第6話
「は? 今なんと」
「あの……ですから山瀬美沙様とお連れ様は、すでにチェックインをされています」
麻衣子と共に、ロマンスカーに乗り込んでやって来た、箱根の旅館。登山鉄道にも乗って、旅情気分がかなり盛り上がったところで、まさかの展開だった。
山瀬美沙は私だが……一つ思い当たることがある。
「すみません。私がここの宿を予約した山瀬と申します。こちらが決済をしたカード、あと免許証もご確認ください」
旅館のスタッフの方はそれを確認すると、真っ青になり「女将を呼んで参ります。あちらのお席で少々お待ちください」と去って行った。
「美沙、まさか……」
「たぶんアイツ。健人だと思う。私が来ると、思ってなかったんだろうな」
「でも、支払いは美沙なんでしょう? あり得る?」
「健人ならあり得る。お金にも時間にもルーズなアイツなら、たいした問題じゃないと思ってるんじゃないかな」
私の言葉に、麻衣子も頷く。
「どっちにしろ、はっきりさせないとだね。でも、彼らが一度入った部屋に、泊まるのはちょっとねぇ」
その言葉には完全同意だ。もしかしたら、到着早々いちゃついている可能性もある。
考えただけで気持ちが悪い。
案内された席で、他のスタッフがお茶を出してくれた。旅館で売っているであろう甘いお茶菓子も出していただき、口にすると少しだけ落ち着く。
「お客様、お待たせいたしました」
五十代半ばくらいだろうか。
着物を美しく着こなした女将が、挨拶に訪れた。後ろには先ほど対応してくれたスタッフさんもいる。
「受付担当より、引き継がせていただきます。当旅館の女将をしております、赤嶺玲子と申します」
名前までなにやら美しい。
すっと通った鼻筋に切れ長の一重は、着物がとてもよく似合う。少しきつく見えるそれは、今回のような面倒な客の相手をするときには有効そうだ。床に膝をつき、私たちに挨拶をしてくれたので、椅子に座っていただいた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。山瀬美沙と申します。こちらは友人の高山麻衣子。今回の旅の同行者です」
頷き、状況の確認となった。
「本日三時に、男性のお客様――和田健人様と山瀬美沙様のお名前で、宿帳にご署名いただいております」
女将はそう言って、宿帳の該当ページを見せてくれた。そこには間違いなく私の名前と、元彼である健人の名前が書かれている。
「和田の住所も私の住所も、正しく書かれています。お恥ずかしい話ですが、実はこの和田と私は先月別れておりまして……。こちらの宿は私が決済をしたので、そのまま私が宿泊に訪れたというわけです。予約時の宿泊情報も、特に同伴者の氏名や性別を記載することがなかったので、情報の修正もしておりません」
そう言って、改めて免許証を呈示した。
女将は失礼します、と言ってそれを手にする。私の顔写真と名前を確認され、返却されたそれを財布にしまう。こういうとき、顔写真つきの証明書は重要だと思ってしまう。
「ご事情をお伺いするに、和田様は山瀬様がこちらにいらっしゃるとは思わず、宿泊に訪れたということですね。しかも、山瀬様のお名前を騙って」
そうだ。
健人はよりにもよって、私の名前を勝手に騙ったのだ。
「山瀬様、本日このあとのご予定は、いかがでしたでしょうか。どちらかにお出かけされるなどは」
「今日はせっかくなので、お宿を満喫しようと思っていました。なので、特に予定はないんです。ね、麻衣子」
「ええ。こんなに美しい造りの建物と、温泉のお湯が良いと話題の宿ですからね。宿を満喫しないと、と思って来たところでした」
ここの旅館は、関東の素晴らしい宿的な雑誌に取り上げられたこともある、有名なところだ。少々値段は張るが、交際五周年だし贅沢をしよう、なんて話で選んだのに。
あぁ、全てを足蹴にしていくあの男に、どんどんと腹が立っていく。
「あの、和田と直接話をすることは可能でしょうか」
私の言葉に、女将は一つ頷く。
「それでは、恐縮ですが先に受付のカメラを、一緒にご確認いただけますでしょうか」
確かに、旅館としては本当に知り合いかどうかを確認したいということもあるだろう。万一全くの他人だった場合は、ヘタに私が入らずに旅館側だけで処理をして貰った方が良い。
「もちろんです」
それを合図に、女将は私たちを事務所に案内してくれた。
事務所は思っていたよりも広い。その一角で、受付のカメラを確認した。
「……間違いありません。私のよく知る和田健人です。一緒の女性は知らない方ですが、別れ話の時に好きな女ができたとか言っていたので、おそらくその相手でしょう」
身長が高く恰幅の良い健人の姿と、見ず知らずの若い女性の姿が、そこにはあった。
別れて一ヶ月もないくらいだ。それで旅行に来るとは、おそらくあの時点で、もう付き合っていたのだろう。なんということか。私とは結婚の約束をし、両親とも挨拶をしていたというのに。
「美沙。こんな男と結婚しないで済んで、良かったと思いな」
私の怒りが漏れていたのだろうか。麻衣子がそう言って、私の背中を撫でてくれた。少しだけ、気持ちが軽くなる。
「麻衣子がいてくれて、良かった」
笑えば、麻衣子も笑った。
「山瀬様、高山様。お二人のお部屋は、新しくご用意させていただきます。一番良いお部屋はあいにく埋まっておりますが、露天風呂付きの、眺望の良いお部屋がございますので、まずはお荷物をそちらにお運びいたしましょう。その後、ご希望であれば和田様のお部屋にご案内いたしますが、もちろん私共のみで対処することも可能です」
「そんな良いお部屋、差額はおいくらに」
「いいえ、結構でございます。そうですね……アップグレードされたと思っていただければ。和田様からは別途宿泊費を頂戴いたしますが」
女将の目が少しだけ光った。これは女将も怒っているわね。そりゃそうよね。これは歴とした旅館業法に基づく軽犯罪だ。
「私は――私たちは直接和田と話がしたいです」
麻衣子が私の腕にそっと手を添えてくれた。
それは、一人だけで戦おうとするな、という麻衣子の気持ちだろう。
嬉しい。大切な友人がいてくれるのだ。アイツと相対することだって、怖くなんかない。
「かしこまりました。それでは、お荷物はこちらでお運びいたしますね。先に解決してしまいましょう。大丈夫ですよ。男性である番頭も、連れて行きますから」
女将の心強い言葉に、私たちも頷く。
健人は体が大きい。そんな男性相手に、女性だけで話をするのは、万一を考えると心配があった。でも、男性の番頭さんが来てくれるなら安心だ。
きっと海千山千でもあるだろう。――それは女将もだが。
かくて、私たちは彼らが泊まる部屋に向かうのであった。
――決別を、するために。