表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

第3話

 ドリカムの、恋を謳歌している音楽がスマートフォンから流れる。手を伸ばし、スヌーズにして再び布団の中へ。三度目にしてようやく起きた。

 こんな曲を目覚ましに設定するんじゃなかった。


「あ、もう八時!」


 布団を跳ね上げ、近くにあった洋服に着替える。顔を洗って髪の毛をひっつめた。ブローしている時間なんてない。適当に下地を塗り、適当にファンデーションをかぶせて、眉毛を書いたら、ストールとコートを掴んでドアを開ける。


「うわっ、寒い」


 ひやりとした空気が顔をなでた。


「今日、最高気温何度だろ」


 いつもならば、朝の情報番組を見て服装を決めるが、今朝はそんな時間などなかった。寒いからと言って、今から着替える余裕も勿論ない。


「えぇい、ままよ」


 走っているうちに暑くなるだろう、なんて無理やりに考えて、自転車に乗った。顔に冷気を受けながら猛スピードで駐輪場に到着すれば、どうにかいつもの時間。


「あっぶなかった」


 自転車を降りると、急に体が暑くなる。腕時計を確認し、深呼吸を一つすると、上がった息も落ち着いた。駐輪場のおじさんに、いつものように挨拶をして、角を曲がる。

 いつもの時間のいつもの電車。ぎゅうぎゅうに押し込められた電車の中で、昨日の小早川の顔が浮かんだ。


――ありがとうございます。次の会社で落ち着いたら、ご飯に行きましょうね。絶対ですよ!


 花束を抱えてはにかみながら、潤んだ瞳で私を見ていた。そうやって何人も退職者を見送ったけれど、連絡してくる人など誰もいない。

 新しい場所に慣れ、新しい仲間の中で、彼らは自分の居場所を作っていく。よほど深い仲の友人にでもならない限り、私たちは通り過ぎていく間柄なのだ。


 と、大きな音を立て、電車が急停車する。ぼんやりとしていた頭が一気に覚醒するほどの勢い。車内放送が入り、緊急停止ボタンが押されたと知る。復旧見込みがわからないため、会社へとメールを入れた。



「こんなことなら、焦らなくても良かったなぁ」



 どうせ遅れるのだったら、もっと寝坊しても良かった。起きた時にはわからないことだから、仕方がないのだけれども。

 ぎゅうぎゅうの車内。


 後ろにいる体の大きな人にこっそりと体重を預け、瞳を閉じた。何かが思い浮かぶわけでもないのに、無意識に眉間に皺が寄っていることに気がつく。妙に悲しく、胸がざわざわとする。



「がんばらないと」



 小さく声に出した。何を頑張るのかは、わからないけれど。

 もう冬になるというのに、締め切った車内は暑く、こもった空気に嫌気がさす。脳に酸素が回らないのか、さっきから鼻の奥がツンとして、喉の下の方が苦しい。息苦しい。心臓がばくばくとする。ものすごい吐き気がした。


 早く。

 早くここから逃げ出したい。


――ここから? 何故そんなことを思ってしまったのだろうか。


 ようやく電車が動き出し、ノロノロと進み、田町駅に到着した。多くの人が降りていく。少し空いた車内で、通路の奥まで進むと、あと二駅、と息を吐き出した。

 新橋駅を出て、ぼんやりと歩く。どうせ遅刻の連絡をしているのだ。焦る必要もない。そうだ、たまにはコーヒーでも買ってから会社に行こう。


「ちょっと贅沢、しておこう」


 まるでCMのようなセリフだな、なんてくすりと笑ってしまう。駅のすぐ近くにあるチェーンのコーヒー屋へと足を向ける。件の花屋の手前にあるコーヒー屋に近付くと、急に目眩がした。立ち尽くす。足が動かない。



「……っ、駄目だ」



 健人の声が脳内に響く。


「他に好きな女ができたから」という言葉が、「泣きそうな顔をしても困る」という言葉が、冷たい温度で私を苛む。


 お前に興味のある人間なんているわけがない、誰も彼もが過ぎ去っていくのだ、と言われているような気さえする。


 大丈夫だと思っていた。

 恋の終わりなんて、どうせどれもたいして変わりはない。どうにかこうにか自分で折り合いをつけ、毎日を過ごしていくうちに忘れていくのだから、今を乗り切れば大丈夫だと思っていた。

 なんでもないことだと、そう思っていれば良い、と思っていた。



「同じ店舗、じゃないのになぁ。ただ同じチェーン店っていうだけで、駄目なのか」



 彼との別れ話をしたのと、同じチェーンのコーヒー店。たったそれだけで目眩がするなんて情けない。頭ではそう思っているのに、指先がどんどんと冷えていく。けたたましく耳鳴りがして、体が揺らぐ。嫌な汗がにじんできた。目を開けていられない。重く、まぶたが落ちてくる。もうダメかもしれない。体が頽れる。


「山瀬さん?」


 がくりと膝から力が抜けていった。そう思った瞬間、脇の下に誰かの腕が入り込む。


「山瀬さん、大丈夫ですか?」


 聞き覚えのある声。重たい頭をどうにか持ち上げれば、花屋の店主が私を支えてくれていた。


「あ……」

「おぶってあげますから、店に行きましょう」

「いえ、だいじょ」

「うぶじゃないでしょ」


 半ば強引に体を引き寄せ、彼女は小柄なその体に私を背負う。思いの外力があるのだな、なんて馬鹿みたいなことを思ってしまった。


「ふふ。花屋は体力勝負ですからね」


 私の考えを見透かされたのか、笑いながらそう言う彼女の背中は、やけにあたたかく、思わず頬を摺り寄せてしまう。

 そんなつもりはなかったのに零れる涙が、彼女の羽織るフリースを濡らしてしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ