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第8話(最終話)

「へぇ! すごく良い部屋じゃない。かえってラッキーだったわね」


 私が予約した部屋よりも、何倍もお金がかかりそうな客室に、案内された。

 床の間には高そうな掛け軸がかかり、女将が活けたであろう庭の花が飾られている。奥には広縁があり、座り心地の良さをさりげなくアピールしている椅子が二客用意されていた。奥の寝室は和室だけれどベッドになっていて、高さの低いベッドが二台並んでいる。見るからにふかふかとしていた。


「こんな部屋に、無料で泊まっちゃって良いのかな」

「無料じゃないでしょ? 美沙が決済して、半分は私が出してる。女将が言ってたじゃない。アップグレードだと思えって」


 麻衣子の言葉に、それもそうかと頷いた。

 せっかくなので、遠慮なく部屋を楽しもうと思い直す。

 しばらくすると声がかかり、仲居さんが改めて来てくれた。お茶を淹れて、挨拶を交わす。心付けを渡して、旅館の入室の儀式は終了だ。


「さすがにこの時間じゃ、外はあんまり良く見えないね」


 広縁から外を見る麻衣子は、残念そうに笑う。

 窓の下は川が流れているのだろう。水音が聞こえてきている。到着してから、和田とのことがあり、時間はあっという間に過ぎ去っていた。まもなく夕飯の時間だ。


「どうする? 先に一度大浴場に行っておく? それともご飯を待つ?」

「うーん。どうしようかな。麻衣子も夕飯でお酒、飲むよね」


 手で軽くクイと酒を注ぐ素振りを見せれば、オフコースなんて返される。

 部屋付きの露天風呂は、食後にゆっくり入ることにして、まずは大浴場を満喫することにした。


 箱根は、箱根十七湯と言われるほど、多くの温泉の種類がある。私たちが泊まるここのお湯は、美肌の湯なんて呼ばれているそうだ。大浴場の入り口にある効能の文章を読み、うんうんと頷く。


「何じっくり読んでるの? 先に中に入ってるよー」


 準備万端な麻衣子は、そう言いながら洗い場の引き戸を進む。私も慌てて彼女のあとを追った。




 宿の食事は、控えめに言って最高だった。

 海の幸と山の幸が揃っていて、日本酒が実に合う。私も麻衣子も割とお酒が強いので、神奈川の地酒をどんどん持ってきて貰った。確実に飲み過ぎのような気がちらりとしたが、なんだか今日はたくさん飲みたい気分だったのだ。どうしてか、なんてわかりきっているけれど。


「麻衣子がいてくれて良かった」


 私たちはいつも、自分のペースで飲みたいから、お酌なんてしあわない。自分で徳利を持ち上げながらそう言えば、彼女は笑った。


「そ? 私も今日、一緒にいれて良かったって思ってるよ」

「じゃあ、両思いじゃん」


 固形燃料の火が消えたので、鍋物の蓋をあける。キノコたっぷりのすき焼きに、満たされてきていた筈の食欲が、再び刺激された。


「正直、美沙があの男と別れて、本当に良かったと思ってる」


 キノコを口に運びながらそう言う麻衣子に、私は箸を置いて向き合った。


「……うん、ありがとう。アイツと付き合い始めた頃からずっと、麻衣子は何回も別れた方が良いって言ってくれてたよね」

「だって、時間を守らない、デートドタキャン、ちょいちょいお金を麻衣子に立て替えさせる――そのあと返却されてるかはわからないけど。そして挙げ句の果てに、誕生日に会いもせずに振り回すだけ振り回すだなんて、別れない理由がない」


 うう、そう言われると正論である。でも、当時の私はそんなことはたいしたことじゃない、私が気にしなければ良いなんて思っていたんだ。

 今思えば非常に馬鹿馬鹿しい。

 馬鹿馬鹿しいけれど――本気でそう思っていた。あの頃の私は、端から見たら滑稽だったのかもしれないな、なんて思う。


「今の美沙は、憑き物が落ちたみたいに、アイツのことを引いて考えられてるね」

「なんかね、別れようって言われたときは何も考えられなかったし、そのあと数日は、何がなんだか良くわからないような、変な状態だったんだ」


 麻衣子も箸を置く。テーブルを挟んで私たちは、じっと見つめ合った。


「いつも会社でお花が必要な時に行くお花屋さんがね」

「お花屋さん」

「そう。私の様子がおかしすぎたことで、一輪の花をくれたんだ」


 きっと、あれがきっかけ。

 毎日会うわけでもなく、客と店主というだけの関係だけど、あの瞬間、私という存在を気にかけてくれた。


「それで、その花の水を毎日朝晩替えてくださいって言われたの」

「――その店主さんには、感謝だね」


 ゆっくりと一つ頷く。

 彼女のあの言葉がなかったら、今私はこうして笑っていなかったかもしれない。アイツに対峙できていなかったかもしれない。


「何も考えられなかったときに、ただただルーティンでやることを与えてくれた。そして、なにかを愛おしいと思う気持ちを思い出させてくれた。私がいないといけない、と思えることを渡してくれた。なんて……今思うと人任せにも過ぎるよね」


 天井を見上げる。格子に組まれた美しい天井は、濃い茶色をしていた。一つ一つに意味がある、なんてもっともらしいことは言えない。でも、私はあの時確かに救われたのだ。


「人任せにしても良いときだってあるし、そのときはきっと、そういうときだったんだと思うよ」


 麻衣子の言葉が、私の体に染み込んでいく。立ち上がるきっかけを自分で作れなかったことに、もしかしたら心のどこかで負い目を持っていたのかもしれない。

 目を閉じ、あのときのことを思う。


「それに、麻衣子がいてくれた」

「私?」

「旅行に一緒に来てくれたでしょ? 急だったし、この旅館にしては安いとはいえ、そこそこ良いお値段するのに」

「友のピンチに駆けつけないで、何のための友ぞ」


 口の端を思い切り引き上げ、まるで歌舞伎のような言い回しで言うから、一緒になって私も笑ってしまう。


「でもきっと、そんなことはなかなかできないよ。友達が――麻衣子が私に寄り添ってくれて、本当に嬉しかった」


 ありがとう、と告げれば、彼女は少し照れたような顔で、お猪口に入ったお酒を一気に飲み干した。


「恋人とか、友達とかの名称なんて関係なくさ」


 空になったお猪口に徳利を傾けるが、どうやら中がもうないらしい。なんどか振って、そうして徳利をのぞき込む間、言葉が止まった。


「あ、もうないや。お代わり頼もうと思うけど、どうする?」


 言われて自分の徳利を傾けるも、やはりもうないらしい。


「私も欲しいな。次は――これにしようか」


 神奈川の地酒ではないが、美味しそうな岩手のお酒。それを電話でお願いする。テーブルの横には、あけた徳利がいくつも置かれていた。一、二、三、四………随分と飲んでいる。


「さっきの話だけどさ。友達とか恋人とかの名称関係なく、私は美沙を大切だと思ってるし、美沙のことを大切だときちんと思ってくれる人と、一緒にいて欲しいと思うよ。美沙だって、私のこと、そう思うでしょ?」


 その言葉は、何の違和感もなく私の心に響く。


「うん。私も麻衣子のことを大切に思ってるし、麻衣子のことを大事にしてくれる人と、過ごしてて欲しいって思う。……そういうことか」


 失礼します、と声がかけられ日本酒が届く。空になった徳利を持ち帰って貰い、私たちは新しいお酒を各自注いだ。


「なんにしろ、美沙が前に進めて良かったよ。そういう意味では、最後までクソだったアイツに感謝かもね。変に媚びてこられたり、良い人みたいな顔されたら」

「私がほだされちゃう?」

「可能性はあったでしょ」

「でも、私の恋心は一回胃液に溶けたからなぁ」


 胃液、と小さい声で反芻した麻衣子は「なにそれ」なんて言って笑い出す。そうして、お猪口を掲げた。


「じゃぁ、胃液に乾杯かな」

「そうだね。胃液に乾杯」


 牛丼と一緒に胃の中に流し込んだあの頃の私は、溶けきってしまってもういないのだ。

 別れたときには、もう恋なんてしたくないなんて思っていた。私は一生一人なんだ、なんて思っていた。


「美沙、そろそろご飯にすすむ?」

「今日は私が、お櫃からよそいましょうかね!」

「あらま。それは嬉しい」


 お茶碗を預かり、近くに置かれているお櫃の蓋をあける。ほわりとご飯の良い香りが立った。


「私、次にいつ恋をするかは、わからないけどさ」


 まずは軽く一膳ずつ。テーブルに並んでいるおかずは、迷うほどある。


「必要以上の我慢をしないで済む関係を、きちんと構築しようと思う」

「うん。お互い歩み寄る必要はあってもさ、どっちかが過剰に我慢する関係って、たぶん恋人も友達もうまくいかないよ」


 どちらからともなく、いただきます、と口にした。もうさっきからずっと食べているのに、白米を食べる段階になると、何故か改めて手を合わせてしまう。


「世の中には、おかずも男も迷うほどあるんだしね」


 そう言って笑う麻衣子は、イカのお造りに手を伸ばす。私は少しだけ冷めた天ぷらをとった。海老だ。


「でも、食べたいものも仲良くしたい人も、きっとほんの一握りだよ」


 私のその言葉に、麻衣子は笑った。


「その一握りが見つかれば、ラッキーじゃん?」


 言われればそうなのかもしれない。

 私たちは、そんなラッキーの上に友情を築いている。だったら。


「とりあえず、ラッキーに出会えるように、過ごすしかないか」


 ふと小早川の顔が浮かぶ。

 彼女からの連絡は予想通りなかったが、それなら私から連絡してみれば良い。待っているだけでは何も変わらない。動かなければ、人と繋がることはできない。

 添えてあった抹茶塩を付けた海老の天ぷらに齧り付きながらそう口にすれば、また一歩先に進めたような気がした。




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