1-23 酒盛り
夜、月明かりが障子越しに差し込む静かな部屋で、蓮は手のひらに広げた麻縄をぼんやりと見つめていた。講習会を終えた後の疲労感はあるものの、それ以上に自分が感じた満足感が心に引っかかる。
(やっぱり、俺は縄が好きなんだな……。)
久しぶりに縄に触れて、縛る技術を人に教えることで思い出した感覚。指先に馴染む独特の質感や、縄を通して感じる自分と相手との距離感。それが、何よりも自分らしいと感じてしまう。
そして、ふと思い出したのは、今日の講習会で神楽に縛られたときのことだ。
(縛られたのなんて……久しぶりだな。)
縛られる経験が全くないわけではない。緊縛師として活動する前は、練習のために自ら縛られることも多かった。だが、神楽に縛られたときに感じた妙なざわめきは、それらとは異なるものだった。
(あいつ……あんな丁寧に触れる必要なんてなかっただろうが。)
蓮は小さく頭を振り、考えを振り払おうとした。そのとき、神楽の足音が聞こえてきた。
「蓮、入るぞ。」
神楽の声とともに、襖が静かに開かれる。手には酒の徳利とお猪口を二つ持っている。
「……何だよ、こんな時間に。」
「講習で疲れただろう。少し飲め。」
蓮は半分呆れながらも神楽を部屋に招き入れ、机の前に座った。
◇
徳利から注がれる酒の音が静かな部屋に響く。蓮は差し出されたお猪口を一口飲み、ほのかな甘さに目を細めた。
「意外と飲みやすいじゃねえか。」
「お前にとっては上等な酒だろう。」
神楽の口調は淡々としているが、いつもよりどこか柔らかい雰囲気をまとっていた。しばらく無言で酒を酌み交わしていると、神楽が不意に口を開く。
「蓮……お前の前世の話を聞かせてくれ。」
「……は?」
思わぬ問いに、蓮は目を見開いた。神楽がこんなことを聞いてくるなんて予想外だった。
「どういう風の吹き回しだよ。」
「お前は櫻華蓮だが、それ以上に“蓮”でもある。お前がどう生きてきたのか、知りたいと思っただけだ。」
神楽の真剣な瞳に、蓮は言葉を詰まらせた。前世のことをこの世界の誰かに話すなんて、これまで一度も考えたことがなかった。だが、神楽の視線に嘘はない。
「……そうかよ。だったら、ちょっとだけな。」
蓮はお猪口を傾け、酒を一口飲み干してから話し始めた。
「前世で俺は、緊縛ショーをやってた。……仕事としてな。」
「緊縛ショー?」
神楽の眉が微かに動く。だが、その言葉を否定するでもなく、静かに続きを促した。
「養父の椿に拾われて、縄の扱いを教えられたんだ。最初は興味本位だったけど、次第にそれが俺の仕事になった。縄を使って人を縛るだけじゃない。……それを見せて、何かを伝える。そんなことをしてた。」
蓮の声はどこか懐かしさを帯びている。
「椿にはパートナーがいてさ、その人が俺の師匠みたいなもんだ。あの人に教わったんだよ。緊縛ってのはただの拘束じゃない。……人の心や体に触れる行為なんだって。」
「……それが、お前の前世か。」
神楽は酒を飲み干し、徳利に手を伸ばした。だが、注ぐ手はどこか慎重で、彼が何かを考えていることを伺わせた。
◇
酒が進むにつれ、蓮の口調は次第に崩れていく。
「……まあ、普通のやつには分かんねぇ話だろ。……でも、椿と師匠のおかげで俺はここまでやってこれた。……それだけは確かだ。」
神楽は静かに蓮を見つめ、低い声で言った。
「蓮、それ以上はいい。」
「まだ話し足りねぇっての。おい、酒を注げよ。」
蓮は無理やりお猪口を差し出したが、神楽はそれを取り上げる。
「もう飲むな。これ以上は酔いが回るだけだ。」
「返せよ。俺の酒だぞ!」
蓮が手を伸ばし、お猪口を奪い取ろうとした瞬間、バランスを崩した。思わず前のめりになった蓮を、神楽が咄嗟に抱き止めた。
◇
「っ……。」
蓮はふらついた体を支えられ、神楽の腕の中に収まる形になった。その瞬間、蓮ははっきりと神楽の体温を感じた。酒のせいで鈍った感覚が、神楽の力強さと温もりに妙に敏感になっている。
「お前、本当に無防備だな。」
神楽の低い声が耳元で響く。蓮はむっとしたように顔をしかめるものの、言い返す気力がない。
「無防備なんかじゃねえよ。酔ってるだけだ。」
そう言いながら身を離そうとするが、神楽の腕はそれを許さない。抱きしめる力は穏やかなのに、蓮をがっちりと包み込んでいる。
「酔ってるからこそ、危ないんだろう。今のお前は、俺がいなければどうにもならない。」
その言葉に蓮はさらに反発しようとしたが、神楽の腕に包まれる心地よさが、それを抑え込んでしまう。逃れられない強さと優しさ。その二つが混ざり合った感覚が、蓮の中に妙な安心感を生み出していた。
「……放せよ、神楽。」
「嫌だ。」
「なんで……っ。」
蓮の問いかけに、神楽は答える代わりに腕の力をほんの少し強めた。蓮の背中に触れる手が、ゆっくりと上下に動き、その動作がさらに蓮を混乱させる。
「お前が頼らないなら、俺が勝手に守るだけだ。それでいい。」
その言葉が、蓮の心にじわりと響いた。これまで自分は誰かに頼ることを意識的に避けてきた。縄を使って他人を縛ることで、自分の存在価値を確かめていた。だが、今の神楽の態度は、それとは全く違う次元のものだった。
「……お前、俺を甘やかしすぎだろ。」
「そうかもしれないな。でも、それでお前が楽になるなら、それでいい。」
神楽の低く落ち着いた声に、蓮の胸の奥がじんわりと温かくなる。言葉を紡ぐ気力すら薄れていき、気づけば蓮の体は神楽に完全に寄りかかっていた。
「俺、こんなんじゃ……ダメなのに……。」
蓮は小さく呟く。だが、神楽は否定もせず、ただ蓮をそっと撫でる。その手の動きに、蓮は再び安堵感に包まれていく。
「お前はダメじゃない。ただ疲れているだけだ。」
その言葉に、蓮の瞳からぽつりと涙がこぼれた。それが何の涙なのか、自分でも分からなかった。ただ、神楽の腕の中で、蓮は初めて心を許している自分に気づいていた。
「……俺、たぶん……こんなに安心するの、初めてだ。」
蓮の呟きに、神楽は答えず、たださらに優しく蓮の背中を撫で続けた。その温もりと静けさの中で、蓮は次第に意識を手放していく。
月明かりが障子越しに差し込む部屋で、蓮は神楽の腕の中で完全に力を抜き、ただその安らぎに身を委ねていた。




