第14話:私の上司がクズすぎる件(後編)
午後十一時四十五分。
終電の一本前に滑り込んだ。
車内はガラガラだった。向かいの座席では、同じく終電組のサラリーマンが魂を抜かれた顔で座っている。仲間だ。二十一世紀の日本で最も連帯感が生まれる瞬間は、終電の車内である。
今日処理したメール:六十七件。電話:十四本。黒田に押し付けられた田中さんの案件:一ページも進まず。自分の案件:全て締め切りオーバー。昼食:なし。夕食:自販機の缶コーヒー(三本目)
データにすると更に絶望的だ。カロリー摂取量だけで見れば、エリオットが瞑想してた方がマシなのではないか。少なくともあっちは魔力で生きていける。こっちはカフェインで生き延びているだけだ。
「ただいま……」
ドアを開ける。
いつもの温かい光と、食欲をそそる匂いが——。
だめだった。
今日は、それを受け止める余力が残っていなかった。
靴を脱ぐ動作すら億劫で、私は玄関の段差にそのまま座り込んだ。前世の公爵令嬢がこの姿を見たら「立って。床に座るなんて使用人以下よ」と叱られるだろう。知ったこっちゃない。使用人以下で結構だ。
「……カレンシュ?」
エリオットが駆け寄ってくる気配。
相変わらずの加齢臭呼びだけど、もう抗議する気力もない。
顔も上げられない。上げたら、何かがこぼれそうだった。涙か、愚痴か、きっとその両方だ。
「疲れた……」
たった三文字。それだけで喉が震えた。
情けない。黒田にどやされて、仕事を押し付けられて、昼飯も食えなくて。全部「いつものこと」なのに、今日はなぜか蓋ができなかった。
蓋というのは便利なもので、社会人になってから六年間ずっとお世話になっている心理的防衛機制なのだが、たまに不良品が混じる。今日がそれだ。
「立てるか」
エリオットの声が、すぐ近くで聞こえた。
見下ろすのではなく、同じ高さに屈んでいた。この男は変なところで気が利く。変なところ以外(千里眼覗きとか洗濯機爆破とか)では壊滅的だが。
「……うん。大丈夫」
嘘だ。でも「大丈夫」以外の日本語を忘れた。
ブラック企業で六年間「大丈夫です」と答え続けた結果、それが自動応答システムになってしまった。便利で、哀しくて、そして多分もう壊れかけている呪文だ。
エリオットは何も言わず、私の手を取って立たせてくれた。
そのまま、リビングの椅子に座らせた。手順が完璧だ。毎晩やっているわけではないのに、まるでマニュアルがあるかのように淀みない。
あるいは前世でも、こうやって誰か(私?)を椅子に座らせたことがあるのかもしれない。考えたくないので考えない。
「食事は?」
「食べた」
嘘だった。昼も夜も食べていない。コーヒー三本しか摂取していない。
「嘘だな」
静かに断言された。
「千里眼で見てたでしょ」
「見ていない。入浴に限らず、プライバシーを侵害する行為は全て控えると決めた。だが——」
エリオットは、ほんの少しだけ眉を顰めた。
「缶コーヒーの匂いしかしない人間が『食べた』と言っても、信憑性はない」
「……探偵かあんたは」
返す言葉がなかった。嗅覚でバレるとは思わなかった。千里眼を封じられたら鼻に頼る男。犬か。るんすけの飼い主だけある。
「食事は後でいい。先に、これを」
エリオットが私の手を取り、掌を上に向けさせた。
そこに自分の手を重ねる。
ぽわ、と温かい光が二人の掌の間に灯った。
「っ……」
全身が、ほどけた。
肩に層になって溜まっていたコリが、シャーベットみたいにシャリシャリとほぐれていく。頭の奥で張り詰めていた鈍痛が緩み、目の裏の鉛が抜けていく。
回復術式。身体接触による直接伝導の、深い癒やし。
「……なにこれ。なにこれ……」
反則だ。
黒田の理不尽に十四時間耐えた身体が、数秒で修復されていく。この魔法を厚生労働省に提出したら日本の労働環境が変わるのではないか。変わらないか。厚生労働省自体がブラックだし。
数分間、何も話さなかった。
会話の必要がなかった。
彼の大きくて硬くて、でも温かい手と、穏やかな光だけが、今日一日で壊れかけた何かを静かに修復していく。
§ § §
気がついたら、テーブルの上にスープが置かれていた。
透き通った琥珀色。淡い湯気が立ち昇っている。
いつもの「全回復ファンタジーディナー」ではない。シンプルなスープだ。
一口すすった瞬間、わかった。
これは「食べられない人のためのスープ」だ。味も量も極限まで削ぎ落として、ただ温かさと栄養だけを届けるように設計されている。胃を攻撃しない程度に優しくて、でも確かに体の芯まで染み渡る旨味。
この男は、千里眼を使わずに、私の状態をここまで正確に読んでいるのか。
顔色と匂いと声色だけで、今夜の私には「ステーキではなくスープが正解」だと判断したのか。
……怖い。怖いが、ありがたい。ありがたいが、怖い。この感情のループは無限に回る。
「……おいしい」
声が掠れた。
こんな簡素なスープで泣きそうになるのは、疲労のせいだ。絶対に疲労のせいだ。断じてこの男の気遣いに感動したからではない。
「どうしてあんたは」
思わず口をついて出た。
「……たまに、そんな優しい目をするの。前世であんなことしたくせに」
エリオットの手が、ぴくりと止まった。
長い沈黙。
やがて、彼の右手が、ゆっくりとスーツの胸元を掴んだ。
心臓の上を。何か灼けるような痛みに耐えるように。
口を開きかけて——閉じた。
もう一度開きかけて——また、閉じた。
口の中で何かを必死に形にしようとして、それがどうしても出てこないような、苦しい顔だった。
そしてただ一言。
「……すまない」
それだけだった。
たった四文字で全てを終わらせた。いや、終わらせたのではない。それしか言え《《なかった》》のだ。
前世で何があったのか。本当はどういうつもりだったのか。胸を引き裂く痛みが、真実の一切を封じている。
もちろん、私にはそんな事情はわからない。
ただ、図星をつかれて言い訳もできない男が、苦し紛れに謝ったのだと——そう解釈するしかなかった。
「……別に。謝ってほしいわけじゃないし」
スープを最後まで飲み干して、私は立ち上がった。
お皿を片付けようとしたら、エリオットが「私がやる」と遮った。
「お風呂、入ってくるね」
「ああ。結界は展開してある」
「……ありがとう」
最後の一言は、ほとんど無意識に出ていた。
浴室のドアを閉めた後で気づいて、少しだけ後悔した。
前世で自分を殺した男に、「ありがとう」なんて。
それも今日、二回目だ。一回目はルール交渉の時。二回目が今。
このペースで行くと、一ヶ月後には日常的に感謝している自分がいそうで、それはそれで恐ろしい。
でも。
あの温かいスープのことだけは。
缶コーヒー三本で空っぽだった胃に染みた、あの味だけは。
素直に、ありがたいと思ったのだ。
……前世の自分に謝ろう。色々と。
§ § §
エリオットの「すまない」に込められた激重感情、伝わりましたか? 次回は打って変わってコメディ全開! 次回、加齢臭からの卒業!? 名前の呼び方編。フォローで更新通知を受け取れます! ★での応援もお待ちしてます!




