第24話:千里眼の先に見たもの(後編)
それは、エリオットが奈々に弁当を渡しはじめて三日目の朝のことだった。
いつもの「業務連絡」を終え、奈々が玄関で靴を履く。
エリオットは彼女の背中に、そっと声をかけた。
「奈々」
「ん? なに、忘れ物?」
「……いや」
言葉が、喉の奥で止まった。
言いたいことは山ほどある。あの場所に行くな。あんな連中のために君の命を削るな。今日くらい休め。もう充分だ。
――だが、彼は言葉を飲み込む。
今の彼女に必要なのは、「やめろ」という制止ではない。
彼女は自分で選んで、あの場所に立っている。その選択を否定することは、彼女の誇りを踏みにじることと同義だ。
「気をつけて」
そう言うのが、精一杯だった。
「うん。行ってきます」
ドアが閉まる。
足音が遠ざかり、階段を降りる音が消える。
エリオットは壁に額を預け、しばらく動かなかった。
足元でるんすけが、いつもより小さな駆動音で主を見上げている。
「……大丈夫だ、るんすけ。私は大丈夫だ」
誰に対してかもわからない「大丈夫」を口にして、彼は定位置に座り、瞑想状態になると、千里眼を起動した。
§ § §
その日の奈々の職場は、昨日より更に酷かった。
黒田が午前中から機嫌を損ねていた。原因は部長からの叱責だという。つまり、上で受けた怒りを下に流す。水が低きに流れるように、この男の怒りもまた、最も弱い場所へ落ちていく。
その「最も弱い場所」が、奈々だった。
「おい小松! この見積もりの計算、全部やり直しだ! 先方から指摘が来てんだよ!」
千里眼で確認した。その見積もりを作成したのは黒田本人だ。しかし、修正依頼のメールは巧妙に奈々のアドレスへ転送されている。
「あ……はい。確認します」
奈々がモニターを見つめる。一瞬だけ、その目に困惑が走った。自分が作った覚えのない見積もりだと気づいたのだろう。しかし、反論の言葉は出てこない。
「確認じゃねえよ、直せよ! お前いっつもそうだよな、言われたことの半分もできねえ」
黒田の声は鋭く、フロア中の空気を凍らせた。周囲の同僚たちは反射的にモニターから目を逸らし、キーボードを叩く速度だけが不自然に上がる。
佐藤という女性社員だけが、遠くから奈々を見ていた。唇が微かに動いている。何かを言おうとして、やめている。
奈々は「すみません」と頭を下げ、見積もりの修正に取りかかった。
その背中は、まっすぐだった。
震えてもいない。泣いてもいない。折れてもいない。
ただ、静かに――沈んでいた。
水面の下に、音もなく沈んでいく石のように。
波紋すら立てずに、深く、深く。
§ § §
エリオットの瞑想は、もはや瞑想の体をなしていなかった。
目を閉じても、千里眼が映し出す光景が消えない。
消す気がないのだ。目を背けることは、今度こそ本当の裏切りになると思ったから。
(前世と、同じだ)
あの頃も、こうだった。
宮廷でカレンシュが陰謀に晒されていた時。彼女が孤立し、中傷され、味方を一人ずつ引き剥がされていく過程を、自分は知っていた。筆頭宮廷魔術師の地位と千里眼があれば、全てを把握することは容易だった。
なのに、動けなかった。
あの日から、私の胸を焦がし続ける呪縛。真実の断片に触れようとするだけで、魂が内側から灼け上がる。この次元を越えても、その抗えない枷だけは私を捉えて離さない。魔法とは根本的に異なる、上位の強固な拘束。
だから自分にできたのは、「カレンシュに気づかれないように」事態の悪化を最小限に食い止めることだけだった。水面下で証拠を集め、暗躍し、彼女の敵を一人ずつ排除する。しかし聖女の手は常に二手先を行き、排除した端から新たな敵が生まれた。
そして、最後に残った手段が――
呪縛が灼く。
胸の内側を見えない焔がなぞり、声帯が引き攣る。喉から微かな呻きが漏れた。
るんすけが慌てたように駆け寄り、エリオットの膝に体当たりする。
「……すまない。大丈夫だ」
大丈夫ではない。
だが、この痛みにはもう慣れた。永い間、毎日のように舌の上で真実を転がしては、その度に灼かれてきた。もはや喉の奥に常駐する鈍い灼熱感は、彼にとって「呼吸」と変わらないものだった。
§ § §
午後三時。
千里眼に映る奈々の姿が、明らかに変わっていた。
キーボードを叩く速度は変わらない。表情も崩れていない。だが、彼女の「色」が違う。
エリオットの千里眼は、対象の生命力――魂の輝きを、色として視認する。
奈々の魂は本来、夜明け前の空のような、静かだが深い藍色をしている。穏やかで、芯が強く、どこかに微かな哀しみを含んだ、彼がこの世で最も美しいと信じる色だ。
その色が、くすんでいた。
朝は藍だったものが、今は灰に近い。生命力が消耗しているのではない。もっと根深い何かだ。
――自己肯定感の磨耗。
「自分にはこの程度の価値しかない」という思い込みが、一日ごとに、一時間ごとに、魂の表層を削り取っている。黒田の怒声がやすりなら、白峰の涙がやすりの裏に塗られた毒だ。二つが交互に作用し、彼女の魂を静かに蝕んでいく。
今日だけの話ではない。千里眼で見守り始めてからずっと、彼女の色は少しずつ褪せ続けていた。
昨日より薄い。一昨日より暗い。
(やめてくれ)
誰に向けた祈りかもわからなかった。
(もう充分だ。君はもう充分に頑張っている。これ以上、自分を削らなくていい)
だが、その言葉は千里眼の先には届かない。
千里眼は「見る」ためだけの力だ。声を届ける術はない。触れることもできない。ただ、見ることしかできない。
最も残酷な力だ、と。かつて宮廷でそう思った。今も、同じことを思っている。
§ § §
午後五時半。
奈々が席を立ち、給湯室へ向かう。
コーヒーを入れるためだろう。カップを取り出し、インスタントの粉末を入れ、ポットの湯を注ぐ。
その途中で、手が止まった。
何を考えていたのかは見えない。千里眼は思考までは読み取れない。
だが、湯気の向こうに浮かぶ彼女の横顔が、不意に――前世のあの日と、重なった。
断頭台へ連行される直前。
石造りの独房の中で、冷たい水の入った木杯を手にしていたカレンシュの横顔。怯えも怒りもなく、ただ静かに水面を見つめていた。
あの時、彼女の唇が動いた。声にはならなかったが、千里眼は読み取った。
――大丈夫。
誰にでもない。自分自身に向けた、最後の「大丈夫」
目の前のコーヒーカップを握る奈々の唇が、いま、同じ形を作った。
(同じだ)
エリオットの胸の奥で、何かが音を立てた。
それは砕ける音ではなかった。砕けるものは、とうに砕け尽くしている。
これは――凍る音だった。
灼熱のように荒れ狂っていた感情が、一瞬で絶対零度に落ちていく。
怒りが純化され、不純物を全て失い、透明な結晶になる。
(もう二度と、そんな顔はさせない)
それは約束ではなかった。
祈りでもなかった。
かつて世界を滅ぼしかけた大魔法使いが、悠久の孤独の果てに辿り着いた、たった一つの宣誓だった。
前世で何もできなかった。
今生で何もしなかったら、自分という存在に、もう意味はない。
(時が来たら――)
「キス貯金」として蓄えてきた魔力が、胸の奥で鈍く脈打った。まだ足りない。彼女を完全に守り切るには、まだ遠い。
だが、何が「きっかけ」になるかはわからない。あの男が、いつ最後の一線を超えるか。
だからエリオットは、今日も目を閉じない。
§ § §
深夜。
奈々がベッドに入り、寝息が安らかなものに変わったのを確認してから、エリオットは千里眼を閉じた。
暗い部屋の中、壁に背を預けて座ったまま、天井を見上げる。
るんすけは充電ドックに戻り、赤い充電ランプだけが暗闇の中で点滅していた。
「るんすけ」
返事はない。充電中だ。
だが構わなかった。声に出すこと自体に意味があった。
「私は、また同じ過ちを繰り返すのだろうか」
沈黙が答えた。
「前世で、私はカレンシュをあそこまで追い詰めてしまった。あの時、私が選んだ唯一の道が、本当に正しかったのだろうか。その結果として、彼女に恐怖を与え、二つの人生分の苦痛を味わせたのなら……」
拳が、床を押した。指の関節が白くなるほど力を込めて。
「今度は、守るために何を差し出せばいい。この命か。それとも――」
言葉を、止めた。
呪縛の灼熱ではない。自分自身の意志で、止めた。
答えの出ない問いを、夜の闇に投げることの無意味さくらいは知っている。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
(君がもう笑えなくなるその前に。何が何でも、私が動く)
エリオットは目を閉じ、残りの魔力を掻き集めるように瞑想に入った。
明日の弁当のメニューは、もう決まっている。
彼女が昼に食べ損ねても、夜まで温かさが持続し、冷めても美味しい煮込みハンバーグ。付け合わせには彼女が寝言で「コンビニのは飽きた」と呟いていたポテトサラダ。
前世の知識を総動員して、薬草やハーブを使い、彼女の疲労を癒す料理。
勿論魔力は使わない。使うのは知識だ。
――ただし、それは「調理」に関してだけ。
薬効を高めるハーブは、どうしても彼の世界から召喚したものを使わざるを得ない。
多少のズル(魔法)は許してほしいと、彼は心の中で誰かに言い訳をしながら、それでも包丁を握る。
魔力貯金に回す分は減らせない。だから、魂を削るしかない。
世界最強の大魔法使いが、今夜もまた、一人きりの台所で魂を削りながら、お弁当の献立を練っている。
六畳一間の暗がりに、るんすけの充電ランプだけが、赤く、赤く、瞬いていた。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
千里眼は、世界で最も残酷な力かもしれません。「見える」のに「届かない」。それでも彼は、目を閉じることを選ばない
次回、ついに――「限界、突破」。奈々の心が、本当に折れる日が来ます
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