第21話:魔法のお弁当(前編)
その日の朝は、いつもの「業務連絡」を済ませたあとで、少し空気が違った。
「……奈々」
エリオットが、真顔で――と言っても、この男は年がら年中真顔なのだが――キッチンのカウンターの前に仁王立ちしていた。
「なに。また洗剤の量を間違えたとか言わないでよ、二度目だったら血管が切れるから」
「それは二度と過ちを繰り返さないと魂に刻んだ。……違うそうではない。実はこれを受け取ってほしい」
それは、丁寧にワックスペーパーで包まれた、小さな長方形の箱だった。留められたリボンは不格好だったが、結び目だけは妙に精密で、魔法の術式でも編み込んでいるのかと思うほど整っていた。
「お弁当……?」
受け取った手のひらに伝わるかすかな重量感に、思わず声が裏返った。
お弁当だ。世界を滅ぼしかねない大魔法使いが作った、お弁当。
「以前、君が『たまには普通のおかずが食べたい。あの店のグラタンコロッケとか。コンビニのじゃなくて手作りの卵焼きとか』と夢の中で呟いていたので」
「寝言を盗聴してたの!?」
「『盗聴』ではない。君の安眠を護衛する結界の管理上、聴覚情報は自動で記録される仕様だ」
「千里眼の次は盗聴器!? どんどんスペックが悪い方に増えてるんだけど!」
ツッコミを入れてはみたが、真正面から差し出されたお弁当を無下にする気力は、あいにく持ち合わせていなかった。あのルンバ(るんすけ)の床磨きに始まり、洗剤テロの泡まみれ事件を経て、この男の家事スキルは確かに目覚ましい成長を遂げている。あれだけ散々な日々を過ごしてきた家電との闘争歴が走馬灯のように蘇り、ちょっとだけ感慨深い。
ちょっとだけ、だ。
「……まあ、もらっておくけど。変なもの入ってないでしょうね。食べたら空飛ぶとか、金貨が湧いて出るとか」
「そのような非合理的な錬成はしていない。……ただ」
「ただ?」
「少しだけ、工夫は施した」
エリオットの表情は変わらない。変わらないが、彼の白磁の耳の先が仄かにピンク色を帯びていることを、私の養われた「イケメンアレルギー判定機能」は見逃さなかった。
(工夫って何。この男が言う『少しだけ』は信用してはいけない。少しだけ部屋を掃除すると言って六畳一間を異次元空間に改造した前科が現在進行中だ)
嫌な予感を抱えつつも、お弁当を鞄に押し込んで、私は戦場(会社)へと向かった。
§ § §
午前中から、状況は最悪だった。
出社して早々、デスクの上には昨日の退勤時にはなかったはずの書類の山が積まれている。付箋には黒田課長の殴り書きで『今日の午後イチまで。できなかったら言い訳じゃなく退職届を出せ』。
相変わらず人の心がない。人の心がないどころか、文のリズムにすら殺意が滲んでいる。
さらに追い打ちをかけるように、午前十時。
「奈々先輩……ごめんなさい!」
後輩の白峰サヤカが、涙を溜めた大きな瞳を潤ませて、小動物のように私のデスクへ駆け寄ってきた。私と違って上司受けがいい、ゆるふわ系女子。その上目遣いは、この会社では最強の武器なんじゃないだろうか?
「私がお手伝いした先方への提出データ、古い数値を入れちゃったみたいで……。黒田課長に確認を求められた時、頭が真っ白になって、その……つい『奈々先輩の指示通りにやりました』って言っちゃいました……っ」
え?
私、その案件の指示なんか一言もしてないんだけど。
しかし、考える猶予すら与えられなかった。
「小松ぅ!!」
パーティション越しに、黒田の鋼鉄の怒声がフロア中に響き渡った。デスクの上のペン立てがビリビリと震えている。
「お前、後輩の面倒もまともに見られねえのか!! 午後の会議までに全部修正しろ! 飯の時間? そんなもん食いながらやれ!!」
涙ぐむ白峰の肩に、黒田がぽんと手を置く。
「白峰さんは悪くないよ、先に昼行っておいで」
――と、さっきまでの怒声が嘘のような柔和な声色で。
うん、普通に嫉妬されてるよね、私。
仕事出来る女がそんなに目障りか、黒田!!!
と、怒りは外に出さず、ひたすら仕事に集中。データを比較しては修正。修正。修正。
――嵐が過ぎ去ったあと、残されたのは崩壊しかけたエクセルデータの山と、胃壁を内側からかじるような鈍痛と、私だけだった。
(……理不尽、という概念にもし質量があったら、今この瞬間の私の肩には十トンくらい乗ってると思う)
周囲の同僚たちが「お疲れ……」という同情の視線を投げつつも、巻き添えを恐れて一斉にランチへと消えていく。
同期の佐藤さんだけが少しだけ立ち止まり、黒田に何かを言いかけたが――結局、小さく唇を噛んで、背中を向けた。裏表のない、いい子なんだけど仕方ないよね。
彼女を責める気にはなれないよ。この檻の中では、共感は自殺行為だから。
でも、私のデスクの横を通るとき、キーボードの脇にそっと小さなチョコ菓子を置いていってくれた。
『これ……食べて。午後も、がんばろ』
ひそひそ声で囁かれた、小さくて、でも温かいエール。
――ありがと。小さな声で私は佐藤さんにお礼を言う。
うん、大丈夫、まだ頑張れる! 頑張れ、私!
§ § §
一人きりになったオフィスは、空調の低い唸りだけが響いていた。
蛍光灯の白い光が無機質にデスクを照らし、モニターには修正すべきデータの行列が永遠のように続いている。
もう何もしたくない。何も食べたくない。
お昼休憩の四十五分すら、このデータを直す時間にしなければ午後の会議に間に合わない。黒田の付箋の文字が、網膜の裏にこびりついて離れなかった。
だが、ふと視線を落とした鞄の口から、今朝のワックスペーパーの端がのぞいていた。
(……あ)
お弁当。
エリオットの、お弁当だ。
私はしばらく迷ってから、モニターの脇にそれをそっと置いた。食べながら仕事をすればいい。少しでも腹に入れれば、脳に糖が回って作業効率だって上がるだろう。合理的な判断だ。別に、あいつの手料理が食べたいとか、そんな理由じゃない。
不格好なリボンを解き、ワックスペーパーを広げる。
蓋を、開けた。
「――わ」
思わず、声が漏れた。
そこには、彩り鮮やかなおかずがぎっしりと詰まっていた。
こんがりと照りのついた鶏の照り焼き。ふっくらと巻かれた出汁巻き卵の黄金色。深い翠のほうれん草の胡麻和えには白胡麻がまぶされ、その隣には――飾り切りのタコさんウインナーが、足をぴょんと広げて鎮座していた。
白米の上には、小さな梅干しがちょこんと一粒。
どこにでもある、ごく普通の日本のお弁当だった。
異世界の食材も、光る宝石みたいな料理も、どこにもない。ただの、普通のお弁当。
きっとこれには魔法は使ってない。
私の言いつけを守ってくれてるんだ、あいつめ。
部屋に置いてあったレシピブックを見ながら、悪戦苦闘しているエリオットの姿を思って少しだけ笑みがこぼれる。
――蓋を開けた瞬間から、箱の中からほんのりと「温かさ」が立ち上ってきた。
湯気ではない。保温されているわけでもない。それは、料理そのものに込められた何かが――情熱、執念、あるいは呪い(あの男の場合、実質的に呪いに近い激重感情だろう)――を帯びて、じんわりと空気を温めているような、不思議な感覚だった。
まるで、両手の中に小さな焚き火を抱えているみたいだ。
私は割り箸を割り、一番手前の卵焼きを一切れ、口に運んだ。
「……あ」
――甘い。
やさしい出汁の風味が舌の上でほどけて、ふわりと鼻に抜ける。卵のきめ細かな食感は、どこかで食べた記憶があるような、ないような。
古い、古い記憶だ。
前世の公爵邸。
誰にも見つからない庭園の隅で、宮廷の重圧と陰謀に耐えかねて一人で泣いていた幼い日。冷たい石のベンチで、膝を抱えて声を押し殺していた私の前に、誰かがそっと差し出してくれた焼き菓子があった。
名前も覚えていない。顔も思い出せない。ただ、あの時舌の上に広がった甘さだけが、何百年経っても消えずに魂に焼きついていた。
この卵焼きは、あの味に――ひどく、よく似ていた。
その瞬間。
心の奥底で、何かが静かに決壊した。
(――大丈夫だ。君は一人ではない)
エリオットの声が、直接頭の中に響いた気がした。
うん、デスクの上には小さなチョコ菓子。
そして手の中にはお弁当。
細胞の一つ一つが、戦い続けることをやめたみたいに力が抜けた。黒田の怒声で凍りついていた肩から、ゆっくりと氷が溶けていく。モニターの凝視で千切れそうだった視神経が、真夏の木陰に入ったような涼しさに包まれていく。
そして。
気づいた時には、頬に温かいものが伝っていた。
「……え」
涙。
なぜ。
ただの卵焼きを食べているだけなのに。
堰を切ったように、次から次へと溢れてくる。止められない。今日一日の理不尽も、昨日の疲労も、先週の残業の記憶も、全部このひと口の温かさに溶かされて、目尻から流れ落ちていく。
「……私、なに、やってるんだろ」
一人、誰もいないオフィスで。
前世で自分を殺した男が作ったお弁当を食べて、割り箸を握りしめたまま、声を押し殺して泣いていた。
おかしい。滑稽だ。笑えばいいのに、全然笑えない。
だって、このお弁当は温かくて。
あまりにも優しくて。
今の自分が、まるごと「許されている」ような気がしたからだ。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
今日を乗り越える元気が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
次回は「魔法のお弁当」後編。涙の理由に困惑する奈々と、千里眼の向こうで胸を痛めるエリオットの姿を描きます。
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