4 梓の告白
「あー終わった!」
「なあ、コンビニ行かね? 早く本誌読みたいし」
「やべえ明日は英語小テストだった」
「さすがに初っ端からペナルティは笑えんぞ?」
「分かってるわ。だから早く帰って勉強するんだって」
「俺、竹刀組んでから帰るわ。お前らお疲れー」
ミーティングを終え、教師陣が道場を去ると、生徒たちは緊張から解放される。道場を後にする者もいれば、居残って竹刀を組み直したり素振りをしたりするものもいる。
その喧騒の中で、梓はおずおずと素子に話しかけた。
「あ、あの……キャプテン、ちょっとお話いいでしょうか?」
「何かしら?」
「えっと……」
髪の毛を耳にかけながら素子が返事をする。感情の読めない切れ長の瞳を向けられて、梓は一瞬固まる。意を決して話さねば――いや、話す前にこっちをまずどうにかしないといけなかったか。
「ちょっと未来ちゃん、伊東君が高校生用の竹刀買い忘れてたって! 早くしないと武新堂が閉まっちゃうから一緒についていってあげなよ」
「おい、山崎何言って――」
「買い忘れてたって言ってなかったっけ?」
えみと未来が「明日から負けんからな!」「望むところだ!」と始まる前にしていた言い争いを再開しだしたところに、梓は割って入った。
適当な理由が思いつかなくて、純平を巻き込む。慌てふためく純平にすごんで見せると、彼は何かを察してくれたらしい。さすがに悪いことをしている後ろめたさはあるので、明日ジュースでも奢ってあげようと梓は思った。
「あー、そうだったんだよな。ってことで近藤、ついてきて」
「えー、高校生になっても1人で行けないの? 純平はヘタレだなあ」
「ヘタレヘタレうるせえな。選ぶの手伝えよ。男子は俺1人だから付き合ってくれる奴いなくて困ってんだよ」
「もう、仕方がないなあ! そしたら、コンビニで唐揚げ奢ってね!」
「分かったよ。しょうがねえな」
「わーい! お先に失礼しまーす。お疲れ様でしたー」
「お疲れしたー」
慌ただしく出ていく2人。これで話ができる、と梓は胸をなでおろした。
呆気にとられるほかの1年生を横目に、改めて素子に向き直る。
「すみません。改めて、お話いいですか? 1年生とほかの先輩方も、できたら一緒に聞いてほしいです。さっき出ていった未来ちゃんのことなんですが――」
*
帰った未来以外の女子部員たちは、道場内にある女子部室で円になって座った。
素子が「楽に座って」と声をかけたので、何人かは胡坐や体育座りをしている。大概は下に体操服の短パンなどを履いているので、スカートがめくれることは大して気にしていない。
「それでは、話してもらいましょうか」
梓の反対側に座っている素子が口を開いた。彼女だけは、背筋を伸ばして正座をしている。
なんだか、横座りをしているのがきまりが悪くなって、梓も正座をする。
同時に、全員の視線が梓に向けられた。言葉を探しながら、梓は口を開いた。
「未来ちゃん――近藤さんと私は中学から一緒なんです。自己紹介でさっきも言ったのですが……。
彼女は中学3年生のとき、中体連個人戦の帰り道で交通事故に遭ってて、それで記憶喪失になっているんです」
記憶喪失、梓がその単語を出した瞬間、部室内の空気が張り詰めた。日常からかけ離れたその言葉に、部員たちが目を見開く。無表情を貫いていた素子でさえも、その眉がわずかに動いた。
「私と伊東君と3人で歩いてて、先に横断歩道に出た未来ちゃんが、信号無視の車にはねられて。
ほとんど骨折とか命に関わる怪我はなかったんですが、頭を強く打った衝撃で記憶がなくなったらしくて――。
勉強とか、日常のことはどうにか思い出せたみたいなんです。ですが周りの人間と、剣道に関わる記憶はどうしても思い出せないみたいなんです。
でも、思い出せないけど、剣道は何となく体が覚えてて、大切なものってぼんやりと感じるみたいで……。それで――」
梓はたどたどしく言葉を紡ぐ。それで――とその先の言葉を選んでいると、剣呑な表情のえみが口を挟んだ。
「で、あんたはあいつをどうしてほしいの? 記憶喪失だから特別扱いしろって?」
再び、場の空気が張り詰める。
網戸にして開け放された窓の向こうから、屋外運動部の掛け声が聞こえてくる。
梓はこの場だけ別の空間に取り残されたような、そんな感覚に囚われた。
葵子がぎょっとしたようにえみを見つめている。
「いや、そういうわけじゃなくて。そういうことがあったからあんまり中学のときのことを言われても未来ちゃんは分からないからって。それをできれば知っててほしくて……」
最後の方は今にも消えてしまいそうな声で言う。そこにえみが追い打ちをかける。
「分かった。どうりであいつは私のこと覚えてないわけだ。
あいつがちょっと変わったやつだだっていうのは分かったよ。あいつに負けた中体連個人戦の恨みは絶対に忘れないけど。
まあ、本人は剣道やりたいみたいだしいいんじゃないの。
ただ、さっきから聞いててあんた自身がどうしたいのかが全然分からないんだけど? 見た感じそんなに剣道やりたさそうにも見えないし。あいつのお守りで入部すんの?」
容赦ない言葉の弾丸が梓を襲う。素子以外の部員たちは戸惑いを隠せないといった表情をしてはいるものの、無言を貫いている。
耐えかねたのか、隣に座っていた葵子が「ちょっと、言いすぎじゃない」とえみの制服の袖を小さく引っ張った。
「お守りとか、そういうのじゃなくて」
「私にはお守りにしか見えないんだけど。
日常生活は送れるんでしょ? ならいいじゃん。あんたが世話焼かなくてもあいつは平気なんでしょ。
だったら、剣道したいわけじゃなくて、あいつのお守りで入部したら、全国目指して頑張ってる先輩たちに失礼じゃない?」
梓は言葉を探そうとするも、なかなか出てこない。自分でも気づいていなかった本心を突かれた気がして、えみの鋭い瞳から目を逸らした。
再び、部室内に沈黙が訪れる。
「事情は分かったわ。先生方には私から伝えておく。そして、記憶に関すること以外は他の部員たちと同じように接する。
永倉さんも、近藤さんには中学時代に思うところがあるみたいだけど、本人の記憶がない以上はどうしようもないことを理解すべきよ」
沈黙を破ったのは素子だった。
キャプテンに諭されたえみは、さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、肩を落として小さく返事をした。
「山崎さんがこうやって事情を打ち明けているのは、近藤さんのことを心配しているからよね?」
「――はい」
素子の言葉を梓は肯定した。
「だけど私には、あなたは、そこまで近藤さんの世話を、甲斐甲斐しく焼いているようには見えなかったし、焼きたがってるようにも見えなかった。
お守り、というのはちょっと言葉が過ぎると思う。あなたが来るときに近藤さんから引っ張られている姿が見えたし、あなた自身は入部を躊躇う気持ちがどこかにあるのよね?」
まっすぐに素子から見据えられた梓は、言葉を探す。
肯定すればえみの怒声が来るだろう。そして他の部員たちからの冷たい視線も。
たしかに入るつもりなんてなかった。でも、無理やりとはいえ未来に引っ張られて、道場に足を踏み入れてしまった。無視すれば、逃げ出そうとすれば、いくらでもできたのに。
(――あれ? 私ってどうしたいんだっけ)
言葉が見つからず視線が泳ぐ梓を、素子は再びまっすぐに見据える。
「山崎さんは、恐れているんじゃないの?」
素子の口から出てきた言葉は、意外にもシンプルな言葉だった。
「チームメイトが事故に遭い、記憶喪失になるという衝撃的な出来事を目の当たりにして、近藤さんと一緒にいることを心のどこかで怖がっているんじゃないの?
一緒に頑張っても、何かの拍子にそれが崩れ去ってしまうんじゃないかって、そう思っているんじゃないの?
半ば無理やりとはいえ連れてこられて、でもこうやって話してくれているってことは、少なくとも剣道をやりたい気持ちがゼロではないからだと私は思っている。全くもって剣道をしたくないわけではないし、近藤さんと一緒にいたくないわけではないけれど、それを躊躇ってしまう何かが心にあるんじゃないかしら?」
梓の中でずっと言葉にできなかった気持ちが明文化されていく。決して大きくはないものの、良く通る、透き通った声で素子は続ける。
「私はそんな経験をしたことはないけれど、それまで積み重ねてきたものが一気に崩れることは、きっととても怖いことだと思う。そしてそのトラウマから、また積み重ねることを恐れてしまうんじゃないかとも思う。
確かに、中学時代に一緒に頑張ってきたことが、近藤さんの中でなかったことになっているかもしれない。あなたはそれにショックを受けた。そして高校でも、何らかの形でなかったようにされてしまう――そう思っているんじゃないの?
だけど、またそうなると決まったわけではないでしょう? そうやって杞憂していたら何もできないわよ。
それに、もしまた彼女が積み重ねたものが崩れ去っても、そのときに一緒にいてあげられる人間は多い方が良い。そして、私たちよりもずっと、近藤さんのことを理解している人が近くにいた方が彼女も心強いんじゃないの?
半ば無理やりとはいえ道場に来てくれたということは、あなたは全く剣道をしたくないわけではないと信じてる。だから、近藤さんと、私たちと、一緒に剣道を頑張ってみない?」
言い終えた素子の表情は、梓には少し緩んだように見えた。
少し考えてから、梓は口を開く。
「――そうかもしれません。自分自身でどうしたいのか、未来ちゃんにどうなってほしいのか、よく分かってませんでした。
正直、まだ自分でもよく分かりません。確かに、怖いのかもしれません。
剣道が嫌いで、全くやりたくないというわけではないけど、未来ちゃんと一緒に部活をしたくないって、漠然と思っていました。
私自身は、剣道がめちゃくちゃしたいというわけではないので、まだやっぱり入らないでおこうかなともちょっと思っています。でも、入らないでいるのも何か嫌だなとも思います。
……こんな中途半端な気持ちですみません。ちょっと考えてみます」
「分かった。いい返事、待ってるわ」
素子が答えると、道場の外から下校を促す教師の声が聞こえてきた。
その隣で、みどりがパチンと手を叩く。
「さ、早く帰らないと先生に叱られるよ。今日はこの辺にして早く帰ろう。あ、もちろん私も梓が入ってくれると嬉しいからね! 可愛い後輩は多い方が良い!」
快活な声に、部室内の緊張がほどけてゆく。
「あんまり遅すぎると部活停止食らうよ」とみどりに脅されて、1・2年生は慌ただしく部室を後にした。