第5話
週末の二日間を、ぼんやり過ごすことに費やした。
いつもなら健人と出かけることが多かった週末だが、一人で唯々諾々と時間に流されるまま過ごすのは、思いのほか悪くなかった。
朝だけは、花の水を替えるために起き上がり、コーヒーを淹れる。そうして水を替えたら窓を開けて、空気を入れ換えた。たったそれだけのことなのに、妙に充実感に満たされるのだから不思議なものだ。
その後は、ソファにごろりと体を横たえ、録画していたバラエティ番組を流す。たいして頭には入ってこないけれど、それでも無音の中で過ごすよりは良かった。
そうして日曜日の夜、近くのチェーン店でとろろとオクラがかかった牛丼をテイクアウトして食べたら、突然涙が溢れてきた。
どうしてこのタイミングなのかはわからないけれど、次から次へと涙が溢れて、止まらない。泣いているのだから食べるのをやめれば良いのに、何故か食べ続けてしまったのは、今でも良くわからない。
けれど、そうして泣きながら、嗚咽を零しながら食べきったら、妙に頭がクリアになったのだ。
お気に入りの入浴剤を溶かしてゆっくりと湯船に浸かる。
「幸せに、なりたかっただけなんだけどなぁ」
ぽつりと零した言葉は、私の脳内をぐるりと巡り、もう一度涙を呼び出した。
ついさっき流した、滝のような涙ではなく、感情の残滓を全て吐き出すような、ゆっくりとこみ上げてくるそれに、私の腹の奥が震える。湯船の中に落ちていく涙は、大きな湯に溶け込んで、あっけなくその存在を消していく。
お腹に手を当て、大きく息を吸い込み、そうして吐き出す。膨れたお腹がぺたんとへこむ。体の芯から温まり、体力が戻ってくるような気がした。
「よし。麻衣子に連絡しよう」
大学の頃からの友人である高山麻衣子は、社会人になっても付き合いのある、数少ない昔からの友人だ。
健人と付き合い始めた頃から、恋愛相談はしていて、結婚する予定があるなんてことも、話していた。だから、どちらにしろ連絡をする必要はあった。麻衣子はいつも、私に「ソイツで良いの? 本当に? 別れた方が良いと思うけど」なんて言ってたけど、今となってはそれが正解だったとはね。
ついさっきまでは、誰かに連絡しようなんてこと思いもしなかった。それがどうしてかなんて、わからないけれど。誰のことも頭に浮かばず、ずっと一人で虚無の中にいたような気がする。
そうしてようやく浮かび上がった自分を見たら、すぐ隣に麻衣子の姿が見えたのだ。いつも私の恋愛を気にしてくれていた彼女に、別れたことを報告しないといけない。
いけない、なんて言ったけれど、そうじゃないな。私が、麻衣子に聞いて欲しいのだ。
「あぁ、それに旅行のことも。だったら、麻衣子を誘ってみようかな」
それはつい先ほどのこと。脳がクリアになったときに、頭に思い浮かんだのは、来月の予定だった。
「……来月、あいつと一緒に旅行に行こうと約束してた宿。キャンセル不可の前払いだったじゃない」
しかも、私のクレジットカードだ。キャンセルできないプランだと安くなっていたので、どうせキャンセルしないし良いよね、なんて話しながら、その旅行サイトの会員である私が決済したのだった。
「キャンセルできないなら、もうその宿を楽しむしかないもんね。一人で行っても良いけど、せっかくだし麻衣子を誘って旅行しよう」
少し前の私なら、メソメソしたまま行くのをやめていただろう。でも、どうしたことか、そんな私は牛丼を胃に流し込んだのと一緒に、消えてしまった。
「必要なだけの時間は、かけ終えたってことなのかな」
五年も付き合い、なおかつ結婚をしようと思っていた男だ。それなりに――というよりも、かなり愛情を持っていた。彼はそうではなかったようだけれど。
私が感じた悲しみの正体は、彼を失ったことなのか、愛情を返してもらえなくなったことなのか、ただの喪失感なのか。今ではもうわからない。
否。
もしかしたら、もっともっとずっと後にならないと、わからないのかもしれないけれど。
風呂からあがり、麻衣子にLINEを送る。彼女からは、すぐに返信が来た。私を心配する言葉と、旅行に来てくれるという返信に、安堵のため息を漏らす。
私はどうやら、誰かに拒否をさせることを、知らぬうちに不安に思っていたようだ。その返信を見たときに、それまでどこか落ち着かなかった気持ちが、消え去った。
麻衣子は、旅先でたくさん話を聞くよと返事をくれる。その気持ちが嬉しい。
ふ、と見上げた先には、花屋でもらった一輪の花があった。
「私は一人じゃない」
健人に別れを告げられたとき、私は世界でたった一人になってしまったかのような気がした。立っていた場所が崩れ、見ていた世界が崩壊し、そうして、一人で立っていることができなくなってしまった。世界と私の間に膜が張られ、隔絶されたような気がしていた。
けれど、ゆっくりと時間をかけ世界が復旧してくると、実はそこには私以外の人がたくさん立っていたのだと気付く。
立ち尽くす私に、薄い膜の外から、声をかけてくれていた人もいる。その膜が剥がれたところから、私の隣に立ってくれる人もいる。一人ではない世界で、いつまでもうずくまっているわけにはいかない。
私は、私のやれる方法で、立ち上がらないといけないのだ。