第3話
ドリカムの、恋を謳歌している音楽がスマートフォンから流れる。手を伸ばし、スヌーズにして再び布団の中へ。三度目にしてようやく起きた。
こんな曲を目覚ましに設定するんじゃなかった。
「あ、もう八時!」
布団を跳ね上げ、近くにあった洋服に着替える。顔を洗って髪の毛をひっつめた。ブローしている時間なんてない。適当に下地を塗り、適当にファンデーションをかぶせて、眉毛を書いたら、ストールとコートを掴んでドアを開ける。
「うわっ、寒い」
ひやりとした空気が顔をなでた。
「今日、最高気温何度だろ」
いつもならば、朝の情報番組を見て服装を決めるが、今朝はそんな時間などなかった。寒いからと言って、今から着替える余裕も勿論ない。
「えぇい、ままよ」
走っているうちに暑くなるだろう、なんて無理やりに考えて、自転車に乗った。顔に冷気を受けながら猛スピードで駐輪場に到着すれば、どうにかいつもの時間。
「あっぶなかった」
自転車を降りると、急に体が暑くなる。腕時計を確認し、深呼吸を一つすると、上がった息も落ち着いた。駐輪場のおじさんに、いつものように挨拶をして、角を曲がる。
いつもの時間のいつもの電車。ぎゅうぎゅうに押し込められた電車の中で、昨日の小早川の顔が浮かんだ。
――ありがとうございます。次の会社で落ち着いたら、ご飯に行きましょうね。絶対ですよ!
花束を抱えてはにかみながら、潤んだ瞳で私を見ていた。そうやって何人も退職者を見送ったけれど、連絡してくる人など誰もいない。
新しい場所に慣れ、新しい仲間の中で、彼らは自分の居場所を作っていく。よほど深い仲の友人にでもならない限り、私たちは通り過ぎていく間柄なのだ。
と、大きな音を立て、電車が急停車する。ぼんやりとしていた頭が一気に覚醒するほどの勢い。車内放送が入り、緊急停止ボタンが押されたと知る。復旧見込みがわからないため、会社へとメールを入れた。
「こんなことなら、焦らなくても良かったなぁ」
どうせ遅れるのだったら、もっと寝坊しても良かった。起きた時にはわからないことだから、仕方がないのだけれども。
ぎゅうぎゅうの車内。
後ろにいる体の大きな人にこっそりと体重を預け、瞳を閉じた。何かが思い浮かぶわけでもないのに、無意識に眉間に皺が寄っていることに気がつく。妙に悲しく、胸がざわざわとする。
「がんばらないと」
小さく声に出した。何を頑張るのかは、わからないけれど。
もう冬になるというのに、締め切った車内は暑く、こもった空気に嫌気がさす。脳に酸素が回らないのか、さっきから鼻の奥がツンとして、喉の下の方が苦しい。息苦しい。心臓がばくばくとする。ものすごい吐き気がした。
早く。
早くここから逃げ出したい。
――ここから? 何故そんなことを思ってしまったのだろうか。
ようやく電車が動き出し、ノロノロと進み、田町駅に到着した。多くの人が降りていく。少し空いた車内で、通路の奥まで進むと、あと二駅、と息を吐き出した。
新橋駅を出て、ぼんやりと歩く。どうせ遅刻の連絡をしているのだ。焦る必要もない。そうだ、たまにはコーヒーでも買ってから会社に行こう。
「ちょっと贅沢、しておこう」
まるでCMのようなセリフだな、なんてくすりと笑ってしまう。駅のすぐ近くにあるチェーンのコーヒー屋へと足を向ける。件の花屋の手前にあるコーヒー屋に近付くと、急に目眩がした。立ち尽くす。足が動かない。
「……っ、駄目だ」
健人の声が脳内に響く。
「他に好きな女ができたから」という言葉が、「泣きそうな顔をしても困る」という言葉が、冷たい温度で私を苛む。
お前に興味のある人間なんているわけがない、誰も彼もが過ぎ去っていくのだ、と言われているような気さえする。
大丈夫だと思っていた。
恋の終わりなんて、どうせどれもたいして変わりはない。どうにかこうにか自分で折り合いをつけ、毎日を過ごしていくうちに忘れていくのだから、今を乗り切れば大丈夫だと思っていた。
なんでもないことだと、そう思っていれば良い、と思っていた。
「同じ店舗、じゃないのになぁ。ただ同じチェーン店っていうだけで、駄目なのか」
彼との別れ話をしたのと、同じチェーンのコーヒー店。たったそれだけで目眩がするなんて情けない。頭ではそう思っているのに、指先がどんどんと冷えていく。けたたましく耳鳴りがして、体が揺らぐ。嫌な汗がにじんできた。目を開けていられない。重く、まぶたが落ちてくる。もうダメかもしれない。体が頽れる。
「山瀬さん?」
がくりと膝から力が抜けていった。そう思った瞬間、脇の下に誰かの腕が入り込む。
「山瀬さん、大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声。重たい頭をどうにか持ち上げれば、花屋の店主が私を支えてくれていた。
「あ……」
「おぶってあげますから、店に行きましょう」
「いえ、だいじょ」
「うぶじゃないでしょ」
半ば強引に体を引き寄せ、彼女は小柄なその体に私を背負う。思いの外力があるのだな、なんて馬鹿みたいなことを思ってしまった。
「ふふ。花屋は体力勝負ですからね」
私の考えを見透かされたのか、笑いながらそう言う彼女の背中は、やけにあたたかく、思わず頬を摺り寄せてしまう。
そんなつもりはなかったのに零れる涙が、彼女の羽織るフリースを濡らしてしまった。