1-22 サブスペース
神楽の低い声が蓮の耳元で囁かれるたび、体の緊張がじわじわと溶けていく。縄の締まり具合が絶妙で、最初に感じた束縛感は薄れ、むしろ体を包む優しい感触へと変わっていった。
(……なんだよ、これ……こんな風に感じるなんて。)
蓮は緊縛師としての経験から、縄の感触が嫌いではなかった。修行時代には師匠に縛られることも多く、それを仕事や技術の一環として割り切ってきた。だが、今、神楽に縛られることで感じる心地よさは、それらとは全く異質のものだった。
「蓮……もう少しだけ、俺に委ねてみろ。」
神楽は蓮の耳元でそう囁くと、背後に回り込み、そっと蓮の体を抱きしめた。その動作は力強さというより、包み込むような優しさに満ちていた。
「お、おい……離れろよ……!」
蓮は戸惑いながらも声を上げる。しかし、その声にはいつもの反発や鋭さはなく、どこか頼りなさが滲んでいた。神楽の腕にしっかりと包まれる感覚に、蓮の体が自然と抵抗をやめ、力が抜けていく。
「……嫌か?」
神楽の低い声に、蓮は返事を詰まらせた。嫌なはずだった。だが、神楽の腕に包まれていると、不思議と安心感が広がる。その感覚が、理性を少しずつ溶かしていった。
「……俺がこうしている間は、お前は何も考えなくていい。俺が全て守る。」
神楽の声が響くたびに、蓮の頭の中は徐々に白くなっていく。体が力を抜くことを覚え、神楽の腕の中に自ら沈んでいくようだった。
(……守る……? 俺を……?)
蓮の胸の奥で何かがスイッチのように切り替わり、全身を包む幸福感と安心感が、彼を深い場所へと引き込んでいった。普段ならいつも感じている警戒心や、抗おうとする気持ちが一気に消え去り、代わりに柔らかく甘い静寂だけが残った。
「……神楽……変だ……俺……おかしい……。」
蓮は震える声で囁いた。その声には戸惑いがありながらも、完全には拒絶できない弱さが含まれていた。
「おかしくなんてない。」
神楽は蓮の髪を優しく撫で、その耳元で静かに囁いた。
「俺に守られていると思えばいい。それだけだ。」
その言葉に、蓮は自然と目を閉じた。胸の中に膨らむ温かな感覚は、今まで感じたことのない安心感だった。肩の力が完全に抜け、神楽の胸元に頭を預けたとき、蓮の表情はいつもの警戒心から解放され、穏やかに柔らかなものへと変わっていた。
神楽はその姿を見て、満足そうに微笑んだ。そして静かに蓮の髪を撫でながら、さらに腕の中に引き寄せた。
「いい子だ、蓮。」
その一言が、蓮の耳に心地よく響いた。普段なら言い返していたはずなのに、今の蓮にはその余力すらなかった。ただ、甘く溶けていくような幸福感に包まれて、全てを神楽に委ねるしかできなかった。
(……こんなに気持ちいいものだなんて……知らなかった。)
蓮の意識はさらに深い場所へと沈んでいき、彼は自分がサブスペースに足を踏み入れていることすら知らなかった。ただ、その温もりの中で、穏やかな眠りにつくかのように体を預けるのだった。
◇
神楽が優しく蓮の髪を撫でる。その動作はまるで、宝物を扱うかのように丁寧で、蓮の心にさらなる安らぎを与えた。
「お前は今まで自分を守ることに必死だった。誰かに委ねることなんて考えもしなかっただろう。でも、俺がいる。少しくらい、俺に頼ってもいい。」
神楽の言葉は静かだったが、その中には揺るぎない安心感があった。それを聞いた蓮は、心の中にあった小さな反発すら消えていくのを感じた。
「……頼る……?」
蓮はその言葉を反芻した。誰かに頼ること――それは、これまでの彼の人生にはほとんど存在しなかった概念だった。常に自分で切り開いてきた。それが唯一の生き方だと思っていた。
だが、神楽の腕の中で感じるこの安堵感に、蓮は抗えなかった。
「俺なんかが……頼ってもいいのか?」
その問いに、神楽はすぐに答えた。
「もちろんだ。お前がどれだけ強くても、誰だって一人では生きられない。俺はお前のドムだ。お前が無理をする必要なんて、ここではない。」
その言葉に、蓮の中で何かが音を立てて崩れていった。心の奥にあった壁が一つずつ取り払われていく感覚。これまで押し込めていた感情が、神楽の腕の中で解放されていく。
「……神楽……。」
蓮は震える声で彼の名前を呼んだ。その瞬間、神楽はさらに優しく蓮を抱きしめ、耳元で囁いた。
「そうだ。お前はそのままでいい。俺が全て受け止める。」
その言葉に、蓮の心は完全に溶けていった。頭の中で巡っていた雑念は消え、ただ神楽の存在だけが全てを支配していた。
「……あったかいな……。」
蓮は目を閉じたまま呟いた。神楽の体温が自分の体に染み込み、まるで全ての痛みや疲れを吸い取ってくれるようだった。そのまま蓮の表情はさらに柔らかくなり、穏やかな微笑みを浮かべる。
それを見た神楽は、満足そうに蓮の髪をもう一度撫で、低い声で囁いた。
「お前は俺に全て委ねていればいい。それだけでいいんだ。」
その言葉を最後に、蓮の意識は完全に溶け込むように深い安心感の中へと落ちていった。




