1-20 緊縛教室と蓮の決意
緊縛講習の開始
「やっぱり、断るべきだったか……」
蓮は大きく息を吐きながら、講習会場である広間に足を踏み入れた。そこには、整然と並ぶ検非違使たちの真剣な眼差しが向けられている。蓮は手に持った麻縄を見つめ、改めて自分の立場を噛みしめた。
(まあ、神楽の頼みを断るのは難しいんだけどさ……)
すべての始まりは、神楽の何気ない一言だった。
「捕縄術は難しいが、緊縛の基礎なら教えられるだろう?」
その言葉に、「まあ、緊縛の基礎なら教えたこともあるし……」と軽く答えてしまったのが運の尽きだった。あれよあれよという間に話は進み、検非違使たちへの講習が正式に決定していたのだ。
蓮は広間の隅で腕を組み、静かに見守る神楽の姿を一瞥する。彼はいつも通りの冷静な表情だが、その鋭い眼差しが妙に気になる。
◇
「よし、始めるぞ。」
蓮は麻縄を手に取り、広間の中央に立った。壇上で話すのは嫌だったので、検非違使たちの近くで直接見せることにした。
「まず言っておくが、俺が教えるのは“緊縛”だ。捕縄術を覚えたいなら、その前に基礎を叩き込む必要がある。」
蓮は縄を掲げて言葉を続けた。
「緊縛は、ただ相手を拘束するだけのものじゃない。力任せに縛るんじゃなくて、相手を安全に動けなくする技術だ。それに――見た目や仕上がりの美しさも考慮する場合がある。」
「美しさ」という言葉に、検非違使たちは一瞬戸惑いを見せる。しかし、蓮はそれを気にせず話を続けた。
「お前らが美しさを求めることはないかもしれないが、安全性を無視した緊縛はただの拷問だ。これを覚えておけ。」
蓮の鋭い言葉に、広間の空気が一気に引き締まる。
◇
「じゃあ、実際にやってみよう。」
蓮は前に出てきた練習役の検非違使の腕を取り、縄をかけ始めた。その動きは滑らかで無駄がなく、他の検非違使たちは思わず息を飲んで見つめた。
「まず、手首を縛る場合だ。関節のすぐ上に縄をかけることで、動きを制限できる。ただし、血流を妨げないようにしろ。これを間違えると、相手が怪我をする。」
蓮はゆっくりと縄を引き締めながら、次にゆるめる動作を見せた。そのたびに練習役の男が驚きの声を上げる。
「おい、暴れるなよ。暴れる相手を縛るときは、こうする。」
蓮は手際よく縄を操り、数秒で男の動きを完全に封じた。その技術に、周囲の検非違使たちは驚きと興奮の声を上げる。
「これが緊縛か……!」
「こんなに手早く動きを封じられるとは……」
気がつけば、蓮は検非違使たちに囲まれていた。全員が食い入るように彼の動きを見つめ、その目には尊敬の色さえ浮かんでいる。
「おい、少し距離を取れよ。見えねえだろ。」
蓮が軽く手を振ると、検非違使たちは慌てて一歩後ろに下がる。その様子に、蓮は苦笑しながら縄をほどいた。
「さて、次はお前らの番だ。2人1組でペアを組んで、実際にやってみろ。」
◇
検非違使たちは蓮の指示通りペアを組み、それぞれ縄を持って実践練習を始めた。蓮はその間を歩き回り、彼らの動きをチェックする。
「おい、そこが緩い。この結び方じゃすぐに解けるぞ。」
「力を入れすぎるな。相手の腕が紫になる前に気づけ!」
厳しい指摘が飛ぶたびに、検非違使たちは必死に結び直し、相手に謝る。その光景に、蓮は少しだけ笑みを浮かべた。
(まあ、初めてにしちゃ悪くないか。)
◇
広間の中で、蓮は検非違使たちに囲まれながら講習を続けていた。彼らの真剣な眼差しや、ときおり投げかけられる質問に答えながら、自然と気持ちが乗ってくるのを感じていた。
「ほら、そこ。力を入れすぎないようにしろよ。相手の手首を見てみろ。赤くなりすぎてるだろ?」
「ああ、そうだ。その結び方なら動きは封じられるけど、暴れられると簡単に解けちまう。もっとしっかり締めてみろ。」
相手の動きを見極めながら手元を調整する検非違使たちを見て、蓮は少しだけ笑った。講習を始める前の緊張感はいつの間にか消え、今は彼らと向き合うこと自体を楽しんでいる自分がいた。
(まあ、思ったより真剣に取り組んでくれてるし、悪くないな。)
蓮はそう思いながら、次のデモンストレーションに取りかかろうとした――そのとき、不意に背中にチクリとする感覚が走った。誰かに見られている。いや、ただ見られているだけじゃない。何か重いものが刺さるような視線だ。
「……なんだ?」
反射的に顔を上げて視線を探すと、広間の隅に立つ神楽の姿が目に入った。腕を組みながら静かに立つその姿は、一見いつも通りの冷静な佇まいに見える。だが、その目だけは明らかに違った。鋭く、そして妙にじっとりとしている。
(なんだよ、あいつ。俺にケチでもつけたいのか?)
蓮は眉をひそめたが、神楽はまるで動く気配を見せず、ただじっとこちらを見ているだけだった。その視線を受けているうちに、胸の奥にじわじわと奇妙な感覚が広がっていく。
(……いや、あれは違うな。なんだ、この感じ。嫉妬……?)
そう思った瞬間、自然と顔が熱くなるのを感じた。慌てて意識をそらそうとしたが、神楽の視線は一向に逸れない。その視線の強さに気づいたのか、検非違使の一人がぎこちなく振り返る。そして、神楽と目が合った瞬間、ハッとしたように蓮から半歩下がった。
「……どうした? なんか変だったか?」
蓮が不思議そうに声をかけると、検非違使たちは曖昧に首を振りながら「いえ、何でもありません」と返す。だが、さっきまでの打ち解けた空気は一変し、どこか緊張感が漂い始めた。
(ったく……あいつのせいで空気が変わっちまったじゃねえか。)
蓮は小さく舌打ちしながら、広間の隅で相変わらず鋭い視線を投げかけてくる神楽を睨み返した。そして、気づけば口が動いていた。
「……おい、神楽。俺の技術に見惚れてるのか?」
その言葉が広間に響いた瞬間、検非違使たちは一斉に息を呑んだ。神楽の存在感に飲まれた空気の中、彼の返事が静かに落ちてきた。
「……そうかもしれないな。」
その抑えた声には、普段の冷静さの裏に微かな感情が滲んでいた。それを聞いた蓮は、一瞬言葉を失った。いつもの冷たいだけの神楽とは違う――その表情の端に何か温かなものが見えるような気がして、無意識に視線を逸らしてしまう。
「……お前、そういうのズルいんだよ。」
蓮は小さく呟くように漏らした。自分でも何を言っているのか分からないが、顔が熱くなっているのを感じる。それを誤魔化すように再び検非違使たちの方へ向き直った。
後ろで神楽がわずかに口元を緩める気配がしたが、蓮はそれを確認する勇気はなかった。ただ、背中に突き刺さる視線の熱さだけが、ずっと消えないままだった。
(……あいつ、なんなんだよ。本当にズルいんだってば。)
◇
その後、蓮は再び検非違使たちの指導に戻ったが、どこかぎこちない空気が漂っていた。さっきまで距離感が近かった彼らが、少しだけ身を引いているのを感じる。
(……なんだよ、あいつの視線にでも当てられたか?)
蓮は内心苦笑しつつ、検非違使たちに声をかけた。
「ほら、次はこの結び方だ。暴れる相手をしっかり縛る方法だけど、締めすぎると怪我させるから注意しろよ。」
実技を進めるたびに、徐々に場の空気は和らいでいった。しかし、広間の隅から離れない神楽の鋭い視線が、蓮の意識をちらつかせる。
(なんなんだよ……あいつのせいで集中しづらいじゃねえか。)
蓮は小さく舌打ちし、縄を引き締めながら再び指導に集中した。しかし、胸の奥では、神楽の視線がただの監視ではないことを薄々感じていた。