1 ようこそ銀杏台高校剣道部
剣道の理念
剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である
財団法人全日本剣道連盟より
入学式のときは校門までの坂道に桃色のトンネルを作っていた桜も、もう青々とした葉を覗かせている。そんな4月も半ば。
終業のチャイムが響いて、授業から解放された生徒たちがざわざわと動き出す、放課後が訪れる。
ここ、熊本県立銀杏台高校でも、それは例外ではない。そそくさと下校しだす生徒もいれば、教室に居残る生徒もいる。そして、本格的に始まりを迎えた部活動へと急ぐ生徒たち。
近藤未来も、新しい環境での部活動へと胸を高まらせるその1人だった。
「梓も入ろうよ、剣道部。ねっ、一生のお願い!」
「だから入らないってずっと言ってるじゃん。それに、入学前の課題がギリギリで泣きついてきたときも一生のお願いって言ってなかった?」
「今度こそ本当の一生のお願いだから!」
「そんなこと言って。私はもう高校では剣道しないつもりだから」
未来は、連れ立って歩く山崎梓の腕をグイグイと引っ張りながら、懇願する。昇降口を出てからずっとこの調子だ。
未来が引っ張るたびにもつれる脚は、折れてしまうそうなくらいに華奢だ。それでも、未来はお構いなしに続ける。
「やらなきゃもったいないって!」
「そんなの私の好きにさせてよ。未来ちゃんには関係ないじゃん」
「関係なくないもん! 純平も何とか言ってよ!」
「いきなり俺に振ってくんなよ」
唐突に話題を向けられた伊東純平が慌てる。昇降口で偶然会った彼と未来は幼馴染の間柄で、向かう場所が同じなためにこうやって一緒に歩いている。
まさか自分に矛先が向くと思っていなかった純平は少し考えてから口を開いた。
「んー、とりあえず近藤は引っ張るのやめな? 山崎がさっきから転びそうで、見てるこっちが怖いわ。山崎は……怪我したくなかったら、大人しく歩いたらいいんじゃないかな」
「えー、なにそれ!」
精一杯オブラートに包んで出した答えに、未来は不満げに唇を突き出した。それと同時に純平のみぞおちに弁当入れの小さなトートバッグをぶつける。
思いのほかダメージは大きかったらしい。痛っ、とぶつけられた場所をさする純平に梓が呟いた。
「ヘタレなんだから」
純平の答えは、梓にとっても求めていたものではなかったらしい。ぼそりと呟かれた言葉は、思ったよりも刺さったようで、純平は肩を落とした。
「それはそうと、もうすぐ道場着くぞ」
体育館を通り過ぎたさらに向こうに見えてきた建物を、気を取り直した純平が指さした。
純平の一言に、未来がぱあっと目を輝かせる。対して、梓の顔がさらに暗くなる。
「よっしゃ! いっくよー! 純平もダッシュ」
「わわわ、転ぶからやめてよ」
「おい、ちょっと待てよ。俺の話聞いてないだろ……」
走り出す未来。そしてなおもそれに引っ張られながらもついていってしまっている梓。その後ろを追いかける純平は、剣道場へと赴いた。
*
未来たちが到着すると、剣道場には既に先客がいた。
道場内では2、3年の先輩と思しき部員たちがせわしなく動き回っている。入り口には、真新しい制服に身を包んだ、つまり新入生と思われる部員が4人並んでいる。全員が女子だった。
そのうちショートカットの生徒が2人いて、1人はかなりの高身長だ。制服でなければ男子と間違われてもおかしくはないような容姿をしている。もう1人は対照的に、中学生どころか小学生かと思ってしまうくらいに小さい。身長は低いものの、彼女のスカートから覗くふくらはぎは硬く締まっており、どことなく猛禽類を思わせる。
その隣にいるボブカットの生徒は、周りに興味なさげに英単語帳を開いている。最後の1人は、1番落ち着きなく、時折背伸びしては道場の中を窺っている。
「こんにちはー」
礼儀として未来は挨拶をする。
続けて、梓と純平もぺこりと一礼をした。
未来の挨拶に気付いた4人がこちらを振り向く。返事が返ってくる前に、大きな声が響いた。
「何でお前がここにいる?」
1番背の低い女子生徒が、未来を指さして叫ぶ。
残りの3人が大きく目を見開いて彼女を見る。
梓が深く溜め息をつき、純平がその後ろで「うへっ」と情けない声を上げた。
いきなり指をさされた未来は、困惑しながら答える。
「何でって言われても、合格したから?」
首を傾ける未来に、女子生徒の目つきは更に鋭くなる。唸り声を上げて今にも飛びかかってきそうな勢いである。
「そんなこと見りゃ分かるっての。私が言いたいのは、そういうことじゃなくて。去年の中体連からずっと、お前のこと忘れたことなかったんだからな!
近藤未来、お前に負けたあの試合からずっと、高校ではお前のこと倒すって決めてたんだからな!」
女子の中で特段高い方というわけでもない未来を見上げる形でまくしたてる。
その後ろで、そわそわしていた女子が、単語帳を開いていた女子の耳に手を当ててなにか話しかけている。大方「なんかやばくない?」とかそういった類のことだろう。
「いや、正直私は中学生のときのことは――」
「これ以上来ないかな? いやー、今年の1年生はまたイキのいいのがはいったねー。感心感心」
「いや沙帆、どう考えても喧嘩だし、イキが良いって魚じゃないんだから」
「いや、ピチピチしてて魚っぽいじゃん。
それに、誰だって中学ん時の試合で1つや2つ因縁って持ってない? 私も、新人戦でみどりに押されて場外出されたこと覚えてるし」
「あー、あったあった。入学してすぐにそれ言われたから、よーく覚えてる」
「……お前らなにしについてきたんだよ」
未来が言い返そうとした言葉は、道場から出てきた女子部員に遮られた。
そのまま1年生そっちのけで言い合いを始めた2人を、同じく道場から出てきた男子部員が呆れたような目で見る。
「今日は稽古じゃなくてミーティングだから。明日から本格的に朝練と稽古が始まるから、防具と竹刀を持ってきてね。あと、朝練用にジャージも」
もう1人、道場から出てきた女子部員が説明を始める。
言い合いをしていた2人とは打って変わって、かなり落ち着いている。
彼女が出てきた瞬間、そわそわしていた女子生徒の顔が明るくなり「お姉ちゃん!」と話しかけた。どうやらこの2人は姉妹らしい。
それにしても、大人びた姉と落ち着きのない妹で対照的だと未来は思った。自分も歳の離れた姉から、よく落ち着きがないと怒られるので、あまり他人のことを言えないのだが。
「学校では、『姉と妹』じゃなくて『先輩と後輩』で接してって言ったじゃないの。道場に入ったらあなたは後輩で、私は先輩。分かった?」
「はーい」
言いながら妹の頭を、さながら犬と接するように撫でる。
姉妹のやり取りを、さっきまで言い合いをしていた女子部員2人が、ほほえましそうに見ている。
つかの間の姉妹でのやり取りを終えた彼女は、落ち着きがありながらも良く通る声で言った。
「あらためまして、入学おめでとう。そして、ようこそ。銀杏台高校剣道部へ。さあ、道場へ入って」