第2話 ひとりきりの夜に
――――それから、父は、たったひとりになった。
夜の森は、冷たく、暗かった。
空は煤け、月も星も隠されていた。
そこにあったのは、ただ湿った土と、凍える風と、死の匂いだけだった。
父は、何も見えないまま、地に膝をついた。
指先が、冷たい石に触れた。
無意識に、それを握った。
そして何の意味もなく、地面を叩き始めた。
がつん、と鈍い音がした。
ひび割れた小石が砕け、跳ねた。
それでも、父は、なお叩き続けた。
手のひらが裂け、血が滲み、泥と混じって赤黒く濁った。
けれど、痛みは、どこにもなかった。
守れなかった。
救えなかった。
この手で――何も。
砕けたのは、石ではなかった。
父自身だった。
静かに、静かに、心が壊れていった。
そのとき、腹が鳴った。
無様な音だった。
それでも、父は、ふらふらと立ち上がった。
生きなければならない。
理由などない。
それでも、生きなければならなかった。
父は、泥を踏みしめ、枝を掻き分け、暗い森を彷徨った。
何も考えず、誰にも導かれず、ただ――生きるために。
そして、見つけたのだ。
小さな草陰に、うずくまる野ウサギを。
それは、あまりにも無垢だった。
ふわふわと、やわらかな毛並み。
何も知らずに、草を食む、小さな命。
父は、呼吸を止めた。
泥に這いつくばり、震える手で石を握った。
――できるのか。
小さな声が、心の奥で問いかけた。
父は、迷った。
躊躇い、震えた。
だが、飢えが腹の底で吠えた。
生きろ、と。
父は、石を振りかぶった。
野ウサギが、ふと顔を上げた。
つぶらな瞳が、父を映した。
その瞬間、父の手は、わずかに止まった。
それでも──振り下ろした。
鈍い音が響いた。
柔らかな骨が砕け、命の光が、一瞬で消えた。
あたたかな血が、父の手を汚した。
その感触に、胃が裏返るような吐き気が込み上げた。
それでも、父は、逃げなかった。
震える手で、肉を引き裂き、無様に口へ運んだ。
生きるために。
復讐の火を、絶やさないために。
どれだけ穢れても、どれだけ醜くても――――
父は、あの日、ひとりで立ち上がることを、選んだのだ。