第35話:泣いてもいいよ(後編)
内閣府主導の巨大プロジェクト。その民間選抜メンバーへの抜擢。
六年間の地獄のような日々が、一つの結果として結実した瞬間だった。
前世で磨いた公爵令嬢としてのスキルが、今度は正しい評価を受ける場所。
「意味のない苦しみ」ではなく、「意味のある戦い」ができる場所。
スマホの画面を見つめる私の口から、不意に言葉が漏れた。
「……泣いてもいい?」
声が、震えた。
エリオットは立ち上がり、テーブルを回って私の前に来た。
そして、膝をついた。同じ目線の高さで、蒼い瞳が私を見る。
「泣いてもいい」
言ってくれた。
「大丈夫だ」とも「頑張ったな」とも言わなかった。
ただ、「泣いてもいい」と。
それだけで、全部が溢れた。
「う……っ」
涙が出た。今度の涙は、辛いから出るのではなかった。
六年間、ずっとずっと我慢してきたものが、最後の一滴まで流れ出していく。
黒田の怒声も。白峰の嘘泣きも。終電の冷たいホームも。空っぽのティッシュ箱も。全部全部、この涙と一緒に流れ出して、消えていく。
エリオットが、何も言わず、ただ手を伸ばして、私の背中をさすり始めた。
大きな手。卵焼きとハンバーグと空間転移の魔法を同じ指で紡ぐ、不器用で温かい手。
§ § §
どれくらい泣いていたのだろう。
気づいた時、私はエリオットの胸に顔を埋めて、しゃくり上げる以外の機能を全て停止していた。彼のシャツは涙と鼻水でびしょ濡れだ。三度目だ。クリーニング代を請求されても文句は言えない。
「……ごめん。シャツ、また汚した」
「問題ない。十七回分の替えがある」
「十七回分って、どんだけ泣く想定なの」
「念には念を入れる主義だ」
笑った。泣きながら笑った。
情緒崩壊も三度目になると、もう恥ずかしさすら麻痺している。
エリオットの腕の中から顔を上げると、窓から差し込む朝の光が眩しかった。
「ねえ、エリオット」
「ん?」
「私、次の仕事が始まるまで、まだお休みもらえるみたい」
「そうか」
「だから、その……」
言葉を探した。何を言えばいいのかわからない。でも一つだけ、確かなことがあった。
「しばらくの間、ちゃんと、あんたのご飯を食べられる」
エリオットの表情が動いた。
ポーカーフェイスの奥で何かが弾けたように、蒼い瞳が大きく見開かれ、そして――ゆっくりと、細められた。
笑っている。
今度は、はっきりとわかるくらい、笑っている。
「ならば、献立を考えなくては」
声が、震えていた。エリオットの声が。
いつも鉄壁のポーカーフェイスで、何を考えているかわからないはずのこの男が、こんなにもわかりやすく動揺している。
「リクエストはあるか」
「……卵焼き。あの、最初に作ってくれた甘いやつ」
「承知した」
エリオットが立ち上がった。
キッチンに向かう前に、一瞬だけ振り返った。
「……待っていてくれ」
その一言の声色が、いつもと少しだけ違った。柔らかかった。温かかった。
キッチンに向かう背中が、少しだけ――ほんの少しだけ、弾んでいるように見えた。
私は、その背中を見つめていた。
あの背中に、さっきまで顔を埋めていたのだ。シャツの感触と、石鹸の匂いと、心臓の音。それらがまだ、指先と頑に残っている。
(……なに考えてるんだろう、私)
考えないことにした。今は、ただ卵焼きを待とう。
足元では、るんすけが嬉しそうにピロリッと鳴いて、エリオットの後を追いかけて行った。
§ § §
窓の外では、三月の風が桜の蕾を揺らしていた。
限界OL・小松奈々、二十八歳。
本日をもって、限界、解除。
前世で私を殺した(ことになっている)最強の大魔法使いは、今日も六畳一間のキッチンで、卵焼きを焼いている。
四十八回目の試作である。
今日の卵焼きは、いつもより少しだけ甜かった。
食べながら、さっきの涺の跡がまだ頬に残っているのに気づいた。エリオットが、私を見ないようにしながら、自分も卵焼きを食べている。人前で食べるのが、まだ少しだけ照れくさいらしい。
(……変なの)
この男のことを見ていると、胸の奥がきゅっとなる。
前は「恐い」だった。その次は「恐くない」に変わった。そして今は、「恐くない」のさらに向こう側に、まだ名前のない何かが芽生え始めている。
もう少しだけ、この温かい場所にいさせてほしい。
そしていつか、ちゃんと自分の足で立てるようになったら――その時は、この男に、もう一度ちゃんと言おう。
ありがとう、と。
それから。
まだ自分でも名前をつけられない、この胸の奥の、柔らかくて厄介な何かのことを確かめよう。
それは、石鹸の匂いがした。
To Be Continued……Act 2
§ § §
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
第35話をもって、第1章完結です。限界OLの六年間の地獄が終わり、新しい物語が始まります。
黒田の「ざまぁ」を見届けてくれた方。奈々の涙に一緒に泣いてくれた方。エリオットの不器用すぎる愛に胸を打たれた方。るんすけのピロリッに癒された方。
全ての読者の皆さんに、心からの感謝を。
第36話(Act2)からは、WAGEプロジェクトの舞台で奈々が前世の「公爵令嬢スキル」を全開にします。更なる「ざまぁ」、そしてエリオットとの関係の変化。
続きもぜひ、見届けてください。
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