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第7話

「和田様、少々よろしいでしょうか」


 部屋の外から女将が声をかける。「どうぞ」と無造作な声が返ってきた。健人の声で間違いがない。

 私を振り向く女将に、頷く。


「失礼いたします」


 扉を開け、踏込に全員が入る。番頭さんは四十代半ばくらいの、筋肉ががっつりついている方だった。ジムに通っているのだろうか。

 前室の障子を開けると、健人の膝に女性が座っている姿が見えた。ショートカットで、目鼻立ちがしっかりしている、女の私から見てもかわいらしい人だ。こういうのが好みなのか。

 いや、それにしても、人が入ってくるとわかっているときくらい、膝から下ろしなさいよ。みっともなくて、もうすでに完全なる他人なのに恥ずかしくなる。健人は私よりも三歳年上だから、もう三十五歳だ。恥を知れ。


「……は? 美沙? なんでお前ここに」

和田さん(、、、、)。お久しぶりです。こちらは私のクレジットカードで決済し、私の名義で予約をしている宿ですが、どうして赤の他人のあなたがお泊まりになっているのでしょうか」


 私の言葉に、健人は――和田は不愉快そうな顔を浮かべる。


「うるせぇなぁ。どうせお前は一人寂しく恋人もいないままだろうから、俺が代わりに泊まりに来てやったんだよ」

「お言葉ですが、恋人の有無は今は関係ありません。私の名前を、そちらの女性が騙ったようですよね」

「は? お前の名前で予約してたんだから、仕方ないだろ」


 びっくりする。

 こんなに言葉が通じない人だっただろうか。同じ言語で話していると思えない。相変わらず膝に女性を乗せたままだが、彼女の方は様子がおかしいと感じているみたいで、居心地が悪そうだ。

 降りた方が良いよ、その膝から。


「あの……。ねぇ健人。この宿、元カノさんが予約したけど、お金は健人が払ったんじゃないの? だから名前だけ元カノさんのを書くけど気にするなって言ってたじゃない」


 はぁぁぁぁぁー?!

 まさかそんな嘘を吐いて彼女とここに泊まったの? 付き合いたてのデートくらい、きちんと自分たちの財布を緩めなさいよ。


「ねぇお嬢さん。あなたは和田さんが私の名前を記名したことを、知っていたわね?」

「あ……わ、私はお金のことなんて知らなくて」


 そりゃ仕方ないわねぇ。和田が何も言っていなかったなら、知りようがないもの。

 でも、正直まっとうな感覚を持っていたら、他人の名前と住所を宿帳に記載するなんてこと、拒否するモノじゃない?


「そう。あなたはどうだかわからないけど、和田さん、あなたがしたことは犯罪ですよね」

「はぁっ?! お前はそうやって、いつもオオゲサなんだよ。オオゲサに言えば、俺が謝るとでも思ってるのか? 時間に遅れたときも、約束をキャンセルしたときも、すぐにオオゲサに言ってきて、俺に謝るよう誘導しやがる。お前のそういうところ、本当にムカつくんだよ」


 和田が約束の時間に、連絡の一つもよこさずに一時間遅れたときも、当日の朝、約束の場所に到着したタイミングでドタキャンしたときも、私の誕生日に「あと少し、あと少しで着くから」とLINEしながら、結局半日経ってから「ごめん、やっぱ今日無理だわ」と連絡きたときも。私は「次はもっと早く連絡して」「分かった時点で連絡できたよね」と伝えた。それの一体どこが大げさなのだろうか。

 そして、そんなことをした相手に謝ることなんて、社会人として、いえ人間として至極当然のことではないだろうか。


「こんなことなら、俺の名前で予約して、お前に決済させれば良かった」


 健人の言葉に、麻衣子が低い唸り声を上げる。


「あー、美沙。これは本当に別れて大正解だわ。人間としてクズすぎる」

「あぁ? 部外者は引っ込んでてくれませんかね?」

「私は美沙の友人で、今回一緒に宿泊することになっている者です。部外者ではありませんよ。ちなみに、犯罪は大げさではないと思いますけど」


 麻衣子はそう言って、スマートフォンを出した。ブラウザを開き、そこに書かれている文言を読み上げる。


「営業者は、厚生労働省令で定めるところにより、旅館業の施設その他の厚生労働省令で定める場所に宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の厚生労働省令で定める事項を記載し、都道府県知事の要求があつたときは、これを提出しなければならない。宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない――んですよ」


 女将が、麻衣子の言葉を受けて続ける。


「旅館業法第六条です。こちらに違反しますと、検察庁の記録には前科としてつきますが――さて、改めてお伺いいたします。そちらの女性は、どなたでしょうか」


 さすがに事の次第に気付いたのか、彼女は顔を青くして和田の膝から降りた。そうして、私は悪くない、だまされたなどと言いつのる。


「ねぇ、あなた。いつから和田さんと付き合ってるの?」

「半年くらい前から」


 その言葉に、思わず和田を睨む。完全に二股ではないか。


「あれ! じゃぁ結婚詐欺じゃない?」


 麻衣子が大きな声でそう言った。思わずこの場の全員が彼女を見る。それを受けて、麻衣子はにっこりと笑った。


「美沙と結婚すると約束しながら、他の女と付き合っていた。しかもこの旅館の予約をしたときには、もう彼女と付き合ってたのに、美沙のお金で決済させたわけでしょ。それって、最初からこの旅館のお代を巻き上げようとしてたってことじゃない」


 それが結婚詐欺となるとは言えないだろうけど、やってることは同じくらい外道だ。考えてみたら、予約したときにはもう彼女と付き合っていたということだし、来年入籍しようと決めたのも半年くらい前だ。


「……ねぇ、どういうつもりで私と入籍するって言ったの」

「別に。お前が、結婚結婚うるさかったから、入籍するって言っておけば黙るかとおもっただけだよ。来年っていったのは、それまでに別れれば良いやって思っただけ」


 その言葉に、私の中の何かがぶち切れた。

 五年だ。二十七歳から三十二歳という、女性の体として、妊娠して子育てをするのに真剣にタイミングを考える時期。

 確かに、彼のことをきちんと見極められなかった私も悪い。

 でも、それでもこいつの子どもを欲しいと、本気で思ってたんだ。

 それを。

 それを適当にあしらっただけと言い切られた。


「女将。申し訳ありませんが、彼を警察に突き出していただいても、良いでしょうか」


 自分でも思ってもみなかったほどの、低い声が出た。

 もう二度と、関わり合いたくもない。

 顔を見ることも、名前を呼ぶことすらしたくない。

 そんな存在に、彼は成り果てた。

 反吐が出る。


「ええ。山瀬様がよろしいのであれば、私共の方では、無論そのつもりにございます」


 私たちのやりとりを見守っていてくれた女将は、晴れやかな笑顔を私に向けてくれる。

 見たくもないようなやりとりを見せてしまい、本当に申し訳ない。でも、私としては、和田がしたことを許したくなかった。


「警察? そんなオオゲサな。美沙が予約した旅館が空室にならないように、配慮してやっただけだろ」

「私はそんなことは一切頼んでおりません。それに、支払いも予約も私名義です。この予約に、私とはすでに別れているあなたは、一切関係ありませんよね。それとも最初から私のお金で、そちらの女性と宿泊するつもりでしたか?」


 かつてないほどに、淡々と口にする。

 自分がこんなに感情をそぎ落とすことができるだなんて、知らなかった。

 もう彼に関する全てがどうでも良かった。

 唯一良かったと思うのは、入籍をするという話はあったが、結婚式をあげる予定じゃなかったから、結婚式場に前金をいれていなかったことか。もしも前金を入れていたら、何十万というお金を無駄にしてしまっていたのだ。考えたくもない。

 私の後ろで、番頭さんが何やら小さな声で話している。どうやらインカムで指示を出しているらしい。


「あー、もう面倒くせぇ! 帰ればいいんだろ!」


 旗色が悪いと思ったのか――良かったことなんて一度もないのだが――そう言い出し、勢いよく立ち上がる。


「あぁ、その前に」


 そう言うと、和田は私に向かって手を上げようとした。殴られる! と思ったが、それと同時に「これで傷害罪もつけてやれる」なんて馬鹿なことを、頭のどこかで思ってしまい、逃げることをやめてしまう。


「お客様。暴力はご遠慮ください」


 だが彼の手は、番頭さんに阻まれて私に届くことはなかった。


「まもなく、私服の警察が到着します。大人しく従った方が、あなたの今後のためですよ」

「そちらのあなたもね。警察での事情聴取では、先ほどのことを、素直にお話しになってくださいませ」


 番頭さんの言葉を、女将が続ける。

 いざ、殴られることがなくなったとわかると、急に実感がわいてきた。

 私、殴られるところだったんだ――。

 体が不意に震え出す。そんな私を抱きしめてくれたのは、麻衣子だった。


「美沙、大丈夫? もう部屋に行こう? あんた今、ちょっと正常じゃない。こいつの前から離れた方が良いよ」


 麻衣子の言葉に、私は今正常じゃない? とボンヤリ思う。

 彼女の言葉に、女将も番頭さんも「あとはこちらで処理しますので、お二人はお部屋にお越しください。すぐにスタッフに、部屋まで案内させます」と告げてくれた。


「ありがとうございます。そうさせていただきます」


 どうにかそれを口にしたあと、一つだけ言わないといけない、と思い出す。麻衣子に少しだけ待ってもらい、改めて和田の顔を見る。憎々しげに私を見る男を見ても、私の心は凪のようだった。


「私とあなたはもう、まったくの他人ですので、軽々しく下の名前を呼ばないでください。さようなら」


 あの日一言も言い返せなかった私は、この言葉でようやく、自分の恋心に決別ができたのだ。

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