第2話
午後五時半。会社の近くにある花屋は、小さな個人経営の路面店だった。
「ごめんください。今朝お電話しました山瀬美沙です」
「花束ですね。できてますよ」
「急にごめんなさい」
いつもならば前日までに連絡をいれているのだが、うっかりしていた。女店主はにこにこと笑いながら、大きな冷蔵のガラスを開ける。
「大丈夫ですよ。今の時期は混んでいませんからね」
歓送迎会の季節と、三月から五月は繁忙期で、花の仕入れの関係で事前に連絡が必要、と告げられた。
なるほど。
今は十月。そこまで忙しいというわけでもないのか。
店内には、数日後に当日を迎える、ハロウィンのモチーフが溢れていた。
「はい。オレンジをメインに、ということだったので、ガーベラとバラを組み合わせました。どうかしら」
「かわいい! このチョコレート色の花は……コスモス?」
「珍しいでしょう。チョコレートコスモスと言うんですよ」
「へぇ」
小早川のイメージを、と思い、オレンジ色を主軸とした花束にして大正解だ。オレンジ色の花の中に、チョコレート色のコスモス、緑のツルがまるでアーチのようにふわふわと空気をはらんでいる。
「いつも、ありがとうございます」
花束を受け取り、礼を言う。この店は、誰かが退職するたびに使っている。五千円の予算で、それ以上のものを作り上げてくれるので、ありがたい。大きすぎず小さすぎない、持ち帰りやすいサイズ。そして退職する人のイメージ通りの花。
「私も転職、しようかなぁ」
紙袋の中の花を見ながらごちる。そんな勇気もないくせに。
幾度も幾度も、去っていく先輩や後輩、そして同僚の背中を見ている。
私は同じ場所に残ったまま。毎日毎日同じように働き、同じように生活をする。
「あぁ、そうか」
立ち止まり、再び空を見上げた。
十月も終わろうという今時分。太陽は沈み、空には上弦の月がふっくらと見えた。JRの向こう側は繁華街の電灯で明るく輝き、夜の暗さなんて無関係のよう。
「昨日までの生活とは、違うんだっけ」
朝、棚上げしていたことが、今になって実感としてやってくる。
昨日の出来事は事実だ。健人は他に好きな女ができたから、二十七歳から五年も付き合って結婚の約束をしていた私を、いともたやすく捨てた。
「二十七歳から三十に歳って……女の人生でめちゃくちゃ大切な時期なんだけど」
ぽつりと落とした言葉が、私の中で現実味を帯びてくる。
「好きな女って、どんな人なんだろ」
どんな女性なのかなんてわからない。健人が好きなだけなのか、それとも相手も好きだと言っているのか。
「結婚するつもり、実はなかったのかな」
思い返してみれば、結婚式を挙げるのを嫌がったのは健人だ。そんな大金を使う必要はないと言い切った。それに、いつ入籍する? と聞いても、何年も曖昧にされてきたのだ。ようやく来年籍を入れようなんて話になったけど、今度は私の親になかなか会いたがらない。
――私のことは、向こうの両親に会わせたくせに。
向こうの両親に会ったから、安心したところもある。ようやく私の両親に会ってくれることになった時には、約束の時間を過ぎて登場した。あの時は生きた心地がしなかったな。私の父親は時間にうるさいのだ。いや、それでなくとも、初めて結婚相手の親に会うときに、時間に遅れるだなんてことしないだろう。
「結局は、私のことを軽んじていたんだろうな」
寂しい気持ちが胸に去来する。私は彼と一緒にいて楽しかった。けれど、彼はそうじゃなかったのだろうか。
「あーあ」
月は変わらず空高くにいる。昨日と同じような空。でも、私はもう昨日とは同じような私ではない。
恋人と別れ、週末の過ごし方も変わる。
それでも、平日は同じように会社に行き、同じように働き、同じように残業し、同じように満員電車に揺られ、同じようにスーパーでおつとめ品を購入してから帰宅するのだろう。
「何してたんだろ、私」
右手に握った紙袋の取っ手を強く掴み、小さく溜息を吐く。
目の前には、国道。
次々と走り行く自動車に、目が奪われてしまった。