第17話:魔法使い、家事スキルの習得(前編)
異変に気づいたのは、朝の業務連絡キスの時だった。
いつも通り三秒(タイマー計測済み)。
――唇を離す
目を開けると、エリオットの顔色が悪い。「少し悪い」ではない。「これ生きてる?」レベルだ。
肌の白さが一段階アップグレードされている。もとから色白なのが更に白くなり、もはや透けるのではないかという域に達しつつある。前にコンビニに行った時と同じような蒼白さだ。あの時も嘘ついてたな、この男。
「あんた、顔色悪くない?」
「問題ない」
「嘘でしょ。昨夜も魔法使いすぎたんじゃないの。回復魔法に結界に……全部、魔力使ってるんでしょ」
エリオットは一瞬だけ沈黙してから、いつもの平然顔を作った。
しかし私は最近わかってきた。
そう「この男の嘘リスト」一覧だ。私はそれを既に脳内データベースに蓄積している。
「問題ない」と「心配には及ばない」は二大嘘フレーズ。
「些細なことだ」が三位。
――全部嘘だ。
体調が悪ければ悪いほど「問題ない」の声に力が入る。いや、わかりやすすぎるでしょ? 前の世界で聖職者をやっていたらとっくに弾劾されているレベルの嘘の下手さだ。
「魔力は効率的に運用している。心配には及ばない」
二大フレーズの二つ目まで出た。重症だよ、これ!
出社前にもう一つ、気づいたことがある。
いつもは完璧に輝いている魔法照明が、今朝はほんの少し暗い。天蓋ベッドの金糸の装飾も心なしかくすんでいる。要するに、部屋全体のゴージャス度がワンランク落ちているのだ。
魔力が、足りていない。
この世界に魔素がないから、彼の魔力源は全て朝のキスだけ。
その限られた魔力を、毎晩の料理と風呂と結界と回復魔法に惜しげもなく注ぎ込んでいる。
足りない分は……どうしているのか。
考えたくないことが頭をよぎった。
前世での知識を思い出す。「魔力が足りない場合、自分の魂=生命力を削って発動する」魔法学院ではそう教えていたはずだ。この男の場合は底なしの魔力のせいで、そんな羽目になったことはなかったはずだが。
「エリオット」
「なんだ」
「今日は魔法なるべく使わないで。ご飯もお風呂も、普通でいいから」
「普通とは」
「《《魔法なし》》。普通に料理して、普通にお湯沸かして、普通に生活して」
エリオットの目が、わずかに見開かれた。
それは驚きというより困惑に近い表情だった。「魔法なしの生活」という概念自体が、この男のOSに存在しないのかもしれない。Windowsに「電気なしで動いて」と言うようなものだ。
「……しかし、それでは君の疲労回復が——」
「私の疲労より、あんたの命の方が大事でしょ」
言ってから、盛大にしまったと思った。
「大事」なんて単語を選んだ私の口を今すぐ縫い合わせたい。
「いや、大事っていうか、あんたが死んだら家事する人いなくなるし。ご飯作る人いないし。るんすけが悲しむし」
「るんすけが」
「そう。るんすけが」
るんすけを盾にした。ルンバに感情があるかどうかは知らないが、あるということになっている(エリオット認定)
「では、今日は魔法を使わずに家事を試みよう」
「できるの?」
「やったことがないだけだ。原理は理解している」
自信満々だ。
しかしこの男の「原理は理解している」ほど信用ならない言葉はない。自動ドアの原理も理解していなかった男だ。バーコードを魔方陣だと思っていた男だ。嫌な予感しかない。
§ § §
帰宅。午後九時。今日は黒田が取引先との接待で早く上がった(他人の金で飲む酒は美味いらしい)おかげで、比較的まともな時間に帰れた。
ドアを開けた瞬間、異様な光景が広がっていた。
泡。
白い、もこもこした、大量の泡が、キッチンから廊下にかけて溢れ出ている。
「なっ……えっ……!?」
足元がぬるりと滑った。スニーカーの底が泡に乗って制御を失う。かろうじて壁に手をついて転倒を免れたが、ストッキングが泡を吸って壊滅した。今日二足目だ。一足目は出社時に伝線した。ストッキングの日だ今日は。
「エリオット!?」
泡の海をかき分けてキッチンに突入する。
そこには、全身をびしょ濡れにしたエリオットが、洗濯機の前で呆然と立ち尽くしていた。
高級スーツ(魔法製)が水浸し。銀色の髪が額に張りついて、顔の造形がいつもよりダイレクトに見える。顔がいい。こんな状況でもイライラするほど顔がいい。そして周囲三メートルが、もこもこの白い泡で覆われている。
さながら「泡の宮殿」だ。六畳一間の王宮スイートルームが、今度は泡の王国にジョブチェンジしている。
「……何があったの」
「洗濯を試みた」
エリオットは、目の焦点が合っていない。戦場から帰還した兵士のような虚ろな目をしていた。
「この洗浄魔導具に衣類を投入し、洗浄薬を注入した。しかし、適切な量の表記が読解できなかったため、やや多めに投入した」
「やや多めってどのくらい」
「一本」
一瞬、脳が停止した。
例のブルースクリーンだ。
「一本、まるごと!?」
「液体の量が足りないと効果が薄いと判断した。魔法の触媒は多ければ多いほど効果が強くなるのが常識だ」
「洗剤は触媒じゃない!! 一回分はキャップ一杯だよ!?」
三十回分の洗剤を一度に投入したのだ。
そりゃ泡まみれになる。むしろ泡で済んでいることに感謝すべきかもしれない。爆発しなかっただけマシだ。洗剤は爆発しないが。
「説明が読めないのだから仕方がないだろう。ラベルの文字が全て暗号に見える」
「暗号じゃなくて日本語!! あんた漫画は読めるようになったのに洗剤は読めないの!?」
「漫画は絵があるから文脈が推察できる。この容器には絵がない」
「……一理ある」
一理あるがそれで一本丸ごと入れるのは論理の飛躍がすぎる。
洗濯機は泡を吐き出しながら悲痛な回転音を立てていた。明らかに断末魔の叫びだ。瀕死のゴーレムにしか見えない。
「この魔導具は制御が不安定だ。何度停止呪文を詠唱しても反応しない」
「脱水モードに入ってるから途中で止まらないの!!」
「……そうか、詠唱中だということなのだな」
私は泡の海を膝までかき分けて洗濯機に辿り着き、電源を落とした。ぷすん、と力なく回転が止まる。享年八年。うちに来てから五年。長い間お疲れ様でした。
振り返る。
泡まみれのキッチンに、泡まみれの大魔法使いが立っている。肩に泡が乗っている。顔にも泡がついている。絶世の美貌に泡の髭が生えている。サンタクロースか。
「…………」
笑っちゃだめだ。笑っちゃだめだ。笑ったらこの人傷つく。
「ぶっ」
ダメだった。
「うぶっ……あはは……あはははは!」
堪えきれなかった。
泡の王国と、泡サンタのエリオット。シュールの極みだ。前世で「絶対零度」と恐れられた男が、泡まみれで途方に暮れている。これを笑わずにいられる人間がいたら、そいつの方が怖い。
「何がおかしい。私は真剣に——」
「いやぁ、ごめん、ごめんって……あはは、泡、泡ついてる、あごに」
指差すと、エリオットが自分の顎を触り、手のひらに泡がべったりとつくのを呆然と見つめた。
「……戦場で撤退を命じられた魔導師のような気分だ」
「洗濯で撤退する魔導師いる!?」
笑いすぎて涙が出た。
十四時間黒田に耐えても出なかった涙が、泡まみれのイケメンのおかげで出た。涙の使い道が意味不明だが、不思議と気持ちよかった。
§ § §
泡の惨劇の片付けは次回へ!「魔法使い、家事スキルの習得(後編)」では二人で手洗い洗濯に挑みます。フォローしていただければ続きをお届けできます! 感想もお待ちしてます!




