第26話:限界、突破(後編)
日曜日の夕方。
百枚目のスライドが、ようやく完成した。
保存ボタンを押す指先が震えていた。疲労なのか、安堵なのか、もう区別がつかない。
モニターの右下に表示された時刻は、午後五時十三分。
金曜の午前から数えて、約五十六時間。そのうち睡眠は、オフィスの椅子で仮眠した四時間だけだ。
完成した資料を、ファイルサーバーの共有フォルダにアップロードする。黒田宛にメールを送信。件名は「【完了】月曜朝イチ提出資料」。文面は事務的に、三行で終わらせた
送信ボタンを押した瞬間、身体中の力が抜けた。
椅子の背もたれに沈み込み、天井を見上げる。蛍光灯の白い光が、目の奥を焼くように眩しい。
(終わった)
終わった。
百ページの提案書。ゼロベースで。一人で。土日を丸ごと使って。
でも、達成感はなかった。
あるのは、からっぽの身体の中を冷たい風が吹き抜けていくような、虚しさだけだった。
§ § §
帰り道、外は薄暗くなり始めていた。
日曜の夕方の街は、家族連れやカップルで賑わっている。買い物袋を提げた親子が、笑いながら横断歩道を渡っていく。恋人同士が手を繋いでカフェに入っていく。
私はその中を、二日間着替えていない服で、目の下に濃い隈を刻んで、一人で歩いている。
スマホが震えた。
黒田からの返信。
『確認した。まあ最低限の出来だな。もう少し図表のレイアウト工夫しろよ。月曜の朝、手直しした最終版出してくれ。お疲れ』
足が、止まった。
手直し。
最終版。
月曜の朝。
五十六時間かけて作った百ページの資料に対する評価が、「最低限」
しかも月曜の朝にさらに手直しを要求されている。つまり、明日の早朝にまた出社しなければならない。
スマホを握る手に、力がこもった。
画面に映る黒田の文面が、視界の中で歪んでいく。
『お疲れ』
お疲れ。
ゴルフ帰りの男に、お疲れと言われた。
目頭が熱くなった。
だめだ。ここは駅前だ。人がいる。泣くな。泣くな。私は大丈夫。大丈夫。いつもそうやって乗り越えてきた。前世でも今生でも。大丈夫。大丈夫、大丈夫、大丈夫――
§ § §
あの部屋が見えてきた。
築三十年のアパート。錆びた階段。軋む蝶番。
その先に、あの男がいる。
今日も、あの完璧な料理と、馬鹿みたいに温かい結界と、無表情の奥に何かを隠したポーカーフェイスが待っている。
鍵を回す。ドアを開ける。
「おかえり、奈々」
エリオットが立っていた。
エプロン姿。右手に木べら。キッチンからは、何かの煮込み料理の匂いが漂ってきている。いつも通りの光景。
いつも通りの、あまりにも温かい光景。
「……ただいま」
声が、掠れた。
靴を脱ぐ。鞄を置く。一歩、二歩、リビングに入る。
エリオットが近づいてくる。彼の目が、私の顔を見て僅かに細まった。何かに気づいた顔だ。千里眼でなくても、この二日間の私の状態くらいは、顔を見ればわかるだろう。
「奈々。食事の準備ができている。先に風呂に入るか、それとも――」
「エリオット」
遮った。
自分でも、何を言おうとしているのかわからなかった。
「ん?」
「……私、さ」
声が震え始めた。
止まらない。止められない。
「私、今日……五十六時間、ずっとオフィスにいて……。百ページの資料、全部一人で……。黒田に、全部やり直せって言われて……」
言葉が、堰を切ったように溢れ出した。
整理されていない。文法も論理も崩れている。でも止まらない。
「金曜の朝から、ずっと、ずっと、一人で……。お弁当も、食べられなくて……。ごめん、せっかく作ってくれたのに……冷めちゃって。ハンバーグ。ごめん……」
謝っている。
百ページの地獄ではなく、冷めた弁当のことで謝っている。自分でもおかしいと思う。でも、今この瞬間に一番心が痛いのは、黒田の理不尽でも五十六時間の労働でもなく、エリオットが命を削って作ったお弁当を食べられなかったことだった。
「それで、月曜の朝にまた手直ししろって……。最低限だって。私が五十六時間かけたの、最低限だって……」
目尻から、熱いものが零れた。
あ、だめだ。
泣いている。
大丈夫じゃない。
「私、もう……わかんない。何のためにあそこにいるのか、わかんなくなっちゃった……」
膝が、折れた。
その場に崩れ落ちそうになった身体を、何かが支えた。
温かかった。
両腕だった。白い、長い指の、大きな手。
エリオットが、何も言わずに私を抱きしめていた。
§ § §
彼は、何も言わなかった。
「大丈夫だ」とも。
「頑張ったな」とも。
「あんな会社辞めてしまえ」とも。
ただ、両腕で私の背中を包み、頭を自分の胸に寄せ、微動だにしなかった。
その胸から、かすかな温もりが伝わってくる。
魔法だとわかった。彼の指先から、ほとんど気づかないほど微細な回復魔法が、絹糸のように私の身体に流れ込んでいる。五十六時間の肉体疲労を、音もなく溶かしていく。
でも、身体の痛みより先に溶けたのは、心の方だった。
抱きしめられた瞬間に、「大丈夫」の殻が砕け散った。
六年間、毎日毎日塗り重ねてきた「大丈夫」という名のコーティングが、この腕の温もりの中で、脆く、儚く、剥がれ落ちていく。
声が出た。
堪えていたものが、全部、一気に。
「う……っ、あ……ああぁっ……!!」
泣いた。
声を上げて、みっともなく、子供みたいに。
前世の公爵令嬢としての矜持も。今生の社会人としてのプライドも。全部投げ捨てて、この男の胸にしがみついて泣いた。
エリオットのシャツが涙でぐしょぐしょに濡れていく。鼻水まで出ているかもしれない。二十八歳の大人として最悪だ。でもどうでもよかった。
もう、もう大丈夫のふりは、できない。
§ § §
どれくらい泣いていたのか、わからない。
気づいた時、私はエリオットの腕の中で、ソファに座っていた。いつの間にか移動していたらしい。彼の胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げる以外の機能を全て停止している。
涙が枯れてきた頃、ようやくエリオットが口を開いた。
「奈々」
低く、静かな声。
いつもの鉄壁のポーカーフェイスのまま。でも、私の髪を撫でる指先だけが、微かに震えていた。
「食べよう」
それだけだった。
「大丈夫か」でも「もう泣くな」でもなく。
食べよう。
エリオットは私を促すようにソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。
数分後、テーブルの上に並べられたのは、湯気を立てるシチューと、柔らかく焼かれたパンと、色とりどりのサラダだった。
「……これ、いつ作ったの」
「君が金曜の朝に出社してから、ずっと準備していた」
ずっと。
つまり、金曜の朝からずっと。
私がオフィスで五十六時間戦っている間、この男は六畳一間で、ずっと料理を作っていたのか。
「……馬鹿じゃないの」
声が震えた。また泣きそうだ。
「馬鹿とは心外だ。食材の鮮度管理と温度調整には、かなりの魔力を消費している」
「そういう問題じゃない……っ」
スプーンを握った。シチューをすくって、口に運ぶ。
温かかった。
クリーミーなルウが舌の上でとろけ、じゃがいもと人参が柔らかく崩れる。鶏肉は繊維の一本一本まで火が通っていて、噛むたびに旨味が広がった。
――そして、二口目を飲み込んだ瞬間に、身体の芯から何かが温まった。物理的な温度ではない。もっと深い場所。五十六時間かけて冷え切った、心の底。
「……おいしい」
涙と一緒に、そう言った。
エリオットは向かいの席で、ほんの少しだけ――本当にほんの少しだけ――口元を緩めた。
「そうか。ならば良かった」
いつもの台詞。いつもの無表情。
でも、テーブルの下で彼の膝の上に置かれた拳が、白くなるほど握り締められていることに、私は気づいていた。
§ § §
夕食を終え、魔法の風呂に入り、ベッドに潜り込んだ。
安眠の結界が身体を包む。意識が遠のいていく。
最後に見たのは、窓際の壁に背を預けて座るエリオットの横顔だった。
瞑想しているはずの彼の瞳が、薄く開いて、私を見ていた。
その目は、いつもの絶対零度とは違う色をしていた。
怒り。ではない。
悲しみ。でもない。
何かを、決めた目だった。
(エリオット……)
声にならなかった。眠りの淵に引き込まれていく意識の中で、ぼんやりと思った。
あの目。
前世の、あの日にも見た気がする。
断頭台の前で、私に処刑の魔法を向けた時の――あの、凍りついた瞳に、似ている。
……なんで、そんな顔をしているの。
答えを聞く前に、意識は深い眠りの底に沈んでいった。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
ついに「大丈夫」が壊れました。でも、壊れた殻の中から溢れ出したのは、弱さじゃなかった。ずっと我慢してきた、本当の叫びでした。
次回「決断」前編。日曜に休出する奈々と、静かに立ち上がる大魔法使い。嵐の前の静けさが訪れます。
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