第1話
別れとはどうして突然やってくるのだろうか。
昨日まで、いやほんの数十秒前まで、私は幸せの中にいたはずだった。
「美沙、別れよう」
「は?」
「他に好きな女ができたんだ」
なんだそれ。眉をしかめ、じっと彼を見る。
チェーンのコーヒー屋で言う話だろうか。いや、別にどこでだったら良いのか、とも思い付かないけれど。
彼――和田健人とは五年も付き合い、来年に籍を入れる話もしていた。それなのに、突然「他に好きな女ができた」と言われても、どうして良いのかわからない。
彼の言葉が頭の中をぐるぐると巡り、返す言葉が浮かばない。何か言わなくては、と必死で考えても、ぐわんぐわんと目がまわり、なんだか頭が揺れているようで、思考がすすまないのだ。
席を立つ彼が私を見るが、そこに浮かぶのは面倒くさいと言わんばかりの表情。
「そうやって、泣きそうな顔しても困るんだよね。なに? 言いたいことあるの?」
そんなことを言われても、私にとっては急な話だ。
来月には旅行に行こうって、先月話したばかりじゃないか。
来年の入籍にあわせて、結婚式はしなくとも、ウエディングフォトはしようねなんてことだって、話してた。
それなのに、突然「別れよう」だなんて、理解が追いつくはずがない。だいたい、そんな言葉で終わらせて良いような長さの関係でもない――と、私は思っていた。
「特に言うこともないみたいだし、それじゃ」
でも彼はそうではなかったようで、飲み終えたコーヒーを手に、席を立つ。必死で何かを言おうと口を開けたが、声がでない。
だって、何を言えば良いのだろう。
もう既に、他に好きな人がいる相手に。あぁせめて、手元の水をぶっかけてやれば良いのか。いや、それは軽犯罪だっけ? いやでも、一矢報いたい。
何か、何かできないだろうか。何か言えないだろうか。そう思うも、体が硬直し、手先から冷えて、身動きがとれやしない。
口よ動け、頭よ働け。そう思っている間に、彼はどんどんと出口に向かっていく。私を振り返ることもなく。
「……いやだ」
そうして、零れそうな涙をこらえてようやく出た言葉は、店を出る彼に届くことはなかった。
どうやって家に帰ったのか、覚えていない。
気付けば朝だった。重い頭をどうにか持ち上げて、起き上がる。スマートフォンを見れば六時半。手元のリモコンを手繰り寄せ、いつもの情報番組を眺めた。
野菜や米の値上げやら、どこかの国で銃の乱射事件が起きた、なんてニュースが耳を素通りしていく。天気予報の時間になったところで、いい加減顔を洗わないといけないと、椅子から立ち上がった。
廊下には昨日放置したらしいバッグが放り出されている。うっかり足を取られて転びそうになって、泣きたくなった。
「ひっどい顔」
鏡の中の自分は笑えるほど浮腫んでいて、化粧でごまかせるか心配になる。ぼさぼさの髪の毛は、ドレス映えするように伸ばし始めたばかりで、肩より少し下で跳ねていた。
いつもより冷たい水で顔を洗い、化粧水のあとに夜に塗り込む美容液を顔中に塗り込んで、少しだけマッサージをした。浮腫が少しでも消えて人前に出られる顔になるように。
そうして、ピイピイと電子音を立てた炊飯器からご飯をよそう。弁当箱にも詰め込んで、粗熱を冷ましている間に、朝食とメイクを済ませる。髪の毛をハーフアップにまとめ、シフォンのスカートを翻しながらハイヒールを履いた。
いつもの時間に家を出て、空を見上げる。
「失恋休暇とか、作って欲しいな」
かさり。
落ち葉が風に揺れた音が、妙に大きく聞こえた。落ち葉でも良いから、声をかけて欲しいのか。情けなくて笑ってしまう。
「おはようございます」
駐輪場のおじさんに挨拶をする。一人暮らしだと、挨拶をする相手に困ってしまう。誰かと言葉を交わすことで、ようやくその日が始まる気がするのだ。少なくとも、いつも通りのルーティンをこなしたい。昨日のことが本当だったかどうか、考えるのはもう少しあとにしよう。
満員電車に揺られて新橋に出る。隣にいたおじさんがヘビースモーカーだったようで、煙草のにおいが、髪の毛にうつってしまった。女性専用車両よりも、スモーカー専用車両を作って欲しい、なんていつも思う。
SL広場を抜けて電気屋の前を曲がる。そこから内幸町方向に五分ほど歩けば、職場だ。
「山瀬さんおはようございます」
「おはよう。なっちゃん今日までだっけ」
「そうですよ。山瀬さんと会えなくなるの、寂しいなぁ」
「こら! ひっつくなって」
小早川奈津子。同じ部署の、三つ下の後輩。転職が決まっての退職だ。あぁ、今日が最終出社日なら、あとで花束を手配しなければ。パソコンの電源を入れたところで、今日のスケジュールを確認し、花屋に電話をいれる。
「なんか……なんだろうなぁ」
電話の履歴は、花屋と会社と健人のものだけだった。