人喰鍋 vs オカズガール
人喰鍋なる妖怪が出るそうだ。
冬の寒い日、誰もいない通りを歩いていると、突然目の前に鍋が出現する。
鍋はぐつぐつと煮えたぎっている。箸とお椀も揃えられている。
こんな外で鍋が煮えたぎっているのはおかしなことだ。道端に落ちている食べ物を食べたくなるような奇特な人は滅多にいないだろう。だが……
蓋を、取ってみたくは、ならないだろうか?
一体、どんな鍋がぐつぐついっているのか、人として、確かめたくはならないだろうか?
鍋の前には丁寧にもミトンが用意されている。素手で蓋を触れば熱いかもしれないが、これを使えば大丈夫だ。
人はついついミトンを手にはめ、その蓋に手を伸ばしてしまうという。
そして、その鍋の蓋を開けたものは──
「高橋くん!」
今日も廊下を坂田が走りながら、かわいいそのピンク色の声を校内に響かせていた。
「オカズにして! 私をオカズにして!」
野球部の高橋が顔を真っ赤にしながら彼女から逃げ惑っている。ちなみに高橋はこの話の中には二度と登場しないので覚える必要はない。
初めて坂田美桜のこのセリフを耳にしたものは、その目を疑い、自分の頭すら疑うだろう。
そしていけない妄想をしてしまう。スレンダーながら豊満な印象のある美少女の、そのかわいい小顔と弾けるようなバストをオカズにして、己の手で己を慰めるいけない己を妄想してしまう。そして、必死で逃げる。
「あん……! また逃げられた」
坂田は立ち止まり、逃げた高橋を見送ると、勢いよくスカートを回転させ、俺のほうを振り返った。
「下僕! ……見てたんなら説明してよ!」
説明しよう。
まず、俺の名前は『下僕』ではない。れっきとした名前はあるのだが、坂田はどうしても俺の本名を覚えてくれない。覚える気がないらしい。
彼女の名前は坂田美桜。俺とは同じボランティア部の部員というだけの関係だ。彼女は『オカズガール』である。詳しくは後で説明するが、けっしていやらしい意味でのオカズではないということだけは先に断っておこう。
「高橋の何かの能力を伸ばそうとしていたのか?」
俺が聞くと──
坂田は流れるような美しい黒髪を揺らし、その小顔を淋しそうにうなずかせて、答えた。
「うん。彼、走力は見ての通り凄いんだけど……バッティングセンスがなさすぎてね、なかなか活躍できてないの。あたしをオカズにしてくれればきっと、うちの野球部を甲子園に導いてくれて、将来は第二のイチホー選手になれるはずよ」
「いや、おまえの能力は一時的なものだろう」
的確に、俺はツッコんだ。
「一生高橋のオカズになるのでなければ意味がないぞ。それに……」
「わかってるわよ」
坂田は顔を背けてしまった。
「……あたし、変な子だって……思われてるもんね?」
坂田の名誉のために説明しておこう。
彼女は自分の体の一部を他人に食べさせることで、食べたものの能力を伸ばすことの出来る、そういう意味でのオカズガールである。
彼女の指を食べれば力が体の奥からモリモリと沸き上がり、彼女の腕を食べれば筋力が3倍に増幅し、彼女の尻なんぞ食べようものなら、それは、もう、超人が誕生してしまうだろう。
ボランティア部に所属する彼女はその奉仕精神をもって、さまざまな部活のキーパーソンに自分の体を食べてもらいたがっていた。
しかし彼女を食べたものは、学校内では今のところ一人しかいない。
誰もが別の意味の『オカズ』だと思い込んでしまっているのだ。ぶっちゃけ坂田は校内一の変態女として見られてしまっていた。ゆえに避けられていた。
かわいい女なら誰にでも愛を囁やけるナンパ男や、どんなことをしても初体験したい童貞くんが勘違いして近づいてくるが、そういうことではないのだから坂田は相手にしない。
食べたことのあるものにしかわからないのだ。坂田美桜の能力は。
一体誰が信じるだろう? こんな美少女の体が食用にできて、食べたら無性に白ごはんが欲しくなって、能力が超人級にブーストされて、食べた部分は後からトカゲのしっぽのようにまた生えてくるなどと? うちの部長ですら信じていないのに?
俺だけが、彼女の理解者だった。
「うー、寒いね」
外へ出ると寒かった。鍋が恋しくなるような北風が吹いていた。
寒がる坂田の体をあたためてやろうと横から抱き寄せたが、避けられた。俺は照れ隠しも兼ねて、最近話題になっている怪談話を彼女に振ることにした。
「そういえば、あの噂を知ってるか?」
「あの噂? 何よ、はっきり言いなさいよ」
「人喰鍋の噂だ」
「ああ……。知ってるけど、あんなのただの噂でしょ」
「見てみなければわからないぞ?」
「あるわけないわよ。人間を食べる鍋だなんて。鍋は人間が食べるものよ」
角を曲がると、鍋がぐつぐついい音を立てていた。
道端に昭和風の緑色したミニテーブルが置いてあり、その上で土鍋がぐつぐついっていたのだ。
箸もお椀も用意してある。かわいいピンク色のチェック柄のミトンも置いてあった。
ただ不思議なことには、鍋の下にカセットコンロは存在せず、鍋は直接テーブルの上に置かれながら、まるで火にかけられているようにぐつぐつと、いい音を立てているのだった。
「坂田……」
「下僕……」
「これって……」
「そうみたいね」
さっきまで噂を信じていなかった坂田が一瞬にしてそれを信じた。人は自分の目で見たものは信じるしかないようだ。ネットで見たなら加工を疑うところだが、目の前にしてしまったら信じざるを得ないようだ。
「「人喰鍋……!」」
俺たちはそいつを前に、しばらく立ち尽くした。
どうしていいのかわからなかったのではない。無性にその蓋を取りたくなってしまう己と格闘していたのだ。
「坂田……」
「下僕……」
「蓋を取りたいよう」
「うん、わかる。でも、だめ」
「取りたいよう。中が見たいよう。どんな鍋? 寄せ鍋? モツ鍋なの?」
「あたしに任せなさい」
前へ進み出た坂田を、そのかわいい手を掴んで俺は止めた。
「よせ! 食われるぞ! でもわかるぅ〜……。蓋、取りたいよね? 中、見たいよね!?」
「そんなことで泣かないでよ、男子が! とりあえずここは食用人間のこのあたしに任せなさい」
食用人間……そうか。
確かに、坂田なら、喰われても問題はないのかしれない。
一瞬そう思ったが、念のために聞いてみた。
「おまえ、たとえばそのかわいい頭部を喰われても平気なのか?」
「あたしが食用になるのは手足とお尻と胸だけよ。頭や心臓を食べられたらさすがに死ぬわ」
「まじかよ! やばいじゃねーか!」
「大丈夫よ。だって蓋を取りたいでしょう? 中、見たいでしょう? どんな鍋なのか、あたしが見せてあげるわ。フフフフ……」
ヤバい。
坂田は狂っていた。
俺も狂わされていたが、鍋の蓋を取ろうとする坂田を必死に引き止めることでなんとか正気を保っていた。
寒空の下、鍋がぐつぐつといい音で俺たちを誘っている。
「坂田!」
俺は意を決した。
「食わせろ! おまえを!」
そう言いながら俺は、握っていた彼女の指を、食いちぎった。
「あん」
坂田が気持ちよさそうな声を出す。
「いきなりなんだから……もぉっ!」
来た……。
来た、来た……!
来た来た来た来た来た来たキターーーーッ!!!
どくん、どくんと俺の中で細胞が活性しはじめ、俺の潜在能力をすべて解き放ち、宇宙まで飛び上がらせようとする。
俺は口の中で坂田の人差し指を舌で味わい、歯で噛み砕き、喉へ流し込んだ。濃厚な松阪牛ソーセージのような味がした。あまりに濃厚なその味に白飯が欲しくなったが、今は我慢だ。
「う……、うまーーーッ!!!」
あまりの美味しさに涙を流しながら、俺は全身緑色の、マッチョな超人ハルくんに、モリモリと変身した。
ぐつぐつといい音を立てる鍋の蓋を取ると、中からサメのような牙を現し、妖怪人喰鍋が俺を嘲笑いながら喋った。
「ハハハハ! オマエヲ喰ッテヤル!」
本当だった。本当だったんだ、あの噂は。でもそんなことは今はどうでもよく、俺は口をおおきく開けると、人喰鍋を土鍋ごとそこに押し込んだ。
「ナ……、ナニヲスルーーッ!?」
俺は何も言わず、ミトンも使わず、煮えたぎる鍋を丸ごと口に突っ込んだ。
「ギャ……、ギャアアアア!!!」
バキ! バキキ! バリボリ、バリボリと音を立て、俺は人喰鍋を食った。本当は白飯がよかったが、この際なんでもよかった。坂田の指を食ったことにより激しく増幅された食欲が、俺を暴走させた。
人喰鍋は、死んだ。
坂田が正気に戻った。
「キモっ」
俺をじっとりとした目で見ながら、呟いた。
「あたしの体をオカズにしたら誰だってパワーが漲るものだけど、いつもながらそこまでパワーアップしちゃうのって……キモ!」
わかっているよ。
バレバレだよな。
坂田の体を食えば、誰でもパワーアップはする。しかし、特に彼女のことを変な目で見ているやつは、尋常じゃないほどのパワーアップをするのだ。
そう。俺は坂田のことを別の意味でのオカズとして見ていた。
坂田の人差し指一本で、俺の細胞と肉体はいともたやすく怪物と化す。今なら彼女のために世界征服でも出来そうだが……
まずは彼女に名前を覚えてもらうところから始めなければなるまい。