第25話:限界、突破(前編)
金曜日。
あと八時間を生き延びれば、週末が来る。
それだけを支えに、蛍光灯の下でモニターに向かっていた。今週の残業時間はすでに三十時間を超えている。体感では三百時間だ。時空が歪んでいる。
朝のキスは、最近少しだけ慣れてきた。
慣れてきた、というのは語弊がある。あいかわらず心臓は跳ね上がるし、エリオットの至近距離の美貌は脳に直接ダメージを叩き込んでくる。ただ、その後に訪れる不思議な温もり――身体中の疲労が薄く溶けていくような感覚に、いつの間にか救われている自分がいた。
今朝も「行ってきます」と言った。
エリオットは「気をつけて」とだけ返した。最近、あの男の「行ってらっしゃい」には、以前のような軽さがない。短い言葉の中に、何か切迫したものが滲んでいる気がする。
気のせいだ、と思うことにした。
あいつの感情を察したところで、私にはどうすることもできない。自分の感情のことすら、もうよくわからないのだから。
§ § §
午前十時。異変が起きた。
黒田が、私のデスクにやってきた。
いつもの癇癪声ではない。不気味なほど静かなトーンで。
「小松。ちょっといいか」
付箋や怒声ではなく、直接来た。これは悪い知らせだ。六年の経験が、脊椎反射レベルで告げている。
「はい」
会議室に連れて行かれた。窓のない小部屋。蛍光灯がジジ、と嫌な音を立てている。テーブルの上には、印刷された資料の束が積まれていた。
「来週月曜の朝イチで、取引先への提案資料を出さなきゃいけなくなった」
黒田は腕を組み、資料の束を指で叩いた。
「この案件の全資料。見積もり、スケジュール、技術仕様、コスト計算。全部作り直し」
「……全部、ですか」
「先方の役員が変わったんだよ。前任者向けの内容じゃ通らない。ゼロベースでやり直せ」
私は資料の厚さを目で測った。百ページは超えている。ゼロベース、ということは、既存の資料は参照にはなっても流用はほぼできない。
「期限は月曜の朝八時。遅れたら……わかってるな?」
わかっている。この会社で「わかってるな?」は脅迫であり、命令であり、宣告だ。
「……わかりました」
他に何が言えただろう。
「ああ、あと。この件は他の誰にも振るなよ。お前が全部やれ。責任者はお前だ」
責任者は私。企画書を書いたのも、先方との窓口も、最初から全部黒田のはずだ。だが指摘しても意味がない。指摘した人間は、この会社では「自主退職」する。
会議室を出た時、足が少し震えていた。
§ § §
「先輩……大丈夫ですか?」
席に戻ると、白峰が心配そうな顔で覗き込んできた。あの涙ぐんだ大きな瞳を、こちらに向けて。
「あ、うん。大丈夫。ちょっと急ぎの仕事が入っただけだから」
「そうなんですか……。あ、あの、私にできることがあったら、いつでも言ってくださいね? 先輩にばっかり負担がいってるの、私すごく申し訳なくて……」
白峰の声は優しかった。本当に心配してくれているように聞こえた。
そう聞こえたから、つい。
「ありがとう。でも大丈夫、一人でやれるから」
なぜ、この言葉が口から出たのだろう。
大丈夫なわけがない。一人でやれるわけがない。百ページの提案書を、金曜の午前から月曜の朝までに。土日を全て潰しても足りるかわからない。
でも「助けて」と言えなかった。
白峰に助けを求めたら、今度は白峰まで巻き込んでしまう。この子はまだ若い。この理不尽に慣れてほしくない。
……それに。
「助けて」という言葉を、私はもう何年も口にしていない気がする。前世でも、今生でも。
§ § §
金曜の夜。フロアに残っている人間は、もう私だけだった。
蛍光灯の三分の二が省エネモードで消灯され、デスクの周辺だけが白く浮き上がっている。空調は切られており、三月の夜気がじわじわとオフィスに忍び込んでくる。指先が冷たい。
モニターには、作りかけのスライドが映っていた。
三十七枚目。百ページ中の三十七。進捗率は三割弱。残り二日で七十枚。
コーヒーは四杯目だった。もう味がしない。カフェインだけが胃壁を灼いている。
キーボードを叩く。文字が並ぶ。消す。また打つ。消す。
さっきまで頭の中にあったはずのロジックが、砂のように指の間から零れ落ちていく。集中力が途切れるのではなく、集中すべき対象そのものが霞んでいく感覚だった。
(……エリオットのお弁当、今日も食べられなかったな)
ふと、鞄の中の弁当箱のことを思い出した。
今朝、エリオットが「今日のは、冷めてもおいしいように工夫した」と言っていた。煮込みハンバーグ、と。
昼休みに蓋を開けようとした。でも、黒田の「月曜朝イチ」がずっと頭の中で鳴り響いていて、一口も入らなかった。午後になって「あとで食べよう」と思った。あとは来なかった。
今、鞄の中であの弁当は冷え切って固くなっているだろう。
エリオットが頑張ってつくってくれた、お弁当が。
(ごめん、エリオット)
謝る相手が違う気がした。でも、今の私が「ごめん」と言える相手は、あの不器用な魔法使いしかいなかった。
§ § §
土曜日。
始発で出社した。
誰もいないオフィスは、平日とは別の場所のようだった。窓から差し込む朝日が、空席のデスクの上に無人の影を落としている。
もう一人いるかと思った佐藤さんの席も、空だった。当たり前だ。休日に出てくる義務があるのは、「責任者」にされた私だけだ。
スライドの続きを打ち始める。四十枚目、五十枚目。
見積もりの数字を拾い、計算し、グラフに起こす。技術仕様を読み込み、先方の新役員の過去の発言や趣向を調べ、刺さるであろうポイントを資料に反映させる。
これは、前世で叩き込まれた「外交文書の組み立て方」に似ていた。
相手の立場、利害、性格を読み解き、一字一句に意味を持たせる。公爵令嬢カレンシュが、何百通もの外交書簡を徹夜で書き上げたあの技能が、二十一世紀のパワーポイントの上で静かに発揮されている。
皮肉だった。
前世で命がけで磨き上げたスキルが、黒田の尻拭いのために使われている。
午後三時。スマホが鳴った。
黒田からのメッセージ。
『進捗どう? 月曜の朝イチで完璧な状態で出せよ。先方の役員、うるさい人だからな。ミスは許されないから。あと、今日ゴルフ行ってくるわ笑』
ゴルフ。
この人は、ゴルフに行っている。
私が土曜の朝から一人でオフィスに座って、百ページの資料を作り直している間に。
この人は、ゴルフに行っている。
スマホの画面が滲んだ。
涙ではなかった。いや、涙だったかもしれない。わからない。もう、自分の感情の正体がわからなくなっていた。
怒りなのか。悔しさなのか。悲しみなのか。
全部が混ざって、どろどろの泥のようなものが喉元までせり上がってきて、でも飲み込むしかなくて、飲み込んだら胃に落ちて、胃壁を灼いた。
私は無言でスマホを裏返し、モニターに向き直った。
六十枚目。あと四十枚。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
限界の向こう側に、何が待っているのか。金曜の夜から土曜の日中へ、一人きりのオフィスで戦い続ける奈々。
次回「限界、突破」後編。糸が、切れます。
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