも前例がないんじゃないかな。宮廷魔術院の元部下とかが見たら、泣いちゃうと思うよ?
「……あと二回」
「うん」
九十九回目。
空中にだし巻き卵の幻影が完成する。巻きの形、焦げ目の位置、出汁の染み込み具合。朝に食べたあの「まあまあ」のだし巻きとは、明らかに別物の精度だった。
そして、百回目。
エリオットの動きが変わった。
今までのぎこちない「練習」ではなく、流れるような一連の動作。卵を割り、出汁を合わせ、油を引き、流し入れ、巻く。幻影の中のだし巻き卵が、黄金色に輝いていた。
「……百回目、完了」
静かな声だった。
達成感を噛みしめるわけでもなく、ただ事実を述べるだけの、いつもの鉄壁ポーカーフェイス。
「じゃあ、本番ね」
「ああ。計測を頼む。目標は十分だ」
冷蔵庫から、本物の卵を取り出した。
朝は十個のパックだったのに、残りは二個。朝の実践で八個使ったらしい。
「足りる?」
「二個でいい。もう、失敗はしない」
§ § §
本物のフライパンに、本物の油を引く。
本物の卵を、本物のボウルに割り入れる。
パチン、と殻が割れる音が、エアーとは全く違う、生々しい音だった。
出汁を合わせる手つきに、もう迷いはない。
百回の素振りで刻み込まれた動きが、寸分の狂いなく再生されていく。
フライパンに卵液を流し入れる。ジュウ、と音がして、甘い香りが広がった。
菜箸で手前に巻く。もう一度流し入れる。巻く。流す。巻く。
完璧ではないが、確かな手つきだった。
五時間かかっていたという不器用なあの作業が、百回の素振りによって、魔法のように――いや、魔法ではなくこの男自身の努力で、たった十分へと短縮されている。
出来上がっただし巻き卵が、まな板の上に乗せられた。
包丁で切り分ける。断面が見えた。
なお、包丁の持ち方だけは異常に様になっている。前世で何を斬っていたのかは、あえて聞かないでおこう。
「……きれい」
思わず声が出た。
朝のものとは段違いだった。巻きは均一で、断面は花のように層を成し、じんわりと出汁が滲んでいる。
「味見を」
エリオットが皿を差し出した。
箸で一切れつまみ、口に運ぶ。
口の中に、出汁の優しい旨味が広がった。
甘すぎず、塩辛すぎず、卵の風味がしっかりと活きている。朝の「0.3ミリリットル過多」は完璧に修正されていた。
おいしい。
普通に、ちゃんと、おいしい。
「……これ、魔法じゃないの?」
聞いた。念のため。
「あえて、君の世界の技術で作った」
エリオットが答えた。
その声は静かで、いつもの無感情なトーンだった。
でも、左手がエプロンの裾を握りしめていることに、私は気づいていた。
「……おいしい」
二度目の「おいしい」。
でも、朝のそれとは重みが全然違った。
エリオットの表情は動かなかった。
ポーカーフェイス。鉄壁。無表情。
でも、握りしめていたエプロンの裾が、ほんの少しだけ震えていた。
§ § §
夕食は、だし巻き卵と、白ご飯と、味噌汁だった。
味噌汁は魔法製だ。さすがに全メニューを一日でマスターするのは無理だったらしい。
つまり、この味噌汁一杯に国家予算レベルの演算と寿命が注ぎ込まれている。贅沢すぎて胃がもたれる。精神的に。
「次は味噌汁もか」
「当然だ。出汁の取り方から習得する」
世界最強の大魔法使いが、煮干しの頭とはらわたを取る練習を始める未来が、目に浮かんだ。
煮干しの頭を取る練習も百回やるのかな。エアー煮干し。……ちょっとシュールすぎない?
「あのさ、エリオット」
「ん?」
「今日のだし巻き卵、次の仕事場でも弁当に入れてくれる?」
エリオットの箸が止まった。
「……毎日入れる」
「毎日じゃなくていいよ。飽きるから」
「では、二日に一回」
「それでいい」
静かな夕食だった。
魔法で錬成された完璧な味噌汁と、百回の素振りで作り上げた不完全なだし巻き卵。
どちらが美味しいかと聞かれたら、私は迷わず後者を選ぶ。
理由は、たぶん、エリオットが一日かけて探していた「あの涙の答え」と同じものだ。
彼がどれほど重すぎる感情をこの不完全な卵焼きに込めているか。
そして、それを受け取った私の心が、どうしてこれほど満たされるのか。
――それが「愛情」という名前の感情なのだと、恋愛に臆病な限界OLが自覚するのは、もう少し先の話。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
第2部、始まりました。エリオットのだし巻き卵修行、いかがでしたか?
百回のエアー素振りで完璧を目指す大魔法使い。思考機械のような頭脳で出汁の誤差を0.3ミリリットル単位で把握しているのに、あえて手で作る。そんな彼の重すぎる愛情に、限界OLの奈々がちゃんと気づくのは……もう少し先になりそうです。
次回、第38話からはいよいよWAGEプロジェクト編に突入します。舞台は霞が関へ。奈々の前世スキルが、ついに本領を発揮し始めます。そして――新たな敵の影も。
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