婚約破棄されたので、五年間の我慢を終わりにします——氷の公爵様、私の本性をご存知でしたか?
「リーネ。君との婚約を破棄する」
待っていた。
この言葉を、五年間ずっと待っていた。
私は完璧な微笑みを浮かべたまま、目の前の金髪碧眼の男——エドワード・クレイモント侯爵子息を見上げた。
王宮の大広間。煌びやかなシャンデリアの下、数百もの視線が私たちに注がれている。きらびやかなドレスを纏った令嬢たち、威厳を漂わせる貴族たち。その全員が、固唾を呑んでこちらを見つめていた。
きっと彼は、私が泣き崩れると思っているのだろう。
膝をついて縋りつき、「どうして」と問うと信じているのだろう。
五年間、婚約者として尽くしてきた女が、大勢の前で捨てられる。これ以上ない屈辱。これ以上ない悲劇。
——のはずだった。
(五年間、あなたの退屈な自慢話に付き合い、あなたの浅はかな策略を陰で修正し、あなたの失言を何度もみ消してきた私に、この仕打ち?)
心の中で、私は盛大にため息をついた。
「……そうですか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
波紋のない湖面のように、凪いでいた。
「それだけか?」
エドワードの眉が僅かに寄る。整った顔が、困惑に歪んでいた。期待した反応ではなかったらしい。
「何か、言うことはないのか」
(ありますとも)
私は心の中で微笑んだ。
(『ようやく解放される』『今夜は祖母様と祝杯をあげましょう』『あなたの隣にいた五年間は人生最大の苦行でした』——どれがお好み?)
「いいえ」
私は静かに首を振った。淡い亜麻色の三つ編みが、肩で小さく揺れる。
「エドワード様のご決断を、尊重いたします」
広間にざわめきが広がった。
ひそひそと囁き合う声。驚愕に見開かれた目。
誰もが予想していたのだ——婚約破棄を告げられた令嬢は、泣くか、怒るか、縋りつくかするものだと。
エドワードの隣では、蜂蜜色の巻き毛をした少女が大きな翠の瞳を潤ませていた。
ソフィア・エルンスト。
聖女候補として王宮に召し上げられた男爵令嬢。そして——私から婚約者を奪った女。
「リーネ様……」
ソフィアの声が震える。小動物のように身を縮め、エドワードの腕にしがみついている。
「わたくしのせいで……本当に、ごめんなさい……」
涙が一筋、その白い頬を伝った。
美しかった。絵画のように完璧な構図。可憐な少女が、罪悪感に苛まれながら涙を流す姿。
(素晴らしい演技力)
私は内心で拍手を送った。
(その涙、出す練習を何度したのかしら。鏡の前で? それとも侍女相手に?)
「ソフィア様のせいではありません」
私は穏やかに微笑んだ。心からの笑顔で。
「エドワード様が選んだのです。私はただ、お二人のお幸せを祈るばかり」
言葉通りだった。
お二人のお幸せを、心から祈っている。
——地獄の底で、末永くお幸せに。
「リーネ」
エドワードが一歩踏み出した。金髪が揺れ、碧眼が私を射抜く。
「君は……本当に、何も感じないのか」
(感じていますとも)
清々しいほどの解放感を。
五年間、この男の隣で耐え続けた日々。退屈な話に相槌を打ち、愚かな判断を陰で修正し、他の令嬢に色目を使う姿を見て見ぬふりをした。
その全てが、ようやく終わる。
「私は侯爵家の令嬢です」
静かに、しかしはっきりと言い切った。
「エドワード様のご決断に異を唱える立場にはございません。どうか、お気になさらず」
そう言って、私は優雅に一礼した。
完璧な角度。完璧な所作。五年間、侯爵令嬢として培った技術の集大成。
視線の端で、ソフィアの唇が微かに歪むのが見えた。
彼女は私が泣き喚くことを期待していた。みじめな姿を晒し、周囲の嘲笑を浴びることを。
残念ね。
その期待には応えられないわ。
踵を返し、大広間を歩き始める。
背後で「リーネ!」とエドワードの声がしたが、振り返らなかった。
貴族たちが道を開ける。驚愕と好奇心と、僅かな敬意を含んだ視線を感じながら、私は背筋を伸ばして歩いた。
その時だった。
「——見事だ」
低く、氷のように冷たい声が響いた。
足を止める。
大広間の柱の陰。影に溶け込むように、一人の男が立っていた。
漆黒の髪。凍てつくような青い瞳。彫刻のように整った顔立ちは、美しいというより峻厳だった。
カイル・ヴァルトシュタイン公爵。
北方領を治める王国最大の貴族。軍を率いて数々の戦に勝利し、「氷の公爵」「北方の死神」と恐れられる男。
社交界では「話しかけただけで凍死する」という噂すらあった。
そんな人物が、無表情のままこちらを見ていた。
「……公爵様」
私は姿勢を正し、礼をしようとした。
しかし、彼の次の言葉が私を凍りつかせた。
「『地獄の底で末永く』——か」
心臓が止まりそうになった。
聞こえていた。
私の心の声が、漏れていた。
(いつ? どの瞬間に? 私は確かに口を動かしていなかったはず——)
「……何のことでしょう」
「とぼけなくていい」
カイル公爵の唇が、ほんの僅かに——本当に僅かに——持ち上がった。
「五年間、よく耐えた」
笑った。
この男が、笑った。
「北方の死神」と呼ばれ、感情を見せないことで有名なこの男が。
「アッシュフォード嬢。いや——リーネ」
公爵が一歩、こちらに近づく。黒を基調とした服が、影のように揺れた。
「私と手を組む気はないか」
背後で、エドワードの息を呑む音が聞こえた。
広間が、静まり返る。
「氷の公爵」が、婚約破棄されたばかりの「侯爵家の影」に——手を差し伸べている。
(……これは、一体どういう状況?)
私の内心の毒舌が、初めて言葉を失った。
◇◇◇
「手を組む、とは」
私は警戒心を隠さずに問い返した。
周囲の貴族たちは、聞き耳を立てている。エドワードとソフィアも、こちらを凝視していた。
「場所を変えよう」
公爵は素っ気なく言った。
「ここでは耳が多すぎる」
「——お供いたします」
私は静かに頷いた。
公爵が歩き出す。私はその後に続く。
背後で、ソフィアの甲高い声が響いた。
「あの……リーネ様、公爵様と親しくしていらしたの……?」
(『親しく』? 今日初めてまともに話したわよ)
振り返らずに答える。
「ソフィア様。他人の交友関係に興味を持つより、ご自分の心配をなさった方がよろしいかと」
言ってしまってから、しまった、と思った。
いつもの私なら、もっと当たり障りなく返す。この五年間、ずっとそうしてきた。角を立てず、波風を立てず、静かに微笑んでやり過ごしてきた。
(婚約破棄されて、緊張の糸が切れたのかしら)
隣を歩く公爵が、また僅かに口元を緩めた。
「……なぜ笑うのです」
「笑っていない」
(嘘。今、絶対に笑った)
王宮の回廊を進む。やがて人気のない一角に辿り着いた。
「リーネ嬢」
公爵が足を止めた。高い天井から、淡い光が差し込んでいる。
「単刀直入に言おう」
氷のような青い瞳が、真っ直ぐに私を見た。
「私と婚約しないか」
——は?
「……今、なんと」
「婚約だ。聞こえなかったか」
聞こえた。聞こえたが、理解が追いつかない。
「公爵様。私は先ほど婚約破棄されたばかりですが」
「知っている。だから声をかけた」
「私を憐れんで——」
「違う」
公爵が一歩近づいた。距離が近い。近すぎる。
彼の影が、私を覆う。氷のような香りがした。北方の針葉樹林を思わせる、清冽な香り。
「五年前から、お前を見ていた」
心臓が跳ねた。
「あの馬鹿が婚約者でなければ、とうに声をかけていた」
『あの馬鹿』。公爵は明確にエドワードをそう呼んだ。
「今日、ようやくお前は自由になった」
冷たい声のはずなのに、どこか熱を帯びている。
「だから——私のものになれ」
(待って。待ってください。情報量が多すぎる)
私は深呼吸をした。心を落ち着かせる。
「公爵様」
「何だ」
「初めてまともにお話しした方に、即座に婚約の返事はできかねます」
「そうか」
公爵は——意外にも——素直に頷いた。
「では、まず知り合うところから始めよう」
「は」
「明日、茶会を開く。来い」
命令形だった。完全に命令形だった。
「断ったらどうなります」
「——」
公爵が黙った。その無表情が、僅かに困惑を帯びる。
(もしかして、断られることを想定していなかった?)
「公爵様」
私は微笑んだ。今度は、本心からの——皮肉を込めた——笑みで。
「五年間、意に沿わぬ婚約者に従ってまいりました。ようやく自由になったのです」
「……」
「また誰かの命令に従う気は、今のところございません」
言い切った。
公爵の顔から表情が消えた。元々無表情だったが、さらに温度が下がった気がする。
(まずい。『北方の死神』を怒らせた?)
しかし、公爵は意外な反応を見せた。
「——そうだな」
低い声で呟く。
「五年、耐えたのだ。当然だ」
そして、彼は一歩下がった。
「命令は撤回する」
私は目を瞬いた。
「リーネ嬢。明日の茶会に来ていただけないだろうか」
同じ内容なのに、言い方が変わっていた。
「私は——お前と話がしたい」
氷の公爵が、頭を下げた。
社交界の誰もが恐れる「北方の死神」が、婚約破棄されたばかりの令嬢に——頭を下げている。
(……これ、夢?)
私は困惑しながらも、口を開いた。
「——お茶の種類は、何がございますか」
「何でも用意させる」
「では、明日」
私は小さく頷いた。
公爵の瞳が、僅かに——ほんの僅かに——輝いたように見えた。
◇◇◇
屋敷に戻ると、祖母が待っていた。
「おかえりなさい、リーネ」
マルグリット・アッシュフォード。銀髪を優雅にまとめた気品ある老婦人。鋭い灰色の瞳は、私と同じ色をしている。
私の師であり、最大の理解者であり、毒舌と策略において敬愛すべき先達だ。
「祖母様」
私はソファに崩れ落ちた。淑女としてあるまじき姿勢だが、もう限界だった。
「婚約破棄されました」
「知っているわ」
祖母は紅茶を啜りながら微笑んだ。
「ようやくあの無能から解放されたのね。今夜はお祝いしましょう」
「祖母様……」
「それより」
鋭い灰色の瞳が細められる。
「カイル・ヴァルトシュタイン公爵と話していたそうね」
もう情報が伝わっている。祖母の情報網は恐ろしい。王宮の出来事が、私より先に屋敷に届いている。
「……婚約を申し込まれました」
「あら」
祖母の表情が、珍しく驚きを見せた。
「『氷の公爵』が動いた」
紅茶のカップが、ソーサーに置かれる。
「リーネ。あの男、五年前からお前を見ていたと言わなかった?」
「……なぜそれを」
「彼は嘘が下手なのよ」
祖母は意味深に笑った。銀髪が、暖炉の炎に照らされて輝いている。
「社交界では無表情で通っているけれど——お前を見る時だけ、目が違うの」
私は言葉を失った。
「五年間、ずっと見ていた。でも、婚約者がいるから手を出せなかった」
「そんな……」
「あの男なりの誠実さなのでしょうね」
祖母が立ち上がる。老いてなお、その背筋は真っ直ぐだった。
「リーネ」
「はい」
「面白くなってきたわ」
銀髪の老婦人は、かつて宮廷一の才女と呼ばれた頃の鋭い笑みを浮かべた。
「エドワード・クレイモントには、後悔してもらいましょう」
——後悔。
五年間、私を「地味で退屈」と見下した男。私の価値を一度も認めなかった男。
「祖母様」
私は立ち上がった。
「明日、公爵様の茶会に行ってまいります」
「行ってらっしゃい」
祖母の声が背中を押す。
「そうそう、リーネ」
「はい」
「明日は——髪を下ろしていきなさい」
私は、自分の地味な三つ編みに触れた。
◇◇◇
翌日。
「リーネお嬢様」
幼馴染のノアが、馬車の扉を開けた。銀髪に琥珀色の瞳、中性的な美貌を持つ青年。私の実家に仕える騎士家の出身で、物心ついた頃からずっと一緒だった。
「本日は——」
彼の言葉が止まった。
「……お嬢様」
「何かしら」
私は馬車に乗り込もうとした。
「髪を」
ノアが呆然と呟いた。
「下ろされているのですね」
亜麻色の髪が、肩を越えて背中まで流れている。いつもの三つ編みではなく、緩やかな波を描いて。
「たまには、ね」
私は微笑んだ。
ノアの琥珀色の瞳が、複雑な色を帯びた。
「……公爵様のために、ですか」
「祖母様の助言よ」
「そうですか」
幼馴染の声が、僅かに硬い。
(ノア。あなたまで、何か隠しているの?)
問いかけようとして、やめた。今日は公爵との茶会がある。余計なことを考えている余裕はない。
◇◇◇
ヴァルトシュタイン公爵邸。
黒を基調とした重厚な屋敷が、私の前にそびえ立っていた。北方の厳しさを体現したような建築。装飾は最小限で、実用と威厳を重視した造りだった。
「リーネ・アッシュフォード嬢、お越しです」
執事の声が響く。
私は深呼吸をして、扉をくぐった。
サロンには、カイル公爵が待っていた。黒い長椅子に腰掛け、こちらを見ている。
——そして、彼は固まった。
「……リーネ嬢」
氷のような声が、僅かに揺らいだ。
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は優雅に一礼した。亜麻色の髪が、さらりと揺れる。
公爵の視線が、私の髪に——下ろした亜麻色の髪に——釘付けになっている。
「その……髪は」
「気分を変えてみました」
私は微笑んだ。
(祖母様の言う通り。この髪型の方が、効果があるみたい)
公爵が咳払いをした。珍しく、動揺しているように見えた。
「座ってくれ」
促されるまま、私はソファに腰を下ろした。公爵の向かい、一人分の距離を置いて。
紅茶が運ばれてくる。香りからして、最高級の茶葉だ。北方産の希少な品種だろう。
「単刀直入に聞く」
公爵が口を開いた。
「お前は、あの男を愛していたのか」
あの男——エドワードのことだろう。
「いいえ」
私は即答した。
「家同士の取り決めでした。私に選択権はありませんでした」
「……そうか」
公爵の表情が、僅かに和らいだ。
(何を安心しているの、この人)
「では、次の質問だ」
「はい」
「お前は、なぜ五年間も耐えた」
公爵の青い瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「あの男に冷遇され、周囲に嘲笑され——それでも、なぜ」
私は紅茶のカップを持ち上げた。深い琥珀色の液体に、自分の顔が映っている。
「……祖母様がいたから、です」
「マルグリット嬢が」
「婚約を破棄すれば、アッシュフォード家に傷がつく。祖母様は高齢です。私の軽率な行動で、祖母様の晩年を曇らせたくなかった」
言葉にすると、五年間の重みが蘇ってくる。
無視され、見下され、「地味」「退屈」と陰で囁かれた日々。それでも微笑みを絶やさず、淑女として振る舞い続けた日々。
「だから耐えた。相手から破棄されれば、非は向こうにある」
「……計算していたのか」
「ある程度は」
私は微笑んだ。
「エドワード様は、いつか必ず私を捨てると思っていました。ソフィア様でなくても、誰か別の女性に心を移すと」
「なぜそう思った」
「彼は——」
私は言葉を選んだ。
「自分より下に見ている相手を、いつまでも傍に置いておけるほど、強くないのです」
公爵が目を細めた。
「聡いな」
「観察する時間は、たっぷりありましたから」
(五年間、あの男の愚行を見続けていれば、誰でも気づきます)
「リーネ嬢」
公爵が身を乗り出した。
「私は、お前を下に見るつもりはない」
「……」
「対等な——いや、お前の方が聡明だろう。私に足りないものを、お前は持っている」
意外な言葉だった。
北方の死神が、自分の欠点を認めている。
「公爵様に足りないもの、とは」
「人の感情を読む力だ」
公爵は静かに言った。その声には、僅かな苦さが混じっていた。
「私は人の顔と名前を覚えられない。笑顔の裏にある思惑が読めない。だから孤立した」
「……」
「だが、お前は違う」
氷の瞳が、熱を帯びた。
「お前は、全てを見ている。全てを理解した上で、微笑んでいる」
私は息を呑んだ。
「五年前、社交界でお前を見た」
公爵が続ける。
「あの馬鹿がお前を無視して他の令嬢と話している間——お前は、微笑みながら周囲の全員の会話を聞いていた」
「気づいて……いらしたのですか」
「誰も気づいていなかった。だが、私には分かった」
公爵の声が低くなる。
「お前は、私と同じだ」
「同じ……」
「周囲に馴染めない。本当の自分を隠している。——だが、お前の方が上手だ」
私は言葉を失った。
見抜かれている。この男に、私の本質を。
「リーネ嬢」
公爵が立ち上がった。
ゆっくりと近づいてくる。長い脚が、私との距離を縮める。
「もう隠さなくていい」
彼の手が、私の頬に触れた。
冷たいかと思ったその手は——意外にも、温かかった。
「私の前では——本当のお前でいてくれ」
心臓が、大きく跳ねた。
◇◇◇
その時だった。
サロンの扉が、乱暴に開かれた。
「カイル!」
金髪碧眼の男が飛び込んでくる。
エドワード・クレイモント。
「……なぜ、ここに」
公爵の声が、氷点下まで下がった。彼の手が私の頬から離れる。
「リーネが来ていると聞いた!」
エドワードの視線が、私を捉える。
そして——彼は固まった。
「リーネ……?」
「エドワード様」
私は立ち上がり、淡々と一礼した。
「お久しぶりですね。——昨日ぶりですが」
エドワードの視線が、私の髪に釘付けになっている。
「その髪……」
「下ろしてみました」
「君は……こんなに」
彼の顔が、みるみる青ざめていく。
「綺麗だったのか……?」
(今さら気づいたの? 五年間、あなたの婚約者だったのに?)
私は微笑んだ。完璧な、淑女の微笑みで。
「エドワード様。私はもう、あなたの婚約者ではありません」
「待ってくれ、リーネ」
エドワードが一歩踏み出した。
「昨日のことは——早まった判断だった。考え直してもいい」
(は?)
「私と——もう一度」
「黙れ」
氷の声が、サロンを凍らせた。
カイル公爵が、エドワードの前に立ちはだかる。黒い服が、壁のように彼を遮った。
「クレイモント。お前は昨日、彼女を捨てた」
「それは——」
「彼女の髪が下りているから、考え直す?」
公爵の声に、明確な怒りが滲んだ。
「お前は、五年間何を見ていた」
エドワードの顔が歪む。
「カイル、お前には関係ない——」
「ある」
公爵が、私の手を取った。
大きな手。温かい手。
「彼女は、私の婚約者候補だ」
サロンに沈黙が落ちた。
エドワードの顔から、血の気が引いていく。
「嘘だ……」
「嘘ではない」
公爵が私を見た。
「——そうだな、リーネ」
(え。まだ返事していないのだけど)
私の内心の困惑をよそに、公爵は続けた。
「クレイモント。もう遅い」
氷の瞳が、冷たく輝く。
「お前が捨てた宝石を——私がいただく」
エドワードの顔が、絶望に染まった。
私は——その顔を見て、初めて気づいた。
五年間、ずっと待っていた瞬間。
後悔に歪む、あの男の顔。
(——ああ、気持ちいい)
私は微笑んだ。
今度こそ、心からの笑顔で。
◇◇◇
エドワードが去った後、私は公爵に向き直った。
「公爵様」
「何だ」
「勝手に婚約者候補にしないでいただけますか」
公爵の表情が、僅かに動いた。
「……すまない」
「謝るのですね」
「お前の許可なく言うべきではなかった」
素直だった。この男は、意外なほど素直だ。
「ただ」
公爵が私を見た。
「あの男が、お前を見る目が許せなかった」
「見る目、ですか」
「今さら気づいた、という顔だ」
公爵の声が、低く響く。
「五年間、傍にいたのに。お前の価値を、何一つ見ていなかった」
「……」
「許せなかった」
私は、深く息を吐いた。
この男は——本気だ。
「公爵様」
「何だ」
「私は、まだ返事をしていません」
「分かっている」
「でも」
私は、彼の青い瞳を見上げた。
「——もう少し、お話を聞かせていただいても?」
公爵の顔が、僅かに——ほんの僅かに——緩んだ。
「いくらでも」
彼の手が、また私の手を取った。
温かかった。
氷の公爵の手は、どこまでも温かかった。
◇◇◇
屋敷に戻ると、祖母が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました、祖母様」
「どうだった?」
私はソファに座り、今日の出来事を話した。公爵との会話。エドワードの乱入。そして——
「『お前が捨てた宝石を、私がいただく』」
祖母が、声を上げて笑った。
「あの男、そんなことを言ったの」
「はい」
「素敵じゃない」
祖母の灰色の瞳が、輝いている。
「リーネ。あの公爵、本気よ」
「……分かっています」
「お前はどうしたいの?」
私は、窓の外を見た。夕暮れの空が、紅く染まっている。
「祖母様」
「何かしら」
「私、五年間ずっと——」
言葉が詰まった。
「誰にも、本当の自分を見せられませんでした」
「ええ」
「でも、公爵様は——」
私は、自分の手を見つめた。彼の手の温もりが、まだ残っている気がした。
「『本当のお前でいてくれ』と、言ったのです」
祖母が、静かに微笑んだ。
「リーネ」
「はい」
「良い選択をなさい」
私は頷いた。
五年間、私は影だった。
目立たず、波風を立てず、誰かの隣で微笑むだけの存在。
でも、もう——
「祖母様」
「何かしら」
「明日、また公爵邸に参ります」
「そう」
祖母が紅茶を啜った。
「行ってらっしゃい。——今度は、もっと綺麗にしていきなさい」
私は笑った。
五年間で、初めて心から笑った気がした。
◇◇◇
それから一週間後。
王宮で開かれた夜会。
私は、カイル・ヴァルトシュタイン公爵の隣に立っていた。
亜麻色の髪は、美しく結い上げられている。淡い青のドレスは、肌の白さを引き立てていた。
「あれは……」
「アッシュフォード嬢?」
「嘘でしょう、あんなに綺麗だったの?」
ざわめきが、広間を包む。
私は微笑んだ。完璧な、淑女の微笑みで。
——でも、内心は違う。
(さあ、皆様。目を開けてご覧なさい)
(五年間、あなたたちが『地味』と呼んだ女を)
(『侯爵家の影』と嘲笑った女を)
公爵が、私の手を取った。
「緊張しているか」
「いいえ」
私は彼を見上げた。
「むしろ——楽しんでいます」
公爵の唇が、微かに持ち上がった。
「そうか」
広間の向こうで、エドワードとソフィアが固まっている。
ソフィアの顔は蒼白だった。自分より「地味」だと見下していた女が、社交界の頂点に立つ公爵の隣にいる。
エドワードは——もう、私を見ることすらできないようだった。
(ようやく分かったかしら、エドワード様)
(あなたが捨てたものの価値を)
「リーネ」
公爵が囁いた。
「何でしょう」
「——美しい」
その言葉は、社交辞令ではなかった。
氷の瞳が、熱を帯びている。
「公爵様」
「何だ」
「私、まだ正式にお返事をしていませんでした」
「……ああ」
「改めて申し上げます」
私は、彼の手を握り返した。
「カイル様。私を——あなたの隣に置いてくださいますか」
公爵の目が、大きく見開かれた。
そして——
彼は、笑った。
氷の公爵が、社交界の全員が見ている前で、本当の笑顔を見せた。
「——ああ。永遠に」
広間に、どよめきが広がった。
◇◇◇
その夜。
エドワード・クレイモントは、屋敷で一人、酒を煽っていた。
「どうして……」
呟きが漏れる。
「どうして、気づかなかった……」
リーネの姿が、目に焼き付いて離れない。
亜麻色の髪。澄んだ灰色の瞳。そして——公爵を見上げる、幸せそうな笑顔。
五年間、あの笑顔を見たことがなかった。
「私のものだったのに……」
グラスを握る手が震える。
「リーネ……」
彼は知らなかった。
自分が「地味で退屈」と見下していた女が、どれほどの宝石だったのかを。
そして——もう二度と、彼女が自分のものになることはないのだと。
◇◇◇
一方、ソフィア・エルンストは、鏡の前で唇を噛んでいた。
「なぜ……なぜあの女が……」
聖女候補としての地位も、今や危うい。エドワードとの婚約も、正式には成立していない。
そして、社交界の話題は全て——リーネとカイル公爵の婚約に奪われていた。
「私の方が……私の方が綺麗なのに……」
涙が頬を伝う。
今度は、演技ではなかった。
◇◇◇
数ヶ月後。
私は、ヴァルトシュタイン公爵邸の主となっていた。
「奥様」
侍女が声をかける。
「旦那様がお戻りです」
「そう」
私は立ち上がり、玄関へ向かった。
扉が開く。漆黒の髪に、青い瞳。私の夫が、そこに立っていた。
「——ただいま」
「おかえりなさい、カイル様」
私は微笑んだ。
「今日の会議は、いかがでしたか」
「お前がいないと、退屈だ」
「……それは、お仕事に集中してください」
「お前がいれば、集中できる」
「矛盾していません?」
カイルが、私の手を取った。
「リーネ」
「はい」
「——幸せか」
私は、彼を見上げた。
五年間、私は影だった。
誰にも本当の自分を見せられず、微笑みの仮面をかぶって生きてきた。
でも今は——
「はい」
私は答えた。心からの言葉で。
「とても」
カイルの唇が、私の額に触れた。
「私もだ」
氷の公爵の声は、どこまでも温かかった。
◇◇◇
【後日談——祖母の手紙より】
『リーネへ
お前の結婚式、とても美しかったわ。カイル公爵が涙を堪えていたこと、気づいていた? あの「氷の公爵」が、お前の花嫁姿を見て泣きそうになっていたのよ。
それから、エドワード・クレイモントのこと。あの男、最近すっかり落ちぶれたそうね。聖女候補のソフィアは、聖女の適性がないと判明して実家に返されたとか。因果応報というものね。
ノアはまだお前を諦めていないようだけれど——まあ、それはお前の夫がどうにかするでしょう。
リーネ。お前は私の自慢の孫よ。
幸せになりなさい。
ずっと、ずっと、幸せに。
祖母より
マルグリット・アッシュフォード』
◇◇◇
私は手紙を閉じ、窓の外を見た。
北方の空は、今日も澄み渡っている。
「リーネ」
振り向くと、カイルが立っていた。
「何を読んでいる」
「祖母様からの手紙です」
「そうか」
彼が隣に座る。大きな体が、私に影を落とす。
「カイル様」
「何だ」
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「私を——見つけてくださって」
カイルの目が、僅かに見開かれた。
そして、彼は私を抱き寄せた。
「礼を言うのは私の方だ」
低い声が、耳元で囁く。
「お前が——私を選んでくれた」
私は、彼の胸に顔を埋めた。
温かい。
五年間、凍えていた心が、ようやく溶けていく。
「カイル様」
「何だ」
「これからも——私の本性に、付き合ってくださいますか」
「当然だ」
彼の声に、笑みが混じった。
「お前の毒舌も、策略も、全て——私のものだ」
(……独占欲が強すぎませんか、この人)
私は内心で呟いた。
でも——悪くない。
「では、カイル様」
「何だ」
「今夜の晩餐会、ご一緒してくださいますね」
「もちろんだ」
「実は、少し意地悪な計画がありまして」
「聞こう」
私は微笑んだ。
五年間封じていた本性が、ようやく解き放たれる。
「——楽しくなりますわよ」
氷の公爵が、初めて声を上げて笑った。
物語は終わらない。
むしろ——ここから、本当に始まるのだ。




