第23話:千里眼の先に見たもの(前編)
奈々が出て行った部屋は、しんと静まり返っていた。
エリオット・ヴァン・クリフォードは、窓際の床に腰を下ろし、身を預けた壁の冷たさを背中に感じながら、薄く目を閉じた。
朝のキスで得た魔力が、胸の奥でかすかに温もりを保っている。今朝の彼女の唇は少しだけ荒れていた。乾燥のせいだろう。帰宅後の食事に、粘膜修復の効能を持つ薬膳スープを一品加えようと、瞑想に入る刹那にそう命じた。
自分自身に。
この世界に料理人も侍従も存在しない以上、己の身体と削れた命が唯一の調理器具だ。それで構わない。彼女にとってほんの僅かでも有益であるなら、この魂が燃え尽きた後に残る灰まで余すところなく使い切ればいい。
ウィィィィン……。
足元で、るんすけが定時の巡回を開始した。充電ドックから滑り出した円盤の軌道は日増しに洗練されてきている。壁への衝突回数が初期比で七十三パーセント減少した。成長している。
「るんすけ。今日も彼女の城を頼む」
ピロッ。
短い電子音で了承を示す相棒に微かに目を細めると、エリオットは瞑想の深度をもう一段引き下げた。
呼吸を限界まで浅くし、身体の魔力消費を最低限に抑える。この瞑想の間だけは、彼は本当の意味で「何者でもない存在」になる。世界から存在ごと消えかけるほどに。
ただし――千里眼だけは、切らない。
§ § §
薄闇の瞑想の奥で、一筋の光が灯る。
それは奈々の姿だった。
二十七インチのモニターに向かい、キーボードを叩いている。蛍光灯の冷たい白光が、三日連続で同じ服を着ている彼女の横顔を照らしていた。
(……今日も、あの男がいる)
視界の端に、黒田と呼ばれていた男の姿を認め、エリオットは静かに息を吐いた。
前世の宮廷にも、ああいう類の人間はいた。己の無能を棚に上げ、部下の功績を奪い、失策だけを押し付ける。地位と権威に寄生し、権力とは何かも理解せぬまま振り回す、哀れで醜悪な小物だ。
本来であれば、在りし日の筆頭宮廷魔術師なら、あのような輩を視界に留める価値さえ認めない。指先一つで存在ごと世界から消去し、消したことすら忘れていただろう。
だが、ここは「彼女の世界」だ。
彼女が選び、彼女が生きると決めた場所。
だから、手は出せない。今は、まだ。
§ § §
午前十時。千里眼の視界に、小さな影が滑り込んできた。
白い服を好む、若い女。白峰と呼ばれる奈々の後輩だった。
大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、小動物のように奈々のデスクへ駆け寄っていく。
「私がお手伝いした先方への提出データ、古い数値を入れちゃったみたいで……」
その声は震え、肩は縮こまり、誰が見ても「怯えた新人が失敗を告白しに来た」構図だった。
完璧な、演技。
エリオットの千里眼は、通常の視覚では捕らえられないものまで見通す。それは魔力の残滓であり、因果の色であり、感情の波紋だ。
白峰サヤカの瞳の奥底に、涙に隠された「別の色」が一瞬だけ明滅したのを、彼は見逃さなかった。
(……何だ、あれは)
千里眼の焦点を合わせた瞬間、その「色」は霧のように霧散した。まるで何かに遮られたかのように。
それだけではない。霧散した直後、千里眼の探査結果が不自然に「書き換えられた」
なぜそう感じたかは、エリオット自身にも説明できなかった。だが、一瞬前まで覚えていた違和感が、波が引くように消え、後に残ったのは「魔力を持たない、無害な一般人」という平坦な認識だけだった。
(……気のせい、か)
不可解だった。
この世界に魔法を使える存在はいない。魔素がゼロの環境では、いかなる術式も起動しないはずだ。ならばあの一瞬の「揺らぎ」も、今の探査結果の方が正しいのだろう。ただの一般人。脅威ではない。
そう判断したはずなのに、胸の奥に微かな棘が残った。その棘の正体を探ろうとすると、また波が引くように意識から滑り落ちる。
考察を深める間もなく、千里眼は次の場面を映し出した。
「小松ぅ!!」
フロア全体を震わせる怒声。黒田が、パーティションの向こうから堰を切ったように奈々へ吠えかかる。
彼女が当該案件の指示をしていないことは、千里眼で記録していたエリオットにはわかっている。白峰さんのミスだ。しかし弁明の余地すら与えられず、修正作業の全量が奈々の細い肩に積み上げられていく。
奈々は何も言い返さなかった。
ただ、「はい」と一言だけ答え、視線をモニターに戻した。
その横顔には、もう怒りすらなかった。
あるのは、諦めに似た静かな受容。世界とはこういうものだ、自分はこの程度の扱いを受ける人間だと、骨の髄まで刷り込まれた者だけが浮かべる、凪いだ表情だった。
――カサッ。
黒田が満足そうに席を外した直後。
奈々のデスクの端に、小さな音がした。
顔を上げると、先ほどの同僚の佐藤が、自分の席へとサッと戻っていく背中が見えた。
奈々のキーボードの横には、一口サイズのチョコレートが置いてある。
『……小松さん、これ、食べて。午後も、がんばろ』
ひそひそ声で囁かれた、保身の隙間からこぼれ出た、せめてものエール。
奈々は一瞬、驚いたように目を見張り、それから小さく、本当に小さく笑った。
「……ありがとう、佐藤さん」
チョコを握りしめる彼女の指先に、すこしだけ温もりが戻ったように見えた。
§ § §
エリオットの拳が、音もなく握り締められた。
前世でも、同じだった。
公爵令嬢カレンシュ・ハーゲンは、どんな陰謀が渦巻く宮廷の中でも、誰よりも聡明で、誰よりも我慢強い女だった。
侍女たちの中傷も、周囲の嘲笑も。彼女はただ一言「大丈夫です」と微笑んで、全てを飲み込んだ。
そんな彼女のデスクの引き出しに、ひっそりと置かれていた「一粒の砂糖菓子」。
エリオットが、宮廷魔術院の備蓄からこっそり錬成した、極上の甘味。
カレンシュが誰もいない隠し部屋でそれを口に含み、ホッとしたように、泣きそうな顔で笑った横顔。「甘いですね」と零した、あの瞬間の輝き。
四面楚歌の絶望的な状況でも、たった一粒の甘さが、彼女の心を繋ぎ止めていた。
(今の私にできるのも、これだけだ)
だからこそ、今のエリオットにとって「お弁当」は単なる食事ではない。
彼女の魂を、この過酷な世界に繋ぎ止めるための、唯一のアンカー(錨)なのだ。
§ § §
昼休み。
周囲の同僚たちが連れ立って席を離れていく中、奈々だけがデスクに残された。
修正作業に没頭する彼女の横で、出して食べかけた弁当の蓋が、そっと閉じられるのが見えた。
昨日のお弁当の感想を、帰宅後に泣きそうな声で伝えてくれた時の表情が、脳裏に蘇る。
――おいしかった、と。
あの一言のために、前夜までに卵焼きを四十七回試作した甲斐があった。彼女の好む甘さの閾値は、出汁の配合比で〇・三パーセントの誤差を許容しない。そこに至るまでの過程で失敗した四十六個の卵焼きは、全てるんすけが「処理」してくれた。ゴミ箱が卵焼きで溢れるのは衛生上好ましくないという、相棒の的確な判断だった。
今日のお弁当にも、全力を注いだ。
疲労回復の薬効を持つ鶏むね肉の照り焼き。集中力を持続させる亜鉛を多く含むほうれん草の胡麻和え。精神安定のためのカモミール成分を微量含浸させた炊き込みご飯。
そして一品だけ、魔法を使った。前世の王宮でしか手に入らなかった「星露草」の記憶から再構成した、ほんの一滴の芳香エッセンス。食べた者の心に、最も安らぐ記憶を呼び覚ます効果がある。
今日のお弁当を、彼女はデスクの端でそっと広げた。
一口。鶏の照り焼きを口に含む。
噛みしめるごとに、張り詰めていた彼女の肩からゆっくりと力が抜けていくのが見えた。
エッセンスの効能だ。神経の緊張を解き、張り詰めた精神を弛緩させる。
だが、その直後。
彼女の大きな瞳から、ぽろりと、大粒の涙が零れ落ちた。
割り箸を握りしめたまま、声を押し殺して泣いている。
モニターの冷たい光だけが、彼女の涙を白く照らしていた。
エリオットの胸の奥で、冷たい何かが激しく軋んだ。
§ § §
夕方。
修正作業を終えた奈々がオフィスを出る姿を、千里眼で追い続ける。
帰路を急ぐ彼女の足取りは、昨日よりもほんの少しだけ重い。肩が内側に丸まり、視線が地面に落ちている。
それでも彼女は、駅の改札を通る時だけ、ほんの一瞬だけ背筋を伸ばした。まるで、誰かに見られていることを知っているかのように。
いや、違う。ただの癖だ。
彼女はいつもそうだった。前世でも今生でも。人前では弱さを見せない。折れそうになっても背筋を伸ばし、微笑んでみせる。
それが美しいと思った。それが誇らしかった。
そして同時に、その強さが――ひどく、恐ろしかった。
何故なら。
その強さの果てにあるのは、「もう大丈夫と言えなくなった時」の、致命的な崩壊だからだ。前世で、それを見た。
あの時、自分は何もできなかった。
いや、正確には――何かをした。だがその「何か」は、彼女にとっては世界で最も残酷な裏切りにしか見えなかっただろう。
呪縛が、また灼く。
エリオットは静かに千里眼を閉じ、両手で顔を覆った。
六畳一間の暗がりの中、るんすけだけが傍らで、いつもより静かな駆動音を響かせていた。
§ § §
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまぁ……」
疲労で擦れた声。靴を脱ぐ気力もないのか、玄関先にうずくまるように座り込む気配がする。
エリオットは瞑想を解き、立ち上がった。
「おかえり、奈々」
彼女の前に膝をつき、片方ずつ丁寧に靴を脱がせる。左足の踵に、靴擦れの痕が新しく出来ていた。数日前から靴が合わなくなっている。おそらく疲労による浮腫だろう。明日、回復魔法を強めに掛けておこう。
「……なに、あんた。靴、脱がせてくれるの」
「疲れている時に屈む動作は腰に負荷がかかる。合理的な判断だ」
「……合理的なね」
彼女は小さく笑った。
その笑顔が、今日一日で見た中で、最も美しかった。
「ごはん、今日もすっごい匂いする……。なに作ったの」
「鶏の照り焼きと、薬膳スープだ。あとは」
「あと?」
「……食べてからの楽しみだ」
エリオットの耳の先が、わずかに赤くなった。
デザートに仕込んだ「安眠のプリン」の出来が、過去最高の仕上がりだったことは、今は黙っておく。約束通り、魔法は使っていない。前の世界で学んだ薬学の知識を行使している。
彼女がリビングに上がり、テーブルについてお弁当箱を差し出してきた。
「今日のお弁当も、おいしかったよ。ありがとう」
蓋の裏に浮かぶ魔法の文字は、彼女の力なっただろうか?
あれは無駄な魔法ではない。
だから約束を破ったことにはならない、と自分の心に言い訳をする。
千里眼で見ていた。彼女は今日、オフィスで泣きながら、私が作った弁当を食べてくれたのだ。
「おいしかった」という言葉に、誇張もごまかしもない。
ただ、その「おいしい」の裏にある彼女の孤独を、泣かせてしまった自分を、エリオットは決して許せなかった。
ただ、胸の内で一つだけ、静かに誓った。
(明日も、カレンシュの、いや奈々の心まで温まる弁当を作ろう)
銀髪イケメン大魔法使いは、すっかりおさんどさん気分で心に誓ったのだった。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
エリオットの千里眼は、見たいものだけを映してくれるわけじゃない。見たくないものまで全部、映してしまう。
次回「千里眼の先に見たもの」後編。静かに積もり続けた怒りが、やがてどこへ向かうのか。
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