第16話:名前の呼び方(後編)
リビングの椅子に座り直して、私は正面のエリオットを見た。
相変わらず顔がいい。真剣な表情をすると、美術館の彫刻が命を持ったような神々しさがある。イケメンアレルギーの私が彼と正面から向き合えるようになったのは、ひとえに彼の色々なポンコツ具合——洗濯機爆破、電池を「小型魔力炉」と言い張る事件、ルンバとの友情——を知ってしまったからだ。
ポンコツを知ると人は強くなれるよね。
「……私の名前、奈々って言うでしょ」
テーブルの上で自分の手を組みながら、私は切り出した。
「これ、実はちゃんと親がつけた名前じゃないんだ」
「……どういうことだ?」
「私が産まれてすぐに捨てられたの」
それを聞いた瞬間、エリオットの顔色が変わった。
予想もしていなっかたというように。
「で、直ぐに施設に引き取られて、そこで『奈々』って名前を貰ったの。その年の七番目に来た子だったから、適当に『ナナ』って」
エリオットの瞳が、わずかに——しかしはっきりと見開かれた。
氷の奥で、何か硬いものが軋むように光った。
「……それが、君の名の由来だと?」
「そう。適当。意味なんかない。ただの番号」
私は肩をすくめてみせた。
今の私には、それを笑って言えるだけの図太さがある。前世で政争を生き抜いた元公爵令嬢のメンタルだ。この程度の過去に押し潰されてたまるか。
「ホント、両親の顔も知らなくて、でも赤ちゃんの頃から前世の記憶があったから、どうしようって感じだったけど」
声のトーンを落とさないように、私は意識して言葉を選んだ。
「逆に、きっと孤児院はあるはずだ、って思ってね。必死に泣いて存在をアピールしたの。そしたら親切な人が見つけてくれて。予想通りに施設に預けてくれたわ。――まぁこの世界が完全に私の知らない異世界だったって知ったときは驚いたけど」
「そんな――あの術式では、そんなことは起こるはずが……」
エリオットは顔色を変えてブツブツ言っている。だが、私は構わず続ける。
「だから私の名前は七番目の『ナナ』。最初は漢字すら決めてもらえなかった。カタカナでナナ。ただそれだけ。名字だって、施設で貰った適当な名字だしね」
エリオットの表情が消えた。
消えた、というのが一番正しい。怒りでもなく、悲しみでもなく、感情の全てが一瞬で《《凍った》》。
彼がどれほど「名付け」という行為を神聖視しているか、前世の記憶を持つ私にはわかっている。異世界で名は魂そのものを定義する。星辰を読み、運命を占い、一音一音に祈りを込める——それが名付けだ。
だからこそ、今の私の過去は、彼にとって信じがたい冒涜に聞こえるだろう。
「……許しがたい」
声が変わった。
エリオットの低音が、普段の落ち着いた響きから数段低い、地を這うような音に変質していた。
同時に、室温が下がった。比喩ではなく、物理的に。足元のるんすけが寒さに反応してエラー音を出し、ガタガタと小刻みに震え始めている。
「君のその気高き魂を、ただの番号で呼ぶなどと……! その者たちは今どこにいる。私がこの手で——」
「ちょっと待って! 魔力練らないで! 六畳一間が凍る!!」
慌てて彼の手首を掴むと、骨まで刺すような冷気が肌を貫いた。絶対零度の大魔法使いの片鱗が、よりによって現世の六畳一間で発揮されようとしている。光熱費がとんでもないことになるのは間違いないし、何ならこの部屋ごと氷河期に入る。
「もう終ったことだから! どうでもいいから! 施設の人たちも悪い人たちじゃなかっだからね!!」
「どうでもいいわけがない。君はそんな呪いのような名を——」
「呪いじゃないよ」
私は彼の手首を離さず、真っ直ぐその目を見た。
逸らさなかった。
「呪いだった。——でも、今は違う」
エリオットの暴走が、ぴたりと止まった。
冷気が静まる。るんすけがほっとしたように通常の駆動音に戻る。
沈黙を受け取ったことを確認してから、私は続けた。
「私が施設でお世話なった先生がね。『ナナ』って音に、漢字を当ててくれたの」
——奈々ちゃん。君の人生は、これから何度でも新しく始まるんだよ。
そう言って、大きくて温かい手で頭を撫でてくれた人の顔は、もう朧げにしか思い出せない。声の高さも、背の高さも、眼鏡をかけていたかどうかさえ曖昧だ。
でも、あの手の温度だけは、はっきりと覚えている。
「『奈』には、からなしっていう果物の意味があるの。花梨に似た実をつける、唐梨。それから、神事の祭壇っていう意味も」
いつの間にか、自分の胸に手を当てていた。
「『々』はそれを繰り返す。豊かで、実りある大きなことが、何度でも繰り返されますように——って。先生がそう祈りを込めて、カタカナだった私の名前に漢字を与えてくれた」
静かに息をついてから、その先を口にした。
「あのね、エリオット」
彼の目を、見た。
「私は前世のカレンシュだった頃の記憶、全部あるよ。お父様——ハーゲン公爵から頂いた名前が、どれほどの愛情で贈られたものか。星辰の祝福を受けた、何よりも美しい名前だったか。全部知ってる」
エリオットが息を呑む音が聞こえた。
「でもね」
ゆっくりと、しかし絶対に折れない声で。
「私は今生で、この『奈々』って名前で生きてきたの。親に捨てられた後も、施設で自分を奮い立たせて、奨学金で大学に行って、面接で何十社も落ちて、やっと今の会社に入って」
一息。
「上司に怒鳴られて。終電で泣いて。缶コーヒー三本で一日を乗り切って。——それでも、この名前で、地面に足をつけて生きてきた」
だから。
「私は、今の自分が嫌いじゃないよ」
声が震えなかったのは、たぶん奇跡だ。
「前世の公爵令嬢じゃなくても。ただの小松奈々でも。私はこの名前を、誇りに思ってる」
§ § §
静寂が下りた。
冷蔵庫のモーター音だけが微かに響く六畳一間で、エリオットは私を見つめていた。
見つめていた、という表現は正確ではないかもしれない。
見入っていた、のほうが近い。
氷の瞳に纏っていた鎧のような冷たさがゆっくりとほどけて、その奥にある何かが——名前をつけるのが難しいほど深くて静かな光が、むき出しになっていた。
やがて、長い瞬きの後。
私の手首を掴んでいた彼の指先から、冷気が完全に消え去った。
代わりに残ったのは、ただの体温。人間と変わらない、温かい手のひらだった。
「……そうか」
ぽつりと、掠れた声がこぼれる。
「君は……やはり強いな。前世でも、今でも」
エリオットは私の手からゆっくりと手を離し、姿勢を正した。
そして——先ほどまで「カレンシュ」と呼ぶことを己の祈りだと語っていたこの男が、深く頭を下げた。
「すまなかった」
その声に、いつもの無表情さはなかった。
「君が自らの足で築き上げた尊厳を、私は否定するところだった」
顔を上げた彼の瞳には、もう迷いがない。
ただ、少しだけ不器用な。でもどこまでも真摯な光が宿っていた。
「——奈々」
初めて。
本当の意味で初めて、その名が彼の唇から放たれた。
「カレンシュ」と呼ぶ時の、祈りにも似た厳かな響きではなかった。
もっと柔らかくて、もっと温かくて、もっと——近い。
まるで壊れ物に触れるように繊細で、それでいて、手放すつもりなど微塵もない声だった。
「私はこれから、君を誇りとともにそう呼ぼう。君がこの世界で勝ち取った、その美しい名で」
胸が、熱かった。
もっと正確に言えば、胸の奥の何かが溶けた。ずっと凍っていたことすら忘れていた何かが、じんわりと、溶けた。
「大袈裟だなぁ、もう」
私はわざと呆れたように笑って、立ち上がった。
顔が赤くなっている自覚はあった。耳まで熱い。限界OLの許容量は激務で鍛えたつもりだったけど、この手の攻撃にはまるで耐性がない。イケメンアレルギーの特効薬どころか致死量だ。
「……じゃあ、練習だと思って、もう一回言ってみて」
「奈々」
「うん。もう一回」
「奈々」
「はい合格。今後、加齢臭呼びは罰金一回五百円だからね」
「了解した。——奈々」
三回目。
さっきまでどこか不器用だったその響きが、もう馴染んでいた。
適応力が高いのか、単にスペックが異常なのか。たぶん後者だ。この男は基本的に何をやらせてもスペックがおかしい。洗濯機と家電以外。
そして私は知っている。この男は現金を持っていないことを。
五百円、どうやって払う気なんだろう?
「……よし。じゃあ買ってきたお肉でご飯にしようか。今日は目を瞑って、お肉増量にしちゃおう」
「それは素晴らしい提案だ、奈々」
少しだけ間があって。
「……奈々」
「言い過ぎ! 一回でいい!」
名前を呼ぶという、ただそれだけのことで、こんなに心がくすぐったくなるなんて。
前世のカレンシュも知らなかった。今世の奈々も知らなかった。
あるいは二人とも、ずっと知りたかったのかもしれない。
誰かに、大切に名前を呼ばれるということを。
§ § §
「名前の呼び方」完結です! エリオットがついに「奈々」と呼べるようになりました。名前って、呼ばれるたびに少しずつ意味が変わっていくものなのかもしれません。次回からは物語が大きく動きます——黒田の横暴に、奈々とエリオットはどう立ち向かうのか。フォローや★で応援していただけると更新の励みになります! 感想コメントも全件お返事してます!




