1-3 ゲームの中の現実
蓮は布団の中で、全身に広がる違和感と疲労感を感じながら、無理やりに思考を巡らせていた。現実感は薄れ、混乱は深まる一方だった。
(俺は……事故にあったはずだよな……。)
頭の中に浮かぶのは、ロンドンの夜、みゆを突き飛ばした瞬間と、目の前に迫る車のライト。あの衝撃――吹き飛ばされた瞬間の冷たさ。その後は何も覚えていない。気づけば、この異様な和風の部屋にいた。
襖や障子、豪華な布団の感触。明らかに異世界じみた空間に、胸がざわつく。「櫻華蓮」と呼ばれるたび、蓮の頭は混乱に拍車をかけられる。
(……櫻華蓮? 聞いたこともない名前だ。)
蓮は再び自分の手を見る。確かに自分の手だ――だが、それと同時に違和感が拭えない。肌は驚くほど滑らかで、筋肉の感触も以前とはどこか異なっている。自分の体であるようで、自分ではない――その不一致感が、さらに胸を締め付けた。
「櫻華」と呼んだあの男、神楽。その存在が頭から離れない。鋭い金色の瞳、圧倒的な威圧感、そして――「命令」。
あの場面が何度も脳裏に蘇る。
「……あれは何だったんだ……?」
「黙れ」と一言言われた瞬間、全身が硬直し、自由を奪われた。そして「俺を見ろ」という言葉で勝手に視線が動いたあの感覚――まるで誰かに操られているようだった。それでいて、なぜか胸の奥に妙な安堵感すら広がる。
(……まさか、あれが……。)
蓮の脳裏に浮かぶのは、みゆが興奮気味に語っていた乙女ゲーム『花ノ契』のことだった。
『蓮くん、見て!このゲームすごいんだよ!DomとSubの信頼関係と絆がテーマでさ、すごく奥が深いの!』
そして、彼女が見せてきた画面に映る金色の瞳のキャラクター――「神楽」。現実の神楽と完全に一致しているその姿が頭をよぎる。
(いや、そんなバカな……。)
蓮は頭を振り、その考えを振り払おうとした。しかし、この異常な状況を最も説明できるのがその考えだという現実に気づいてしまう。
蓮はゆっくりと布団から上体を起こし、視線を室内に向ける。豪華で広々とした部屋。障子越しに差し込む柔らかな光が、全てを非現実的なものに見せていた。目に留まったのは、金箔の装飾が施された雅な文箱だった。
「……これは……?」
蓮は手を伸ばし、慎重に文箱を開ける。すると、淡い光が文箱の中からあふれ出し、部屋全体を包み込んだ。驚く間もなく、その光は空中に広がり、雅な映像を映し出した。
「……っ、なんだこれ……?」
蓮の目の前に現れたのは、まるでゲームのオープニング画面のような美しい映像。浮かび上がる華やかな文字。
『花ノ契』
タイトルが浮かび上がり、蓮の胸が大きく跳ねる。次第に広がるのは雅な世界観。見覚えのある景色や人物が映り込む。画面の中で金色の瞳を持つ神楽が姿を現し、冷ややかな視線をこちらに向けて言った。
「お前は俺のSubだ。それを忘れるな。」
その声が現実の神楽の言葉と完全に重なり、蓮の中で何かが砕け散るような感覚が広がる。
「嘘だろ……俺が……ゲームの中に?」
蓮は文箱を思わず放り投げた。映像は消え、部屋には再び静寂が訪れる。しかし、胸のざわめきは止まらなかった。
(どうすればいい?)
蓮は頭を抱えながら考えた。この状況がゲームの中の話だとして、自分は何をするべきなのか? そして、どうやってこの世界から抜け出せばいいのか? 分からないことだらけだった。
(俺は蓮だ……緊縛師で……。)
思い出すのは、自分の過去だ。孤独だった幼少期、養父であり師匠の椿との出会い、そして緊縛師としての道を切り開いてきた苦労の日々。多くの壁にぶつかり、その度に自分の力で乗り越えてきた。だからこそ、ここで止まるわけにはいかない。
「どうにかしないと……。」
自分に言い聞かせるように呟いたその声には、少しずつ力が戻っていた。状況は不明で、帰る方法も分からない。それでも、自分が動かなければ何も変わらないことだけは確かだった。
蓮は思考を巡らせる中で、不意に腹の奥がぎゅるりと鳴るのを感じた。その音に一瞬、意識が引き戻される。
(そういえば……俺、いつから何も食べてない?)
ロンドン公演の準備中、まともに食事を取る暇がなかったことを思い出す。最後に口にしたのは、確かコーヒーとサンドイッチだけだったはずだ。
(腹減ったな……。)
そんなことを考えていると、襖の向こうから控えめな声が聞こえてきた。
「櫻華様、夕餉をお持ちしました。」
柔らかな声に、蓮は一瞬驚きながらも返事をする。
「……あ、ああ。入っていい。」
襖が静かに開く。その動作は驚くほど丁寧で、入ってきた侍女たちは深々と頭を下げながら木製の膳を運び込んできた。蓮はその様子に少し圧倒されつつも、膳に視線を向けた。
湯気の立つ味噌汁、艶やかな白米、ふっくらと焼かれた魚、そして色鮮やかな副菜の数々が並べられている。漂う香りに蓮の胃が反射的に反応する。
(……うまそう。)
侍女たちは膳を整えると、再び深く礼をして部屋を出ていった。襖が閉じる音を確認してから、蓮は膳の前に腰を下ろし、箸を手に取る。湯気の立つ味噌汁を一口含むと、口の中に広がる出汁の香りが、胃にじんわりと染み渡るようだった。
「……美味しい……。」
思わず呟く声に、自分でも驚いた。久しぶりの日本食に、懐かしさと安心感が広がる。白米の甘さ、焼き魚の香ばしさ――どれも完璧だった。蓮は次々と箸を進め、気づけば膳のほとんどを平らげていた。
◇
ふと、膳を見下ろして満足感に浸っていた蓮の耳に、再び襖の向こうから足音が聞こえてきた。今度は少し重みのある足取り。
「櫻華、入るぞ。」
その低い声を聞いた瞬間、蓮は自然と背筋を伸ばした。襖が静かに開き、そこに立っていたのは神楽だった。冷たい金色の瞳が蓮を捉え、わずかに柔らかさを感じさせる視線を向けてきた。
「どうした?」
蓮が少し警戒しながら問いかけると、神楽は膳を見やりながら淡々と口を開く。
「いつもより、よく食べたみたいだな。」
「……いつも?」
蓮は怪訝な顔をしながら問い返すが、すぐにその意味を悟る。神楽が言っているのは「櫻華蓮」のこと。この体の「持ち主」の食事習慣だ。
(確かに……この体、細すぎる。まともに食ってなかったんだろうな。)
神楽は蓮を見下ろしながら、冷静な口調で続けた。
「体が慣れるまでは無理をするな。必要なものは全て揃えてある。」
蓮はその言葉に何も返せず、ただ神楽を見返す。少しだけ心配を滲ませた表情に、自分でも気づかない感情が揺さぶられる。
「……分かったよ。」
蓮が短く答えると、神楽は襖に手をかけた。だが、閉じる直前、ふと振り返りながら静かに言った。
「よく休め、櫻華。」
蓮は閉じられた襖をしばらく見つめていた。その一言が、妙に胸に残る。
(櫻華蓮……。お前、一体どんなやつだったんだ?)