第15話:名前の呼び方(前編)
土曜日の朝。
珍しく目覚ましより先に目が覚めた。平日は六時間睡眠が上限の社畜OLが、八時間も眠れたのは奇跡だ。エリオットの回復魔法のおかげかもしれないし、単に限界を超えて体が強制シャットダウンしただけかもしれない。
ぼんやりと天蓋付きベッドの中で天井を見上げる。金糸の刺繍が朝日に輝いて、ここが六畳一間であることを一瞬忘れさせる。
この一週間、色々ありすぎた。
黒田に十四時間酷使された月曜日。缶コーヒー三本で生き延びた夜。帰宅した私を回復魔法とスープで蘇生してくれたエリオット。
ホント、このエセイケメン、いつまでここに居るつもりなんだか。
まあ、助かってるのは間違いないから、いいか。
§ § §
起き上がって冷蔵庫を開ける。
正確には、冷蔵庫の中にエリオットが構築した六次元収納空間を開ける。見た目は普通の冷蔵庫だが、中は異次元のパントリーが広がっている。量子物理学もびっくりだ。
……足りない。
醤油、みりん、料理酒。和食の三種の神器が底をついていた。エリオットが毎晩の料理で使い切ったらしい。異世界の大魔法使いが魔法でつくる料理をつくってるから食材や調味料は減らないのでは? と思い聞いてみると、媒体はいるらしい。無から有を生み出すと消費魔力も莫大になり、現実的ではないらしい。結果として調味料は払底しいる訳なのね。
「カレンシュ。調味料の備蓄が——」
「知ってる。買い出しに行くから」
エリオットがリビングに現れた。今日も完璧に仕立てられた魔法製のスーツ姿だ。休日くらいカジュアルな格好をしてほしいが、この男のワードローブは魔法スーツしかない。ドレスコードの概念が絶望的に偏っている。
「ついてきて」
「護衛か」
「監視。あんたを一人にすると、エアコンのリモコンを分解するから」
先週、留守中にリモコンを「この小さな板は何かの封印具か」と言って裏蓋を開け、電池を取り出して精密に観察していた前科がある。電池を「小型の魔力炉ではないか」と真顔で言われた時のブルースクリーンは忘れない。
「あれは調査だ。この世界の技術を理解するためには——」
「いいから靴履いて」
§ § §
最寄りのスーパーマーケット。
自動ドアが開いた瞬間、エリオットの目が見開かれた。
「——この空間は」
「スーパー。食べ物を買う場所」
「これほどの食糧が一箇所に……コンビニにも驚いたが……これほどの規模の市場は王都でも、見たことがない」
「日本全国どこにでもあるよ。カート押して。あと、商品に魔法かけないで」
エリオットは巨大なショッピングカートを押しながら、目を皿のようにして店内を観察していた。
鮮魚コーナーで氷の上に並べられた魚を見て「保存の氷結術が精密だ」と感心し(ただの氷です)、精肉コーナーのパック詰めを見て「この透明な結界で鮮度を維持しているのか」と唸り(ラップです)、バーコードスキャナーの赤い光を見て「照合用の探知術式か。よくできている」と頷いた(バーコードです)。
全部間違っているが、全部それっぽく聞こえるのが腹立たしい。
調味料コーナーで醤油を選んでいる間、エリオットを野菜売り場で待たせた。
これが間違いだった。
突然、店内によく通る低音の美声が響き渡った。
「カレンシュ! こちらの根菜は品質が——」
フリーズ。
私だけではない。半径十メートルの買い物客全員がフリーズした。
振り返ると、エリオットが大根を片手に持ち、堂々とした姿勢で私を呼んでいた。
スーパーの真ん中で。
「加齢臭」と。
「ねえママ、かれいしゅうってなに?」
「しっ、見ちゃダメ!」
隣の親子連れの会話が刺さった。子供は純粋に疑問を口にしただけだ。でもその純粋さが致命傷になることがある。
奥の惣菜コーナーにいたおばさまが、憐れむような目でこちらを見ていた。「あらまあ、若いのに大変ねぇ」という視線だ。違う。加齢臭のことじゃない。いや加齢臭だけど加齢臭じゃない。名前なんです。名前。
説明しても余計ややこしくなるやつだ。
私は醤油のボトルをカートに投げ入れ、エリオットの腕を掴んで引きずった。
「会計する。今すぐ」
「しかし、まだ根菜の——」
「いいから!!」
§ § §
帰宅。
玄関のドアを閉めた瞬間、私は振り返った。
「座って」
「何故——」
「座って」
有無を言わさぬトーンに、エリオットは素直にリビングの椅子に腰を下ろした。この男、キスに関わる話になると途端に従順になる。今回はキスの話ではないが、私の怒気を察したのだろう。前世で宮廷の権謀術数を生き抜いた男だ。怒った女には逆らうべきではない、ということはわかっているのだろう。
「いい? 今日のスーパーで何が起きたか、理解してる?」
「……私が君の名を呼んだだけだが」
「《《加齢臭》》って叫んだの!! スーパーの真ん中で!! 子供に復唱されたの!!」
「カレンシュは星の——」
「日本語では加齢臭なの!! 何回言ったらわかるの!!」
私は深呼吸した。怒鳴り散らしても解決しない。黒田相手に六年間学んだことの一つだ。感情的になった方が負ける。
「エリオット。お願いだから、外でも家でも、私のことは『奈々』って呼んで。お願い」
「…………」
エリオットは沈黙した。
いつもの頑固な即拒否ではなかった。何かを選ぼうとして、選べないでいる顔だ。
「……カレンシュ、という名には意味がある」
低い声で、エリオットが言った。
「星の瞬き。天蓋に散りばめられた光の中で、最も美しく、最も儚い一瞬の煌めき。——ハーゲン公爵閣下がその名を贈った夜、満天の星が祝福するように輝いていたと聞いている」
知っている。前世の記憶がある私には、わかっている。
父がその名を選んだ時、どれほどの愛情を込めていたか。異世界では名付けとは、子の魂に祝福を刻む神聖な儀式だ。星辰を読み、運命を占い、一音一音に祈りを込める。
カレンシュという名は、そうして生まれた。
「私にとって、君をその名で呼ぶことは——」
エリオットは一度口を閉じ、言葉を探すように視線を落とした。
「……祈りに近い」
ずるい。
そういうことを、そういう顔で、そういう声で言うのは、ずるい。
イケメンアレルギーの発症トリガーを的確に撃ち抜いてくる。
でも、引くわけにはいかない。
「じゃあ話してあげる」
私は腕を組んだ。
「あんたに『奈々』って名前の由来を。この世界に来てからの私の話を少しだけね」
エリオットが首を傾げた。
「ナナ……。この世界の言葉では、何か意味があるのか」
「あるよ。まあ——意味って呼べるかは、微妙だけど」
私は、久しぶりにその記憶を引っ張り出した。
あまり思い出したくない類の記憶を。
§ § §
エリオットの「祈りに近い」発言にキュンとした方、挙手!(私はキュンとしてません。断じて)次回、奈々の名前に隠された切ない過去が明かされます。後編をお楽しみに! フォローで更新通知を受け取れます! 感想もお待ちしてます!




