第22話:魔法のお弁当(後編)
泣いた。
よりにもよって、誰もいないオフィスで、お弁当を膝に抱えて泣いた。
割り箸を握りしめたまま、声を殺して、涙だけがぽたぽたとデスクの上に落ちていく。あまりの情けなさに笑いたかったが、目元を拭おうとしたティッシュが皮肉にも箱ごと空だった。限界ブラック企業あるある、備品は常に枯渇している。
結局、制服のスカートの裾でごしごしと涙を拭った。二十八歳の社会人として最悪のマナーだったが、周りに人がいないからセーフという理論は、多分どこの就活セミナーでも教えてくれない。
そして、泣きながらも箸は止まらなかった。
照り焼きチキンは、噛んだ瞬間に肉汁がじゅわりと溢れ、疲弊した脳幹に直接エネルギーを叩き込んでくるような力強さがあった。ほうれん草の胡麻和えは、口当たりが優しいのに味がしっかり芯まで入っていて、噛むたびにじんわりと身体の底から温まる。タコさんウインナーに至っては、なぜか足の一本一本が微妙に違う角度で開いており、エリオットがキッチンで真剣なポーカーフェイスのまま飾り切りに挑む姿が目に浮かんで、涙と一緒に笑いまで込み上げてきた。
(……泣きながら笑うとか、完全に情緒が壊れてる)
最後のひと口、梅干しと一緒に白米をかきこんで、蓋を閉じた。
お弁当箱の底に、何かが書いてあった。
『奈々へ。充実した時間を過ごしてほしい。――エリオット』
おそらく魔法で浮かび上がる仕掛けなのだろう。インクではなく、淡い光の粒子で綴られたその文字は、数秒で儚く消えていった。
「無駄に……魔法使うなって……言ったのに……」
ツッコミを入れつつも、不思議だった。
胸の奥に溜まっていた鋭い棘が、夏の氷のようにじんわりと丸くなっていくのがわかる。黒田の怒声も、白峰の涙も、理不尽な付箋の殺意も、まだ記憶にはあるのに、もう刺さらない。
いや、正確に言えば、「刺さっても平気だ」と思える自分が、今ここにいた。
(こんなに心が温かい。強くなれる。うん、私、頑張れる!!)
私は深呼吸を一つして、モニターに向き直った。
ふと視線を落とすと、キーボードの横に見慣れないものが置いてある。
(あ、これ……)
午前中の黒田の怒声のあと、同僚の佐藤さんが周囲の目を盗んで、こっそり私のデスクに置いていってくれたチョコレートだ。
チョコの包みを開いて口に放り込む。
指がキーボードに触れた瞬間、目を疑った。
速い。
頭の中に霧がかかっていたのが嘘みたいに晴れ渡り、データの不整合がまるでパズルのピースのように見えた。ここの数値がズレている、この列は古いマスターを参照している、この関数は入れ子が一段深い、と。答えが向こうからやってくる感覚だった。
キーボードを叩く指が止まらない。
修正、確認、保存。修正、確認、保存。ルーティンの一つ一つが流水のように滑らかに連なり、エクセルの行列がみるみるうちに正しい色に染まっていく。
(これ魔法だ。絶対に魔法でしょ。卵焼きの中に『集中力プラス百パーセント』とか仕込まれてる)
いや、違う。お弁当はお弁当。お菓子はお菓子だ。でも、それに込められた気持ちが――私の本来の力を発揮させている。伊達に前世で一つの国の政策、財務を差配していた訳ではないのだ。私は鬼のような速度でキーボードを打ち続けた。
§ § §
午後五時。定時。
いつもなら、ここからが残業戦争の本番だ。むしろ五時は試合開始のホイッスルであり、日没は前哨戦に過ぎず、深夜零時にようやくメインイベントが始まるのが我が社の伝統だった。
だが、今日の私のモニターには、修正完了のファイルがずらりと並んでいた。黒田から押し付けられた案件だけでなく、明日以降の先出し資料まで片付いている。
「黒田課長。午後のデータ修正、全件完了しました。追加で田中さんの報告書と来週の会議資料の叩き台も置いておきます」
デスクで何か(モニターに映っていたのは、多分釣果自慢のまとめサイトだ)を見ていた黒田が、ギョッと顔を上げた。
「は? 全部? あれ来週いっぱいかかるって……」
「ご確認は明日で構いません。お先に失礼します」
私は、前世のハーゲン公爵家令嬢としての威厳を百分の一くらいの濃度で滲ませた微笑を浮かべ、席を立った。
定時退社。
六年間一度も行使したことのない、伝説上の権利。都市伝説の中にしか存在しないと思われていたそれを、今日、私は行使した。
カバンを掴み、振り返りもせずオフィスを後にする。背中に刺さる佐藤さんの呆然とした視線が、なぜか少しだけ心地よかった。
§ § §
帰り道、足取りは呆れるほど軽かった。
駅までの歩道に並ぶイチョウの木が、夕焼けの橙に染まって揺れている。その葉の隙間から差す光が妙に眩しくて、思わず目を細めた。こんなふうに帰り道の景色をちゃんと見たのは、いつ以来だろう。
(早く帰って、あいつに言わなきゃ)
お弁当、おいしかったよ、と。
ただそれだけの報告が、足を速めるたびに胸の中で妙に大きく膨らんでいく。あの不器用な魔法使いがどんな顔をして待っているのか想像するだけで、心臓がまた「イケメンアレルギー」とは違う――もっと柔らかくて、もっと厄介な――リズムを刻み始めた。
その時だった。
「……?」
急に、首筋がざわりと粟立った。
秋の夕風のせいではない。もっと原始的で、深い場所にある本能が、何かを感知したような不快感。それは、殺意、ではなく。もっとねっとりとした、甘ったるい敵意のような、奇妙な気配だった。
思わず足を止め、振り返る。
夕暮れの駅前。帰宅ラッシュの人波が途切れることなく流れていく。特に不自然な人物は見当たらない。
ただの気のせいだろうか。エリオットの過保護な結界に守られ続けた結果、私の危険察知能力が変な方向に育ってしまっただけか。
もう一度だけ背後を確かめて、何もないことを確認すると、私は小走りでアパートへの道を急いだ。
この時はまだ知らなかった。エリオットがなぜ、なけなしの魔力を削って「キス貯金」を積み続けていたのか。そして、この居心地の良すぎる同居生活が、いかに薄い硝子の上に立っているのかを。
§ § §
「お帰り、奈々」
玄関のドアを開けると、六畳一間(内部拡張済み)のリビングに、いつも通りの光景が広がっていた。
窓際のソファから身を起こしたエリオットが、足元でくるくると旋回しているるんすけを跨いで、こちらへ歩いてくる。少し心配そうな、けれど私の顔を見た瞬間にほっとしたように口元が緩む、白銀の神様。
「ただいま、エリオット」
私はカバンからお弁当箱を取り出して、両手で差し出した。
「あのお弁当、本当に……おいしかった」
声が、最後の方でほんの少しだけ震えた。泣くもんか。もう今日の涙は全部使い切ったはずだ。
「……そうか」
エリオットの表情は、いつもの鉄壁のポーカーフェイスだった。
だが、彼の瞳の奥で何かが揺れたのを、私は見逃さなかった。そして、お弁当箱を受け取るその白い指先が、かすかに震えていたことも。
「ならば、良かった」
彼はそう呟いて、少しだけ視線を逸らした。
その耳の先が、朝と同じようにほんのり赤い。
この光景が、今の私の「無実な日々」の全てだった。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
お弁当にぜんぶ持っていかれた奈々と、不器用な愛を詰め込むことしかできないエリオット。
次回、視点が変わります。千里眼の向こうで、エリオットは何を見ていたのか――
「千里眼の先に見たもの」編、開幕です!
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