1-21 縛られる側へ
検非違使たちとの練習は、蓮の指導の下で次第に形になり、講習会はひとまず成功裏に終わりを迎えようとしていた。
「よし、今日はここまでだ。」
蓮は腰に手を当てて広間を見渡しながら宣言した。検非違使たちは感謝の言葉を口にしつつ、蓮に深く頭を下げている。その真剣な態度に、蓮も満足げに頷き、思わず小さく微笑んだ。
「お前ら、結構飲み込みが早いじゃないか。これを実践でちゃんと活かせればいいけどな。」
「ありがとうございました、櫻華様! 教えていただいたことをしっかり身につけます!」
彼らの声に応えながら、蓮は講習に使った縄を片付け始めた。その指先に残る縄の感触が、講習中の集中を思い起こさせ、僅かに胸が高鳴るのを感じた。
(久しぶりにやったけど……やっぱり緊縛好きだな。)
そう反芻しながら、蓮はそっと息を吐いた。その様子を広間の隅で見ていた神楽は、蓮のもとへゆっくりと歩み寄る。その気配に気づいた蓮が顔を上げる。
「なんだよ、神楽。講習会の出来が気になるのか?」
蓮の問いに、神楽は一瞬だけ口元を緩めた。その微妙な笑みが妙に含みを感じさせ、蓮は不安げに眉をひそめる。
「いや、上出来だったんじゃないか。」
神楽の声は淡々としているが、その奥に僅かな感情の揺らぎが混じっているのを、蓮は感じ取った。
「……だが、一つ、試してみたいことがある。」
「試す? なんだよ。」
蓮が眉をひそめると、神楽は手に持っていた縄を軽く持ち上げた。その仕草には、明確な意図が込められている。
「お前が検非違使たちに教えた技術……どれほどのものか、俺の手で確かめたい。」
「はあ!? 試すって……冗談だよな?」
蓮は慌てて手を振り、拒絶の意思を示した。だが、神楽の金色の瞳が蓮を射抜き、その真剣な視線に蓮は息を飲む。
「俺が縛る。……嫌か?」
その低い声に込められた挑発に、蓮の胸がざわついた。嫌だと言えば済むはずだった。だが、神楽の視線がまるで自分を逃がす気がないかのようで、蓮は言葉を詰まらせた。
(俺が縛られる……? いや、そもそもそんなの……。)
蓮は頭の中で反論を繰り返したが、それでも神楽の提案を完全に否定できない自分がいることに気づく。緊縛師として、縛られることを学びの一環として受け入れた過去。それと、今目の前にいる神楽――その真剣な眼差しの間にどこか違う意味があるように感じてしまう自分。
「……冗談じゃねえよ。」
蓮は苦々しげに呟きながらも視線を逸らした。そして、ようやく覚悟を決めたように腕を組み直す。
「……分かったよ。やればいいんだろ、やれば。」
軽く舌打ちをしながら言う蓮だったが、その声には微かな緊張が滲んでいた。
神楽は満足げに微笑むと、手に持った縄を軽く示した。その仕草には余裕すら感じられ、蓮はその態度に苛立ちつつも、逆らう気力を失っていた。
「その前に……セーフワードを決めておこうか。」
突然の提案に、蓮は目を見開く。
「セーフワード……?」
「そうだ。もし本当に無理だと思ったら、すぐに俺を止められるようにするための言葉だ。お前が使いたくなければ、全てを止める。」
神楽は冷静に説明しながら、蓮の目を見つめた。その真剣な表情に、蓮は驚きつつも、内心少しだけ安心する。
「……まあ、別に使うつもりはねえけどな。」
蓮はそっけなく言いつつ、心の奥では神楽の配慮に妙な居心地の良さを覚えていた。
「そう言うな。いざというときのために決めるんだ。どうする?」
神楽の言葉に、蓮は少し考えた後、軽く肩を竦める。
「……“ストップ”でいい。」
「分かった。それがセーフワードだ。覚えておく。」
神楽は静かに頷くと、再び縄を手に取った。その仕草を目にしながら、蓮は僅かに口を尖らせて呟いた。
「……ちゃんと手加減しろよ。痛いのは嫌だからな。」
普段の蓮らしい皮肉を交えた言葉だったが、その声には少しだけ信頼を滲ませる柔らかさが混じっていた。それに神楽は静かに微笑む。
「分かっている。お前が嫌がるようなことはしない。」
神楽が優しく答えると、蓮は肩をすくめ、少しだけ体の力を抜いた。そして、後ろ手に差し出した腕を見つめながら、ぼそりと呟く。
「……はいはい。ほら、好きにやれよ。」
その言葉の裏には、不器用ながらも神楽に委ねようとする蓮の姿勢があった。その素直な仕草に、神楽の瞳がわずかに和らぐ。
神楽は小さく笑うと、蓮の腕を優しく取った。その動きには驚くほどの丁寧さがあり、蓮を傷つけまいとする慎重な配慮が感じられる。蓮は一瞬、その優しさに戸惑ったが、同時にその手のひらから伝わる微かな体温に気を引かれる。
「無理はしない。痛かったら、言ってくれ。」
神楽の低く落ち着いた声が静かな広間に響く。その言葉に、蓮は一瞬だけ眉をひそめたものの、素直に頷いた。抵抗を見せずに従う蓮の姿に、神楽は微かに微笑む。
「いい子だ。」
その言葉を耳にした瞬間、蓮は肩をピクリと震わせた。顔に熱が上り、なんとかその感情を隠そうとするが、すぐに視線を逸らしてしまう。
「……言い方が気に食わねぇんだよ。」
「そうか?」
神楽はわずかに笑みを深めると、蓮の腕を後ろ手に回し、縄を滑らせる。その冷たい感触が蓮の肌に触れた瞬間、蓮は僅かに息を詰めた。
「お前が教えた技術……俺も覚えておきたかった。」
神楽の言葉にはどこか含みがあり、蓮はその意味を考えつつも、絡みつく縄の感覚に集中せざるを得なかった。
神楽の指先が慎重に動き、縄を肌に滑らせるたび、蓮の胸に奇妙な感覚が広がる。それは単なる圧迫感ではなく、そこからじわじわと生まれる熱――それが、自分の意思を少しずつ溶かしていくようだった。
「……なんで、こんなに丁寧なんだよ。」
蓮が呟くと、神楽は動きを止め、金色の瞳で蓮をじっと見つめた。その視線には威圧的な力ではなく、どこか優しさと決意が込められていた。
「お前を傷つけるためにやっているんじゃない。……守るためだ。」
「は……?」
蓮は思わず振り返ろうとしたが、後ろ手に拘束されているために動けない。その制約が、妙に自分を落ち着かせることに気づき、さらに戸惑う。
「溺れかけたお前も、雨の中で倒れたお前も、見てきた。……今度は俺が確実にお前を捕らえたい。」
神楽の声には深い響きがあり、蓮の胸の奥に何かが静かに波打つ。その言葉を聞いて、彼の真意を完全に理解したわけではない。それでも、神楽の手から伝わる熱に、妙な安心感を覚える。
「どうだ、苦しくないか?」
神楽の問いに、蓮は少し身を捩ってみる。しかし、動くたびに縄が肌に絡みつき、じんわりと心地よい圧力が広がる。
「……ああ、まあ……意外と、悪くねぇ。」
蓮の言葉に、神楽は満足げに笑みを浮かべた。その表情を目の端で捉えた蓮は、苛立ちと戸惑いの混じった視線を神楽に向ける。
「なんだよ、その顔……。」
「お前がちゃんと俺に預けてくれた証だ。」
神楽はそっと蓮の肩に触れた。その手から伝わる温もりが、縄の締め付けと相まって、不思議な安心感を蓮にもたらす。
「蓮、そのまま動くな。」
低い声が耳元で囁かれると、蓮は自然と体の力を抜いていた。抵抗しようという気持ちは湧かなかった。むしろ、このまま委ねてみようという思いが、静かに心に根を張る。
「捕らえられた気分はどうだ?」
神楽の問いに、蓮は一瞬言葉を詰まらせる。胸が早鐘のように鳴り、言葉がうまく出てこない。
「……知らねえよ、こんなの。」
蓮が顔を赤らめながら呟くと、神楽は静かに笑った。
「だが、悪くないだろう?」
その言葉が、蓮の心にじんわりと染み込む。視線を逸らしながらも、蓮は自分の体がすでに神楽に完全に委ねられていることを認めざるを得なかった。