第28話:決断(後編)
エリオットは、全てを見ていた。
千里眼が映し出す光景を、瞬きすることなく見つめ続けていた。
朝、奈々が出て行った瞬間から。あの男のデスクに出した資料を三分で流し読みされたことも。電話で手柄を横取りされたことも。新たな無理難題を突きつけられたことも。
そして――奈々の口から「はい」が出なかったことも。
六畳一間は静寂に沈んでいる。
るんすけは充電ドックの上で、赤いランプを点滅させている。いつもなら定時巡回を開始している時間だが、主の異変を察したのか、待機状態のまま動かない。
エリオットの呼吸が、変わった。
深く、長い瞑想の呼吸ではない。浅く、速く、熱を帯びた呼吸。胸の内側から這い上がってくる何かを、必死に押さえ込むための呼吸だった。
千里眼の向こうで、奈々が弾劾されている。
呼吸は浅くなり、顔色が悪い。理不尽、余りにも理不尽なその光景に、氷の表情に罅が入った。激情と言う名の罅が。
奈々の姿に、カレンシュのそれが重なる。
茶番の裁判で、犯しても居ない罪をなすりつけられ、それでも誇り高く顔を上げていたあの姿が。
あの時と同じだ。
彼女は今、「処刑」されようとしている。この現代の、蛍光灯の下の、誰にも見えない処刑台の上で。
(限界だ)
その言葉が、胸の奥から浮かび上がった。
彼女の限界ではない。
自分の、限界だ。
これ以上、《《見ているだけ》》は、できない。
――彼の視界で、奈々の身体から力が抜け、崩れ落ちようとしている姿が見える。
『こま……つ……?』
千里眼越しに聞こえる周囲の間の抜けた声など、今のエリオットにはどうでもよかった。
彼の視界は、倒れ伏した奈々の「魂の色」に釘付けになっていた。
彼女の魂の輝きである深い藍色が、急速に明滅し、今にもフッと消えかかっている。
それは、前世の断頭台で、彼女の命が散った瞬間と全く同じ光景だった。
ピキッ、と。
六畳一間の空間に、空気が凍りついてひび割れるような音が響いた。
エリオットの全身から、制御を失った致死量の冷気と魔力が、濃密な殺意となって溢れ出したのだ。
足元で待機していたるんすけが、警告音すら上げられずにガタガタと震え出す。
悠久の孤独の中で、彼がどれほどの痛みに耐え、どれほどの魔力を惜しんで命を繋いできたか。
全ては、彼女のこの美しい魂を護るためだった。
それを、あの男は、あのちっぽけな空間の理不尽は、いとも容易く削り殺そうとしている。
「……限界だ」
それは彼女の限界ではない。エリオット自身の、限界だった。
夜の帰宅を待つ猶予はない。走って向かう時間すらない。一秒でも遅れれば、彼女の魂が完全に砕け散ってしまう。
――ならば、今すぐ。この手で。
§ § §
永い永い孤独を経て辿り着いた、この六畳一間の聖域。
ここで奈々を待ち、奈々のために料理を作り、奈々の帰りを千里眼で見守る。それが自分の役割だと定義していた。彼女の世界に、彼女の戦いに、直接踏み込む権利は自分にはないと。
だが。
もう、そんな言い訳は通用しない。
「るんすけ」
声をかけた。低く、静かな声だった。
ピロッ。
充電ドックから、るんすけが滑り出してくる。赤いランプが、主を見上げるように瞬いた。
「留守を頼む。今日は、少し出かける」
ピロリッ。
いつもより長い応答音。それは了承であり、激励であり、「行ってこい」という、言葉なき言葉だった。
エリオットの口元が、微かに緩んだ。
「ありがとう、相棒」
エリオットは、静かに立ち上がった。
その後の変化は一瞬。瞬きする時間にも満たない。
§ § §
右手を持ち上げ、指先を翻す。
魔力が奔った。
「キス貯金」として、毎朝少しずつ掻き集めてきた全備蓄が起動する。それは胸の奥で蒼白い光の粒子となって凝縮し、次の瞬間、全身を包み込むように弾けた。
纏っていた部屋着が光の中に融解し、代わりに現れたのは――漆黒のスリーピーススーツだった。
魔力で編み上げた「現代の戦闘服」
光沢のある黒いジャケット。白いシャツ。結び目の精緻なネクタイ。足元には磨き抜かれた革靴。前世の宮廷礼装を、この世界の最も格式高い服飾に翻訳した、彼なりの「武装」だった。
鏡の前に立ったエリオットは、ネクタイの結び目を指で僅かに正した。
映るのは、銀髪に蒼い瞳の、この世のものとは思えない美貌。
だがその瞳の奥に宿っているのは、美しさとは真逆のもの。
静謐な、氷の底に沈めた怒り。
「今、行く」
右手を掲げ、空間に指で紋様を描き始めた。
魔法陣が浮かぶ。六畳一間の空気が震え、窓ガラスが微かに軋む。るんすけがキュイイと小さな警告音を上げたが、すぐに黙った。
空間転移の術式。
この世界に魔素がない以上、次元の壁を穿つこの大魔法は、キス貯金の全てを放出しても――足りない。
足りない分は。
エリオットの手の甲に、罅が走った。
皮膚の下から、蒼白い光が漏れている。それは彼の魂そのもの。生命力の結晶。
キスで得た魔力の不足分を、自分自身の命で補填する。
痛みが全身を貫いた。
骨が軋み、血管が焼ける感覚。だが、彼の表情は微動だにしなかった。この程度の痛みは、途方もない孤独の中で、数え切れないほど経験してきた。
魔法陣が完成する。
蒼い光が六畳一間を満たし、天井も壁も消えて、ただ光だけが残る。
その光の中で、エリオットは呟いた。
「私は、前世で君を守れなかった」
声は静かだった。怒声ではない。宣言でもない。
ただの事実を、確認するように。
「あの断頭台の前で、君に何も説明できず、ただ処刑の魔法を放つことしかできなかった。結果として、君を救えたのかもしれない。だが君の心は、あの瞬間に殺された。私の手で」
光が渦を巻く。空間の座標が定まっていく。
「今度は違う」
その声に、初めて感情が乗った。
低く、深く、果てしない孤独と後悔を圧縮した響き。
「今度は、この手で。この魂の全てを使って。君を――迎えに行く」
限界を迎えた彼女が、糸の切れた人形のようにオフィスの床に崩れ落ちようとしている。
エリオットは全て、見ていた。
光が弾ける。
六畳一間から、エリオットの姿が光の粒子となって消滅する。
残されたのは、静寂と、充電ドックの上でランプを点滅させるるんすけだけだった。
§ § §
同じ頃。
オフィスの冷たい床に崩れ落ちようとしている私は、暗い水底へと沈みかけていた。
周囲で「小松さん!」「大丈夫!?」と騒ぐ同僚たちの声が、ひどく遠く、くぐもって聞こえる。
もう、指先一つ動かせない。このまま意識を手放してしまえれば、どんなに楽だろう。
そう思って、完全に目を閉じようとした。
その瞬間。
空間が、震えた。
音ではない。圧力だ。
ビル全体を――いや、世界そのものを揺るがすような、圧倒的な存在感の波動。
ジジッ、と不快な音を立ててオフィスの蛍光灯が一斉に明滅し、デスクの上のモニターに激しいノイズが走る。
私は、薄れかけていた意識を無理やり引き戻された。
(……なに、これ)
知っている。
この感覚を。
前世で、何度も味わった。
魂の奥底に刻み込まれた、絶対的な畏怖の記憶。
これは。
大魔法が、発動する寸前の――予兆。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
ついに彼が動きました。漆黒のスーツに身を包み、命を削りながら空間を越える大魔法使い。
次回「大魔法使い、オフィスに降臨す」。悠久の愛と怒りが、蛍光灯の下に降り立ちます
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