第4話
チェーン店からほんの数メートルで、彼女の店に辿り着く。
店内の椅子に座り、温かい紅茶を出してもらった。
スチールの椅子に置かれたクッションが妙にふかふかと柔らかい。それだけで、なんだか落ち着いてきた。
「……美味しい」
「でしょ。お気に入りの紅茶なんですよ」
ふんわりと笑う彼女は、店の中のたくさんの花の中で、一際やわらかく開いた花弁のようだ。
健人が好きになった女性がどんな人かは知らないが、彼女のような人なら良いな、と思う。
あのとき聞けなかったことの一つ。聞いてどうにかなるものでもなかったけれど、聞けば良かったのかもしれない。せめて、私が納得するような女性であって欲しいだなんて、思ってしまう。
私が紅茶を飲んでいる間も、彼女はくるくるとよく働いている。花をチェックし、いくつかの花を取り出しては、棘や花弁を手入れしてブーケを作っていく。
「面白いです?」
じっと見ているのに気が付かれてしまった。ぎこちなく笑い、頷く。
「職人技だなぁって思って」
「職人ですもの」
笑いながら、手元の花を一輪、抜き出す。くるりとセロファンに包み、私の元へと近付いてきた。
「これ、差し上げます」
「え」
掌に渡されたのは、一輪のバラ。
「ジュリア、っていう品種です」
霞がかったようなくすんだピンクの大輪のバラからは、紅茶のような甘い香りがする。
「コップに水を入れて、そこにバラを挿してください。寝る前と朝起きたら、水を交換すること。それだけで、少しだけ楽になれるから」
彼女の言葉に、ぼろりと涙が零れた。
「山瀬さん」
「ごめ……ごめんなさい」
「謝らなくて大丈夫」
いつもより低い声でそう言うと、彼女は私を抱きしめてくれた。背中をゆっくりとさすり、エプロンが濡れてしまうのにも構わずに。
ぼろぼろと止まらない涙に、ぐしゃりと鼻水が溢れる。ずず、とすすっては、またずるりと零す。目の前のぬくもりに、手を伸ばして抱きつき、ただただぐずぐずと涙を流し続けていく。
「大丈夫。大丈夫」
彼女の言葉がまるで、呪いを解く魔法のように響く。
ああ。
私は誰かに、抱きしめてもらいたかったのだ。
誰かに、大丈夫、と言ってもらいたかったのだ。
止まらない涙が、だんだんと枯れていく。ゆっくりと嗚咽が落ち着いていく。背中を撫でる掌が、やがて止まり、離れていく。けれど、それを寂しいとは、感じなかった。
「たくさん汚してしまいました。洗っ」
「他のと一緒に洗うから平気平気! スペアもたくさんありますからね」
くたくたと笑う店主は、私の手元の花に目を向ける。
「難しく考えないで。花の水を替える、それだけを覚えておいてくださいね。約束してくれるなら、その花のお代は、今日はいらないので」
ありがとう、とどうにか掠れた声で笑えば、もう一度彼女は、笑いかけてくれた。
やわらかな日差しが降り注ぐ、土曜日。外からは廃品回収車の音がしている。ガラス瓶を集めるがちゃがちゃという音に、今が八時半過ぎだと知らされた気がした。
「今週も定刻お疲れ様です」
ぼそりと呟き、リモコンに手をのばす。土曜の朝のワイドショーがかかり、予想通りの時間であることを告げられる。
昨夜、コップに水を入れ花を挿した。窓辺に置いて、そのまま眠りに落ちていった気がする。
体は重く、まるで重力に引っ張られるかのように、ベッドに沈み込み、気付けば朝になっていた。泥のように眠ったのだろう。
健人と別れて三日目。
最初の週末だ。
「もう少し眠ろうかなぁ」
天井を見上げる。彼と出かける約束も なくなったし、特にやることもない。
「あ、花の水替えなくちゃ」
店主の言葉を思い出す。
――花の水を替える。それだけ。
のそりと布団から這い出し、窓辺へ向かう。少しだけ、体のバランスを崩した。運動不足なのかもしれない、なんて心の中で苦笑する。
コップを手にし、蛇口をひねると、水が勢い良く出た。その水の中に、なにかどろりとしたものが見えた気がした。
「水を替えるときは、コップを洗って、花の茎も洗う、と」
教えられた通りの所作をこなす。僅かに濁っていたコップの水がキレイになった。ほんの少しのくすみ。それがピカピカになったことに、なんだか嬉しくなる。そんなこと、今までなんとも思わなかったのに。
「たった一晩なのに、水は濁るんだなぁ」
茎を洗いぬめりを取ったら、コップへ戻す。たったそれだけのことなのに、花が妙に可愛らしくなったように見えた。
「かーわい」
指先でちょん、と花弁に触れる。ふるり、と幽かに揺れたバラは、甘い芳香を放つ。
気付かないうちに、頬が緩んでいた。胸に詰まる息苦しさが、少しだけ消える。
「……花を」
朝、花の水を替えること。夜、眠る前に水を替えること。たったそれだけ。けれど、それだけのことで、朝起きて、夜きちんと家に帰る理由になるのだ。
「情けないなぁ」
コップに鎮座するバラ。幾重にも重なるその花弁を見ていると、自分が随分とみすぼらしい人間のような気がしてしまう。
少なくとも。
この花がある限り、私は私に、今ここで頑張る理由を見つけることができる。
花のために。自分のために。