第29話:大魔法使い、オフィスに降臨す(前編)
完全に意識を手放し、冷たいリノリウムの床に叩きつけられる。
そう思って、ぎゅっと目を閉じた。
――だが、衝撃は来なかった。
代わりに私を包み込んだのは、信じられないほど力強くて、暖かな腕だった。
崩れ落ちようとしていた私の身体を、正面からすっぽりと抱き留めるように、大きな手が背中と肩を支えている。
ほんのりと漂う、淹れたての紅茶のような香り。
「……え?」
恐る恐る、顔を上げる。
そこに、彼がいた。
空間転移の残滓の風に微かに揺れる、白銀の髪。
氷の底に焔を閉じ込めたような、深く、激しい色をした蒼い瞳。
六畳一間でエプロンをつけていた姿とはまるで違う、一点の皺もない漆黒のスリーピーススーツを纏った、人間の設計図に許されていないレベルの――絶世の美貌の男。
エリオット・ヴァン・クリフォード。
私の前世を終わらせた大魔法使いが、なぜかオフィスのど真ん中で、私を抱き留めていた。
「エリオット……!?」
掠れた私の声は、ひどく静かなオフィスに吸い込まれた。
周囲を見て、息を呑む。
私のデスクのすぐ横――空気に亀裂が入るように空間そのものが裂け、そこから蒼白い燐光のような魔力の残滓が、彼を取り巻くように漂っている。
同僚たちが、石像のように動けなくなっていた。
椅子に座ったまま、あるいは立ち上がりかけた状態で、呼吸すら忘れたように固まっている。
約三十名の人間がいるはずのフロアが、墓地のように静まり返っていた。キーボードの音も、電話の声も、コピー機の稼働音も、全てが止まっている。
恐怖ではない。圧倒的な「生物としての格の差」に当てられ、本能が硬直しているのだ。草食動物の群れの真ん中に、上位捕食者が降り立った時の、あの原始的な恐怖。
そんな異常事態のど真ん中で。
エリオットは私を抱き寄せたまま、ゆっくりと口を開いた。
「迎えに来た」
その声は低く、静かで、フロア全体を震わせるような明瞭さを持っていた。
「え……ちょ……」
待って。何をしてるの、この人は。
ここは会社だ。私の職場だ。あんたは六畳一間でるんすけと留守番してるはずでしょ。なんでスーツ着てるの。なんで会社にいるの。なんで空間が裂けてるの。
「なんで、ここに……!」
パニックで声が裏返る。
周囲の同僚たちの視線が、一斉に「あ、小松さんの知り合いなんだ」という方向に向いたのを感じた。いや違う、これはそういう関係ではなくて、いやそういう関係でもあるけど、でもそうじゃなくて――!
「話は後だ」
エリオットの腕に、少しだけ力がこもった。
私を支えるその腕だけが、この異常な空間の中で唯一、信じられないほど暖かかった。
§ § §
それは、月曜日の午後二時十七分に起きた。
後に、このフロアにいた全ての人間が口を揃えてそう証言することになる。もっとも、その「証言」の記憶すら、後からどこまで正確だったか怪しいのだが。
§ § §
最初に異変に気づいたのは、窓際の席に座っていた営業部の田中だった。
デスクの上に置いたコーヒーカップが、微かに震えた。中の液面がさざ波を立て、蛍光灯の光を細かく砕く。地震か、と思った。だがビルは揺れていない。揺れていたのは、空気そのものだった。
次に、フロアの奥で電話をしていた経理の鈴木が受話器を耳から離した。相手の声が聞こえなくなったのだ。回線の問題ではない。フロア全体を覆うように、低い、重い、耳の奥を圧迫する「何か」が広がり始めていたからだ。
蛍光灯が明滅した。
一度、二度。三度目に一瞬だけ全てが消え、闇が走り抜けた。
そして戻った光の中で、フロアの中央――正面エレベーターホールと執務スペースの境界あたりの空間が、歪んだ。
歪んだ、としか言いようがない。
空気に亀裂が入るように、空間そのものが裂け、その裂け目から蒼白い光が溢れ出した。光は瞬く間に渦を巻き、風を呼んだ。書類が舞い上がり、デスクの上のペン立てが倒れ、誰かの悲鳴が上がる。
だが風はすぐに収まった。
収まった直後、今まさに倒れようとしていた奈々を、美しい影が抱き支えていた。
§ § §
漆黒のスリーピーススーツ。
光沢を帯びた黒いジャケットの下に、一点の皺もない白いシャツ。精緻に結ばれたダークネイビーのネクタイ。磨き抜かれた黒い革靴が、リノリウムの床を鳴らした。
そしてその上に載っているのは、人間の設計図に許されていないレベルの――顔だった。
銀色の髪が、空間転移の残滓の風に微かに揺れている。彫刻のように整った横顔の輪郭。長い睫毛に縁取られた蒼氷色の瞳が、フロアを一望している。
オフィス全体が、凍りついた。
キーボードを叩いていた手が止まった。電話の途中だった声が途切れた。立ち上がりかけていた人間が、中腰のまま動けなくなった。
約三十名の人間が、呼吸すら忘れてその男を見つめていた。
誰にもわからなかった。
この男がどこから現れたのかも。何者なのかも。なぜ、オフィスの真ん中に蒼い光と共に出現したのかも。
だが一つだけ、全員が本能的に理解したことがある。
この場にいる全ての人間を足しても、この男には敵わない。
それは「戦ったら負ける」という次元の話ではなかった。もっと根源的な、生物としての格の差だ。草食動物の群れの真ん中に、上位捕食者が降り立った時の、あの原始的な恐怖。
認識阻害の魔法は、もう展開していなかった。
その必要がなかった。今この瞬間だけは、エリオット・ヴァン・クリフォードは「隠れる」ことをやめていた。悠久の時を経た大魔法使いの存在感が、何の遮蔽もなく、フロア全体に解放されている。
大切な壊れ物を置くように、奈々を椅子に座らせる。
そして、男は歩き始めた。
静まり返ったオフィスに、革靴の足音だけが響く。
コツ。コツ。コツ。
デスクの間を縫うように、迷いのない足取りで。
その進路上にいた社員が、まるで海が割れるように左右に身を引いた。誰一人として、邪魔をしようとする者はいない。
§ § §
黒田は自席でスマホの競馬アプリを見ていた。
奈々に全てを押しつけ、これで自分の仕事は終ったと言わんばかりに。
午後二時のレースに五千円賭けている。先ほど先方に電話をかけ、部下が作った資料を自分の手柄として提出した高揚感がまだ残っていた。今日はツイてる日だ。馬も当たるだろう。
異変に気づいたのは、隣のデスクの後輩が椅子から転げ落ちそうになった音を聞いてからだった。
「なんだ騒々し――」
顔を上げた。
そこにいたのは、理解の範疇を超えた存在だった。
黒い服を着た男が、フロアの中央を歩いてくる。身長は百八十後半。外国人か。いや、それにしてもあの銀髪は染めたにしても異常だし、あの顔は――
黒田の思考が、途中で止まった。
男の視線と、目が合った。
蒼い。氷のように冷たい蒼。
その瞳の奥に宿っているものを、黒田の生存本能が読み取った。
怒り。
だが「怒鳴る」とか「殴る」とか、そんな次元ではない。もっと根源的な、存在そのものを否定するような、静かで絶対的な否定。
――殺される。
理由も根拠もなく、そう思った。
黒田の背中を、三月の冷水を浴びたような悪寒が走り抜けた。
だが、この男は課長だ。この四十年の人生で、常に「上」にいた側の人間だ。恐怖を恐怖として認めることは、プライドが許さない。
「……おい。あんた誰だ」
黒田は、震える声を虚勢で補強しながら、立ち上がった。
「ここは関係者以外立入禁止だぞ。どこのどいつだ。受付は通ったのか」
エリオットは足を止めなかった。
黒田のデスクの前を、一瞥すらせずに通り過ぎようとした。
「おい、聞いてんのか!!」
黒田が、エリオットの肩に手を伸ばした。
その手が触れる寸前、空気が変わった。
エリオットが、止まった。
黒田に向けたのではなく、ただ歩みを止め、首だけを僅かに傾けて――黒田の方を、見た。
視線。
たった一秒の視線。
黒田の伸ばした手が、空中で凍った。
指先が震え、顔から血の気が失せた。額から脂汗が滲み、膝が笑い始める。心臓が飛び出しそうなほど脈打っている。
手は触れなかった。触れることが、できなかった。
エリオットの唇が、微かに動いた。
「お前が――黒田か」
低く、静かな声。
それだけ言って、エリオットは歩みを止める。
黒田は、糸の切れた人形のように椅子に倒れ込んだ。スマホが手から落ち、リノリウムの床にカタンと乾いた音を立てた。競馬アプリの画面が、天井の蛍光灯を映して光っている。
§ § §
佐藤は、自分の目を疑っていた。
まず、空間が裂けて人が現れた。それだけでも正気を疑う事象だが、それ以上に信じられなかったのは――黒田が、黙ったことだ。
六年間、一度も黙ったことのない男。怒鳴り、威張り、人の心を踏みにじることに一切の躊躇がなかった男。その黒田が、あの銀髪の男の一睨みで、声ひとつ上げられなくなっている。
佐藤の胸に、奇妙な感覚が沸き上がった。
恐怖か。いや違う。
――爽快感だ。
銀髪の男は、奈々のデスクに向かっている。
佐藤は唇を噛んだ。
(小松さん。あの人、あなたの……?)
その疑問の答えは、すぐにわかることになる。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
大魔法使い、降臨。オフィスの空気が変わった瞬間、皆さんの心臓も跳ねていたら嬉しいです!
次回「大魔法使い、オフィスに降臨す」中編。エリオットが奈々のデスクに辿り着き、たった一言を告げます。
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