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夏休みは水底で

作者: 高瀬あずみ

これ、ホラーを名乗って許されるでしょうか? すみません。怖くないです。


(ああ、パパが言ってたとおりだ)


 丈史(たけふみ)少年は、入れ替わった身体ごと、ぶくぶくと沈んでみた。人の身体はどうやっても浮いてしまうのに、もうそんなことは関係ないとばかりに、底まで降りると、深く積もった泥が冷たく滑らかに包んでくれて、それがなんとも心地よい。

 目を見開くと藻がゆらゆら繁茂しているばかりで、視界は遮られる。それでも差し込んで来る太陽の光が、遠く水面を輝かせているのがとてもきれいで。呼吸をする必要はないのか水中でも苦しくはないから、ただぼおっと見とれていられる。

 これが特殊な状態であることを知りながら、丈史少年は手に入った風変わりな夏休みを楽しむことにした。



「うちの田舎には河童がいるんだ」


 小学二年生になる川津(かわづ)丈史(たけふみ)くんがリビングでゲームしていると、横で晩酌中のパパがボソリと言った。

 あまり冗談を言わないパパにしては珍しいな、と丈史少年は思う。モンスターをゲットするゲームしている側で言われたけれど、別に日本の妖怪をゲットしたいと思ったことはない。でも興味がないわけでもなかった。


「パパ、見たことあるの?」

「あるぞ。おじいちゃんも知ってるよ」

「ぼくも見られる?」

「ああ、田舎の家の裏の沼に行けばな」


 ママが聞いたら、沼に行くなんて危ない、って反対されそうだから、黙って見に行こうと丈史少年は決意した。幸い、リビングにはパパと二人だけだし、ママには聞かれていない。


「つかまえたり、できるかな?」

「捕まえるのはあまりお勧めしないぞ。わりと気持ち悪いから」

「気もちわるいんだ……」

 少し気分が下降する。目の前の画面の中のカラフルなモンスターたちとは違うらしい。

「沼に住んでるからなあ。きれいな水で洗えば……いや、洗ってもきっともうひとつ……」

 何かを思い出すように遠い目をしているパパだが、眉間にしわが寄っていた。


「でも、カッパって、めずらしい?」

「そりゃそうだ。妖怪には違いないから」

「じゃあ、動画とったら人気でるよね!?」

 人気動画の配信者は、小学生にとって憧れだ。丈史少年だってなってみたいと思っている。

「動画かあ。写るかなあ? とりあえず、水に落としたらスマホ壊れるからな」

 丈史少年のスマホは、フィルターのいくつもかかっているお子様仕様だ。しかし壊れると不便だし、ママにはきっと怒られる。

「じゃあ、おいてく。パパもいっしょに見にいく?」

「パパが一緒だと見られないぞ」

「どうして?」

「あれはな、川津(かわづ)家の子供が一人で沼に行った時にしか現れないんだ」

「大人、こわいのかなあ」

「多分、ご先祖にとっちめられたんだと思う」


(なんか弱そう)

 そう思うと、河童だからって、大したものではない気もする。けれど丈史少年の周囲には、河童を見たなんて言う人はパパ以外にいなかったから、きっとレアな体験になるだろう。


 丁度、数日後。パパのお盆休みに合わせて田舎に行くことになっているのだ。前回に行ったのは幼稚園に入る前だったので、さっぱり覚えていないが。おじちゃん、おばあちゃんはこちらにも何度か来てくれて、すごく可愛がってくれる。おもちゃやゲームも買ってくれるので大好きだ。二人に会えることの方を丈史少年は楽しみにしている。ほとんど初めての田舎。まったく未知の河童。わくわくする気持ちが沸いて来るばかりだ。

 それからパパから河童とのつきあい方を教わったけれど、夜更かしをママに叱られてベッドに追いやられたので、大半は忘れて夢の中に入った丈史少年だった。




 長い、何時間もかかったドライブが終わって、辿り着いた田舎は本当に田舎だった。周り中緑でいっぱいで、建物なんてほとんどない。もちろん、人間の数も少ない。

 おじいちゃんとおばあちゃんに大歓迎されて、丈史少年のためにと捕まえてくれていた立派なカブトムシにまずは夢中になった。ご飯は丈史少年の好物ばかりが並べられて、何より街よりずっと涼しい。

(いなか、楽しいかも)

 ご機嫌で過ごす丈史少年は、すっかり河童のことなんて忘れてしまっていた。



 最初の数日は、何もかもが珍しくてはしゃいでいたが、段々飽きて来る。コンビニどころかお店もない。ゲームしようにも、対戦相手もいない。川での水遊びは大人が一緒でないと許されないが、パパはごろごろして起きる様子はないし、ママはおばあちゃんのお手伝い中。おじいちゃんは畑を見に行って不在。

 すっかり暇になった丈史少年はここでようやく、河童のことを思い出した。

「パパ、カッパ、見にいってくる!」

「そうか。気を付けていけよ」

 パパは打ち上げられたトドみたいに横になったまま、手だけ振って見送ってくれた。



 目的地に丈史少年が一人で向かえたのは、沼があるのが、ほとんど家の裏だからだ。庭の池、くらいの距離である。学校にある池より少し大きいかな、くらいだし、周囲の見通しも良い。水深も浅いと知られている。

 ただ、泉でなく池でもなく沼である。水中の泥のせいか水は濁って中を伺うことはできない。水面下で藻がびっしりと揺らめいているのはそれでも見えたので、間違っても入って水遊びしたいとは思わなかった。見通しは悪くはないのに、周囲の木が高いものばかりで、その影に潜んだ場所にある沼が、妙に薄暗いせいもあるだろう。


(カッパ、いるかなあ?)

 パパはあまり嘘はつかない人だけれど、大人だから色々誤魔化したりもする。素直に話を信じられるかというと半信半疑、というところ。ただ、妙に具体的な話をされたので、そこに真実味があった。

(とりあえず今日の絵日記のネタをゲットだぜ! 『ぬまにカッパをさがしにいきました』で、きまり!)

 黄土色で沼の絵を書けばいいかな。そんな風に現実的に考えていたのだが。



<オイ、オマエ。川津(かわづ)ノ子ダナ>

 変にしゃがれたような声が聞こえて、丈史少年は周囲をきょろきょろ見回した。

<ココダ、ココ>

 声は目の前の水の中からしており、何かがちゃぽんと水音をたてて現れる。

(うわっ、きしょい!)


 濡れた藻なのか髪なのかがべったりと長く貼りついた頭部。眉も睫毛も瞼すらないぎょろりとした両目。ふたつの穴は場所的に鼻の穴だろう。人の鼻のような高さはない。唇もない口は裂けたように横に広がっていて口中だけが赤い。

 ざぶりと水からあがって見えた全身は、当然のように裸で何も着ておらず、肌は沼の色を移したような黄土色。

 やや猫背ではあるが、背丈は身長百三十センチの丈史少年より少し低いくらい。ただお腹がぷっくりしていて幼児体型である。手足は細すぎて長すぎて異様だった。総じて気色悪い。


(頭のおさらも、せなかのこうらもないんだ)

 キャラクター化された陽気な緑色の河童とはずいぶん様子が違う。けれど、それが何かと問われれば、やはり河童としか答えようがない。目の前にいたのは、そんな何かだった。


<川津ノ子、名前ハ?>

「たけふみ、だよ。きみは?」

<太郎沼ノ、河童太郎>

「カパ太郎かあ。カパ太郎って、ほんもののカッパなの?」

<ヒトハ、オラノ事、ソウ呼ブ>

「うわぁっ、ゴ〇ウ以外に自分のこと、オラっていう人、いるんだ!?」

 丈史少年、それは喜ぶところではない。後、人でもないから。だが両者、まったく気にせず話が進む。


<川津ノ子、タケフミ。オラト、相撲デ、勝負シロ>

「え、すもうって、テレビで中けいしてる、アレ? やったことないよ。それに、すもうって、マワシ? なんかベルトみたいなの、まいてやるんでしょ? カパ太郎、はだかだし、つかむところないじゃん」


 正直なところ、河童太郎の肌は見るからにぬめっとしていて、素手で触りたいものではない。あと、手を身体に回しても滑りそうだ。それに何より。組み合ったりなんかしたら絶対服が汚れる。そうしたら、ママが怖い。明らかに人間でないものを目にしても。そんなものより怒ったママの方が怖い丈史少年である。


<タケフミ、相撲、シナイ?>

「うん。やりたくない」

 そもそも兄弟のいない丈史少年は取っ組み合いすらしたことがない。

<ジャア、力比ベ、シヨウ>

 そう言って、河童太郎が両手を突き出してきた。

 多分、お互いの両手を組んで、押し合いするんだろうな、と予想はついた。抱き着くよりはマシかもしれない。それに、力比べも嫌だと言ったらどうなるか。もっと嫌な提案がされるかもしれない。

「うーん、それじゃ、一回だけね?」


 組んだ手は、やっぱりしっとりべったり、ひんやりしていて、振り払いたくなる。指は五本あったけれど、骨の上にゴムを被せたような感触で、水掻きは無かった。


 丈史少年が気持ち悪さを我慢しているうちに、河童太郎は容赦なく力比べを開始することにしたらしい。


<ハッケヨーイ、ノコッタ、ノコッタ!>

(それ、すもうの時の! これ、すもうじゃないのに!)


 丈史少年の内心のツッコミなど知らぬように、河童太郎は一挙に力を込めて。そうして呆気ないほど簡単に、丈史少年は背中から倒れた。幸い、背中の下は草や泥で怪我もなかったが、確実に背中が泥だらけになっているだろう。


<オラノ、勝チ。タケフミ、言ウ事、キク>

「そんなやくそく、してないよ!」

<勝ッタ、ノハ、オラ。タケフミ、身体、交換スル>


 まだ繋いだままの両手から何かが引き抜かれて、どこかに押し込まれるような感覚に襲われた丈史少年は、意識が飛びそうになるのをなんとか堪える。乱暴に振り払われて地面に手をつくが。その手は細い黄土色だった。


<エッツ!?>

 口から出たのも、いつもの自分の声ではない。何が起きたのか分からないうちに、背中を泥だらけにした男の子が走り去っていくのが視界の端に映った。


(あれは、ぼく?)

 自分の後ろ姿を画像以外で見る機会というのは普通、ありえないのだが、そのありえないことが起こっていた。同時に、あの背中を追えないという確信が沸いて来る。

(とりあえず、水の中に入らないといけない?)

 河童太郎の身体に押し込まれてしまってから改めて見た沼は、先程と違ってとても魅力的に感じる。本能的に、この身体は乾いてはいけないのだということも分かった。だから走って行った自分の身体を追えない事も。



 ちゃぷ、っと足先をつけた沼の水は、蕩けるような心地よさで。思わず勢いをつけて全身で飛び込む。水しぶきは上がらない。沼の水はこの身体を受け止めてひとつになるから。

 水泳の授業で泳いでみた時よりも早く、進みたいと思うだけでぎゅんぎゅんと水の中で動き回れた。なんだったら、水面を歩くことさえ出来るようだ。ただ、丈史少年はそれはしなかった。水の中で遊ぶのは楽しいが、水面に写る河童太郎の身体を直視したくなかったから。


 そうやってしばらく遊んでから、水底に沈んで横たわったわけだが。その時になって、自分の身体で走って行った河童太郎がどうなったかを考えた。

(服、よごしたのカパ太郎だし。カパ太郎がママにしかられるのは、とうぜんだよね?)



 丈史少年がこの特異な状況を楽しめているのには訳がある。既にどうなるか、パパから聞かされていたからだ。

(なんかすもう、しかけられて? 負けたら、身体が入れかえられるって、ホントだったんだ)

 それは代々の川津家の男児が体験する事なのだと言う。ただし、一生に一度だけ。それもそう長い時間ではないらしい。



 丈史少年がそうやって泥に包まれていつのまにかぐっすり眠っていたら、遠くから無視できない声が呼び掛けてきて起こされてしまった。

「たけふみ! たけふみ!」

 水底から見上げると真っ暗で、もう夜になっていたらしい。


(ずいぶん、はやいね?)

 おじいちゃんは三日。パパは一日入れ替わっていたらしいのだが、丈史少年の場合、僅か半日にも満たない時間で終わるようだ。


 とはいえ、丈史少年だって、いつまでも河童でいたいわけではない。多分、すぐに飽きてしまうだろう。それにこの姿だと友だちにも会えないし、新作のゲームもできない。あんまり長いと、パパやママに会えなくて泣いてしまうかもしれない。どれもやっぱり嫌なので、ゆっくりと水面へと浮かび上がる。


 暗がりに小さな濃い影があって、それが自分の身体だということが分かる。

<早カッタ、ネ?>

 答えるのも惜しいのか、無言で突き出された両手をこちらから握ると、眩暈と共に、水中にいたはずの自分が地上にいると知った。

(あ、ぼくにもどった)

 それは馴染んだ服を着たような感覚で、これが正しい姿なのだと感じる。


<チガッタ、チガッタ! コノ身体ジャナカッタ! イッパイ、シカラレタ! チガウ、タケフミ、チガウ!>

 涙も出ていないのに、月明かりの下、泣いているようにしか見えない河童太郎がいた。


「ねえ、カパ太郎は人間になりたかったんじゃないの?」

<人間、ナル、ナリタイ。デモ、チガウ。ママ? タクサン、シカル。ヨゴス、シュクダイ? デキテナイ、言ウ>

「カパ太郎って、字、書ける? 読める?」

<シラナイ、シラナイ。ジ、ナンテ、シラナイ!>

「計算は?」

<シラナイ! デキナイ!>


 丈史少年はため息をついて、河童太郎を諭すことにした。

「あのさ、人間になりたいなら、字の読み書きも、計算もできなきゃ。学校にもいって、じゅぎょうもうけて。来年、三年生になったら、じゅくにもいかなきゃだし。べんきょう、できないと、人間になっても、ちゃんとした大人になれないんだって。子どもはべんきょうして。大人はしごとして。そうやって生きてくんだよ?」

 河童太郎は応えないが、丈史少年は言葉を続ける。

「これ、パパからのでんごん。かわづの子どものからだとかわっても。なかみがカパ太郎のままだと、やっぱり人間にはなれないって。だからそろそろ人間になろうとするのは、あきらめろって」


 河童太郎は涙のないまま泣くばかりで、やがて沼の中へと沈んでいく。

「おもしろかったよ! もうあえないけど、げんきでね! バイバイ!」

 丈史少年は河童太郎に向かって手を振ったが、おそらくもう見てもいないらしく。やがて小さくとぷんと水音を残して、河童の姿はもうどこにも見えなくなった。


 おじいちゃんの家へと駆け戻ろうとして、丈史少年は気が付く。

「カパ太郎のやつ、くつもはいてない!」

 都会のコンクリートやアスファルトではない砂利の道を半泣きになりながら帰るはめになって、貴重な体験の楽しさがすっかり薄れてしまった丈史少年だった。




     ◇◆◇◆◇◆◇




 さて。丈史少年の知らなかった話をしよう。


 沼の底の泥の中に、丈史少年を見守っていた存在がいた。()()は今、沼底で泣いている河童太郎に寄り添っていたが、河童太郎もまた気付くことはない。()()にはもう形がなく、届く声もなかったからだ。

(憐れよ。憐れな魂よ。すべては儂の咎。許せ、許せ)

 それでも()()には意思と思考があり、もう数百年に渡って、河童太郎に謝り続けている。



 昔。戦乱の時代。逃げ延び生き延びた者たちがひっそりと隠れるように山間に作った集落。痩せた土地に田畑が出来、人々は貧しいながらもなんとか糊口を凌いで生き、代を重ねた。

 そんな時代に()()は目覚める。仄暗い沼底に揺蕩う闇の欠片。最初は意思も形もなかったが、集落の人間達が、

「あの沼に何かおる」

 と、口々に言うようになったから、()()は、何かになった。

「あの沼におるんは、きっと河童じゃ」

 更にそう噂されるようになって、()()は河童になったのだ。


 当時、闇は至る所にあり、人を引きずり込み、喰らい、死を与えるものだった。死は隣人のように身近で、ある日突然、理不尽に牙を剥く。人はその見えない恐怖の原因に怪異(あやかし)なるものを作り出し、擦り付けることで心を守っていた。


「河童は生き物を沼に引き摺り込んで尻子玉を抜くそうじゃ」

 そういう声が伝わって、ではやらねばと、水を飲みに来た野ネズミを水に引き込む。尻子玉が何かは知らなかったが、引き抜こうと思ったら暴れる身体から何かが抜け、小さな野ネズミは動きを止めてしまった。死体は水に沈み。尻子玉は目に見えず形もない。ただ、何かが河童の中に沁み込んだのが分かった。少しだけはっきりとする意識。

 それから河童は、最初は小動物。やがて猪から熊に至る大きな動物まで同じようにした。尻子玉を得る度に能力が上がる。熊にも勝てる力強さ。沼にいながら、遠くを視、遠くの音を捉える目と耳。それまでぼんやり意味の分かる程度であった、人間の話す内容も理解できる。言葉を覚え、発声することもできるようになった。個としての意識が目覚める。けれど河童は河童がどういうものか知らなかったので、噂する人の話に従った。


「河童は相撲が好きで、人間と相撲を取りたがる」

 遠くで人間たちがやっている行動を見て、それが相撲と知るが、あいにく相手がいなかった。人間は沼には来なかったからだ。水が必要ならば近くに清冽な川があったので。



 そんな折、一人の人間の子供が沼に近づいて来た。だから河童は相撲を取らねばと、沼から上がって声をかけた。

<オマエ、相撲、トル?>

 子供は喜んで相手を始めた。河童は相撲を見たことしかなかったが力が強い。子供は力はさしてないが、これまでに相撲を取ったことがあったので技術がある。双方、なかなかに良い取り組み相手となった。


「おもしろかった! また相撲とろう! オラは一太(いちた)。おまえは?」

 河童には名前なぞない。首を振ると、屈託なく笑った一太少年は、

「じゃあ、今からおまえ、太郎な!」

 と、河童に太郎と言う名前を与えた。その時から河童は河童太郎になったのだ。


 一太少年は沼に通い、何度も河童太郎と相撲を取り、ほぼ一方的に色々話していく。彼は近くの百姓の子供だったが、彼には歳の離れた姉と乳飲み子の弟がいるとか。家の手伝いをするには幼く、弟ほど手がかからないので、わりと放置されがちであった。なので、一太少年にとっては、河童太郎は丁度いい遊び相手と映ったのだ。


 季節がいくつか巡り、春から夏に、夏から秋になりかかった、そんなある日。

 一太少年が来たので相撲を取ろうと河童太郎は水から上がったが、一太少年は沼の近くで動かなかった。

<イチタ、相撲、取ラナイ?>

「太郎。ねえちゃんが嫁に行くんだって」

 そうして大粒の涙を落として泣き出した。

 このあたりの冬は雪が深い。なので、秋の刈り入れが終わってすぐ、姉はよその村に嫁ぐのだと言う。


 寂しい、寂しいという一太少年の心が泣いていた。河童太郎はそっと手を伸ばす。それは決して慰めるためではなかった。河童太郎にはまだ人の心の動きなぞ分からなかったから。ただ、目の前にいる一太少年は心が弱っていて。だから手を触れて。己と一太少年の身体を入れ替えたのだ。


 あやかし、怪異の類は、強い生命力を持つ者には弱い。普段の一太少年は、言うならば陽の気の満ちた存在だった。だからこそ、これまで無事に河童太郎の遊び相手でいられたのだ。けれど気落ちした一太少年には隙があり、河童太郎は容易く怪異としての力を振るった。


 闇から生まれ、人の想像と意思で育まれた存在は、ずっと光に焦がれていたのだ。仄暗い沼の底で揺蕩うばかりで行く場所もなく。仲間もいなければ時間の干渉もない。己ひとつで完結した、閉じた世界。そこから出たいという思いが、柔らかい心を持つ一太少年との交流で目覚めてしまった。河童太郎は怪異だ。弱さを見せた一太少年は格好の獲物でしかなかった。


 そうして、河童太郎は一太になった。元の身体と、そこに押し込んだ一太少年の魂なぞ置き去りにして。


 時代も()()に味方した。神隠しが当たり前のように信じられ、言動がおかしかろうと受け入れられたのだから。それは人として生きて行く術を学び、人のような心と魂を持つに至った。

 そうして子供から大人になり、やがて嫁を貰って子を持ち、更にはその子が親になり。怪異であった名残か、()()は頑強な身体と力を持っていたせいで、周囲よりも長生きできた。大人も子供も簡単に死んでしまう時代に、老人と呼ばれるまでに。その生は、決して平坦ではなく。常に飢えと貧しさが寄り添って牙を剥いて来た。周囲の気を取り込むだけで存在できた怪異でいた方が、ある意味余計な苦しみを知らずに済んだ。それでも()()は、得たものを手放すことなぞ考えもせずに、遂には老境を迎えたのだ。


 人の身体には限界と寿命があって、元が怪異であっても逃げられるものではない。終わりを予感して初めて、()()はかつて置き去りにしたものを思い出した。今ならば分かる。自分が為した非道が。一太少年が得るはずであった人生を奪った大きな罪が。ありがたい話を聞かせてくれる坊主の教えさえ知っている。だから、死したならば、裏の沼に沈めてくれるよう、子らに頼んだ。何度も何度も頼んだので、やがて子らも承知して、冷たくなった老爺の遺体を桶に詰めて沼に沈めた。


 ただの人であれば、死と共に魂は身体を離れる。けれど()()は人ではなかったので、朽ちて行く肉の牢獄から出られぬままであった。身体の全てが、入っていた木の桶と同じく水底で朽ち果て、泥と一体化しようとも。()()の本体がまだ存在したが故に。

 沼には河童がいた。太郎という名を持つ河童が。


 一太という人間の身体は失われても、河童の身体に囚われた魂もまた、本来の身体が朽ちても滅ぶことも次の生に向かうこともできずにあった。

 怪異には成長もない。何かを取り込むことで存在が大きくなることはあっても、怪異である限り、積み重ねた年月も経験すら意味をなさない。だからきっと、もうそこにいる河童に、人であったことの記憶はないだろう。

 ただ、子供のままの魂が、還りたがるのだ。

 同じ血を引き、かつての自分と同じ年ごろの男児が沼に現れれば、河童は身体を入れ替えてきた。何代も何代も。やがてその血筋が川津という姓を持ち、その末は丈史少年に繋がるまで。

 けれど結局、河童は河童に戻ってしまう。何故なら入れ替わって成りきろうにも、そこに求める相手がいないから。父も母も姉も弟も。一太少年の家族はもうどこにもいないから。

 諦めきれずに繰り返しても、自分のものではないと思うと耐えきれず、それならば永年馴染んだ河童の身体の方がまだ良いと。


 歪めてしまった魂の有り様を、()()は眺めるしかできない。()()が目を反らすことはできない。それが()()に与えられた罰なのだ。




 丈史少年が去った水底で、しかし()()は感じてしまった。次はもう無いかもしれぬと。

 人は河童を忘れ、人は沼を忘れ、この地すら忘れていくだろう。丈史少年もその父も、もはやこの地に住まう意思はない。すべてに忘れ去られれば、怪異が怪異として存在しうる意味もまた、ないのだ。


 闇さえ駆逐された人の世で。では闇に生まれるものはどこに行くのか。闇の欠片の行き着く先。それはもう、人の心の中の闇にしかないのかもしれない。




この話の苦悩は。小学二年生までで使える漢字の少なさでした。一覧を開きながら探しながら書くのは非常に疲れました。


また活動報告で裏話などを書いています。

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― 新着の感想 ―
伝奇小説、になりますでしょうか?  何とも物悲しく切ない気持ちになるお話しでした。
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