第20話:イケメンアレルギー、悪化中(後編)
「……いくよ。準備はいい?」
「ああ。いつでも構わない」
朝の恒例行事であり、我が家の生存戦略の一環でもある業務連絡。私がダイニングチェアに腰掛けると、エリオットが恭しくその前に片膝をついた。レッドカーペットの真ん中で愛でも囁くのかというほど様になっているポーズだが、これから執り行われるのはただの魔力供給である。事務手続きだ。回覧板にハンコを押すのと同義である。いや、ほんとうに同義なんだってば!!
私はぎゅっと瞼を縫い合わせるように閉じ、唇を突き出した。必要なのはたった三秒。カップ麺の待ち時間の百分の一だ。それだけで今日の業務は完了するはずなのに、最近はこの「三秒」の間、心臓が肋骨を裏から連打し続けてちっとも時間が進まない。
唇に、彼の体温が触れた。
淹れたての紅茶のような香りと、わずかな甘みが鼻腔をくすぐる。その瞬間、私の脳内でけたたましいエマージェンシーコールが鳴り響いた。
(アレルギーだ! これは間違いなく深刻なアレルギー反応だ!! 心拍数が跳ね上がっているのはアナフィラキシーショックの初期症状だし、顔面が発火しそうなのは重度の炎症反応に他ならない!!)
脳内で必死の医学的(?)なカルテを作成する。だが、その涙ぐましい努力も空しく、私の身体は生存本能を裏切って正直に反応してしまう。指先がかすかに震え、自分の中にある「魔力」という名の熱が、決壊したダムのように彼の身体へと流れ込んでいくのがわかった。
「…………」
三秒。
唇の圧が、ふっと消える。
そっと薄目を開けると、網膜が焼き切れそうな至近距離にエリオットの顔面があった。彼の瞳が、いつになく深い色をたたえ、瞬きすら忘れたように私を射抜いている。
「……ありがとう、カレンシュ……いや、奈々」
「……うん」
毎朝繰り返される、テンプレ通りのやり取り。
どうしても最初には加齢臭って言っちゃうんだよ、この男は。でも何故だろう、最初の頃ほど、それもイヤじゃない。
そして、私の鼓膜を震わせたその低い声が、いつもより数度ほど熱を帯びているように感じたのは、きっとアレルギーで耳の奥がバグを起こしているせいだろう。そうに違いない。
「……ねえ、エリオット。念のために言っておくけど。これはただの魔力供給だからね。事務的な業務連絡だからね。一ミリも変な意味はないし、私の心電図は今、一直線に平坦だから」
「……ああ。承知している」
(自分で言ってから気づいたが、心電図が一直線なら私は死体だ。まあいい、社会に揉まれて精神的にはとうに死んでいるのだから当たらずとも遠からずだ)
一人で心の中でツッコミを入れていると、エリオットは静かに顎を引き、立ち上がった。その時、彼の肩が数ミリ沈み、視線が床へと彷徨ったのはなぜだろう。前世で私を殺した男に、雨に濡れた子犬のような態度をとられる筋合いは微塵もないはずなのに。
私は逃げるように立ち上がり、仕事鞄の取っ手をちぎれんばかりに握りしめた。
玄関でパンプスに足をねじ込む時、背中に彼の視線を感じた。振り返りたい衝動を、奥歯を噛み締めて押し殺す。振り返ったら最後だ。あの顔を見たら、私の中で必死に構築した「アレルギー」という防壁が、ジェンガのように音を立てて崩れ落ちる気がした。
アレルギーだ。そう、これは細胞レベルで拒絶を訴えるアレルギー反応以外の何物でもない。絶対に恋なんかじゃない。巨大なトラウマが引き起こす、生命の危機に対するアラートだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は戦場(会社)へと駆け出した。
§ § §
バタン、と奈々が玄関の扉を閉めた後。
秒針の音だけが落ちる六畳一間で、エリオットは足の裏が床に縫い付けられたように、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼はそっと、自身の唇に長い指を這わせる。彼女から分け与えられた、なけなしの魔力。本来であれば、彼がこの異世界で一日をやり過ごし、夜に彼女の疲労を癒やす魔法を行使するには、今の供給量でもギリギリ事足りるはずだった。
だが、エリオットは静かに、部屋の隅にある「魔導の貯蔵庫」へと意識の糸を繋いだ。それは、常人の目には映らない空間の歪み。彼は毎朝のキスで得た魔力のうち、自身の生存と彼女を護るために必要な分だけを残し、残りの九割をその「貯蓄」へと注ぎ込み続けている。
「……この魔力だけでは、まだ足りないかも知れない」
彼が蓄えているのは、いつか必ず訪れる本当の脅威から彼女を護るための、大魔法を起動させるエネルギーだった。
目を閉じると、前世の忌まわしい記憶が網膜の裏に明滅した。
群衆の前に引きずり出された彼女。無実を叫ぶ声はとっくに枯れ、血と泥に塗れた指先が、それでもなお空を掻こうとしていた。その指が伸びた先に立っていたのは、他でもない彼自身だった。
あの時、自らの手で彼女を終わらせた。そうしなければ、彼女の魂は正真正銘、永遠に損なわれていた。その判断は正しかった。正しかったが、彼の中の何かが、あの日以来一度も元に戻っていない。
――「アレルギーだ」と、彼女は言った。
エリオットは喉の奥を微かに鳴らし、強く目を閉じた。
彼女は彼を拒絶しているのではない。自分の中にある感情から、必死で目を背けているのだ。それが何か、彼には痛いほどわかる。だからこそ、今は何も言わない。
彼女には決して明かせない。彼女からアレルギーだと毛嫌いされようと、氷のように冷たい言葉で突き放されようと構わない。いつか彼女が、前世の呪縛から解き放たれて本当の笑顔を取り戻す、その一瞬のためだけに。
エリオットは床にあぐらをかき、再び深く瞼を閉じて瞑想の淵へと沈んでいった。
脇から微かな電子音。
「ああ、そうだなるんすけ。我々は彼女を護らなくては」
足元では、お掃除ロボットのるんすけが「わかってるよ」と慰めるように、ピコッと小さな電子音を鳴らして彼の周囲を健気に旋回し続けていた。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
奈々の「アレルギー」という名の強がりと、エリオットの「キス貯金」という名の重すぎる愛……。
次回、物語は新展開へ。「魔法のお弁当」編、スタートです!
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