表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第4話

 チェーン店からほんの数メートルで、彼女の店に辿り着く。

 店内の椅子に座り、温かい紅茶を出してもらった。

 スチールの椅子に置かれたクッションが妙にふかふかと柔らかい。それだけで、なんだか落ち着いてきた。


「……美味しい」

「でしょ。お気に入りの紅茶なんですよ」


 ふんわりと笑う彼女は、店の中のたくさんの花の中で、一際やわらかく開いた花弁のようだ。

 健人が好きになった女性がどんな人かは知らないが、彼女のような人なら良いな、と思う。

 あのとき聞けなかったことの一つ。聞いてどうにかなるものでもなかったけれど、聞けば良かったのかもしれない。せめて、私が納得するような女性であって欲しいだなんて、思ってしまう。


 私が紅茶を飲んでいる間も、彼女はくるくるとよく働いている。花をチェックし、いくつかの花を取り出しては、棘や花弁を手入れしてブーケを作っていく。


「面白いです?」


 じっと見ているのに気が付かれてしまった。ぎこちなく笑い、頷く。


「職人技だなぁって思って」

「職人ですもの」


 笑いながら、手元の花を一輪、抜き出す。くるりとセロファンに包み、私の元へと近付いてきた。


「これ、差し上げます」

「え」


 掌に渡されたのは、一輪のバラ。


「ジュリア、っていう品種です」


 霞がかったようなくすんだピンクの大輪のバラからは、紅茶のような甘い香りがする。


「コップに水を入れて、そこにバラを挿してください。寝る前と朝起きたら、水を交換すること。それだけで、少しだけ楽になれるから」


 彼女の言葉に、ぼろりと涙が零れた。


「山瀬さん」

「ごめ……ごめんなさい」

「謝らなくて大丈夫」


 いつもより低い声でそう言うと、彼女は私を抱きしめてくれた。背中をゆっくりとさすり、エプロンが濡れてしまうのにも構わずに。

 ぼろぼろと止まらない涙に、ぐしゃりと鼻水が溢れる。ずず、とすすっては、またずるりと零す。目の前のぬくもりに、手を伸ばして抱きつき、ただただぐずぐずと涙を流し続けていく。


「大丈夫。大丈夫」


 彼女の言葉がまるで、呪いを解く魔法のように響く。

 ああ。

 私は誰かに、抱きしめてもらいたかったのだ。

 誰かに、大丈夫、と言ってもらいたかったのだ。

 止まらない涙が、だんだんと枯れていく。ゆっくりと嗚咽が落ち着いていく。背中を撫でる掌が、やがて止まり、離れていく。けれど、それを寂しいとは、感じなかった。


「たくさん汚してしまいました。洗っ」

「他のと一緒に洗うから平気平気! スペアもたくさんありますからね」


 くたくたと笑う店主は、私の手元の花に目を向ける。


「難しく考えないで。花の水を替える、それだけを覚えておいてくださいね。約束してくれるなら、その花のお代は、今日はいらないので」


 ありがとう、とどうにか掠れた声で笑えば、もう一度彼女は、笑いかけてくれた。



 

 やわらかな日差しが降り注ぐ、土曜日。外からは廃品回収車の音がしている。ガラス瓶を集めるがちゃがちゃという音に、今が八時半過ぎだと知らされた気がした。


「今週も定刻お疲れ様です」


 ぼそりと呟き、リモコンに手をのばす。土曜の朝のワイドショーがかかり、予想通りの時間であることを告げられる。

 昨夜、コップに水を入れ花を挿した。窓辺に置いて、そのまま眠りに落ちていった気がする。

 体は重く、まるで重力に引っ張られるかのように、ベッドに沈み込み、気付けば朝になっていた。泥のように眠ったのだろう。


 健人と別れて三日目。

 最初の週末だ。


「もう少し眠ろうかなぁ」


 天井を見上げる。彼と出かける約束も なくなったし、特にやることもない。


「あ、花の水替えなくちゃ」


 店主の言葉を思い出す。


――花の水を替える。それだけ。


 のそりと布団から這い出し、窓辺へ向かう。少しだけ、体のバランスを崩した。運動不足なのかもしれない、なんて心の中で苦笑する。

 コップを手にし、蛇口をひねると、水が勢い良く出た。その水の中に、なにかどろりとしたものが見えた気がした。


「水を替えるときは、コップを洗って、花の茎も洗う、と」


 教えられた通りの所作をこなす。僅かに濁っていたコップの水がキレイになった。ほんの少しのくすみ。それがピカピカになったことに、なんだか嬉しくなる。そんなこと、今までなんとも思わなかったのに。


「たった一晩なのに、水は濁るんだなぁ」


 茎を洗いぬめりを取ったら、コップへ戻す。たったそれだけのことなのに、花が妙に可愛らしくなったように見えた。


「かーわい」


 指先でちょん、と花弁に触れる。ふるり、と幽かに揺れたバラは、甘い芳香を放つ。

 気付かないうちに、頬が緩んでいた。胸に詰まる息苦しさが、少しだけ消える。


「……花を」


 朝、花の水を替えること。夜、眠る前に水を替えること。たったそれだけ。けれど、それだけのことで、朝起きて、夜きちんと家に帰る理由になるのだ。


「情けないなぁ」


 コップに鎮座するバラ。幾重にも重なるその花弁を見ていると、自分が随分とみすぼらしい人間のような気がしてしまう。

 少なくとも。

 この花がある限り、私は私に、今ここで頑張る理由を見つけることができる。

 花のために。自分のために。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ