5人の夏が終わる瞬間
中学生最後の夏が終わる瞬間――。
①近藤未来
目が覚めた視界に真っ先に飛び込んできたのは、白い色だった。
自分が仰向けに寝ており、真っ白い天井を見ていることをぼんやりと理解する。
左手からチューブが伸びている。力を込めたが、四肢は思うように動かせなかった。
視線を動かすと、見慣れない景色が広がっている。
――そもそも、見慣れた景色ってどんな景色だったっけ?
私が寝ている周りに何人かいることに気がついた。
「――あ、の、」
なんだか、声も思ったように出せない。
私の顔を覗き込んでくる女性が大きく目を見開いた。
「未来――!」
「み、ら、い?」
頭がまだ少しぼんやりしていて、自分の状態がいまいちよく分からない。
私をよそに、ベッドの周りにいた人たちが喋りだす。
「未来ちゃん、よかった」
「近藤、心配したぞ」
「あぁ、未来、本当に目覚めて良かった。ねえ、お姉ちゃん?」
「うん、本当に良かった……。そしたら、先生呼んでくるね、お母さん」
1人がその場を離れた。
『ミライ』『コンドウ』それらの響きに、何だか胸のうちから言い表せない感情がこみ上げてくる。なんだっけ『ミライ』『コンドウ』って。
「未来ちゃん、本当に心配したんだから……」
1人が目の周りを拭いだす。
えっと、ちょっと、待って――。
「ねえ――」
「なあに?」
「ここ、どこ? わたし、は?」
私の疑問に、その拭っていた目が大きく見開かれる。
「未来ちゃん、今なんて」
「ミライ――? なに、それ」
「近藤、お前――」
「未来、あなた――」
再び投げかけた疑問に、他の2人もざわつきだす。
本当に、分からなかったのだ。
私は、私が誰なのか。
②永倉えみ
「メエェェェェ――ン!」
体育館の高い天井に、声が響いた。声と共に、私の頭に小さな衝撃が走る。そしてそれに呼応するかのようにして審判が旗を上げた。
私の付けている襷の色は、赤。上がった色は、白。数は、3本。
(うそ、負けた――)
その場で現実を受け止める間もなく、開始線に戻る。
蹲踞と礼をして、私の個人戦は終わってしまった。
下がって面を外し、汗と熱気に蒸された顔を開放する。夏の生ぬるい風が顔を通り抜けていった。
「今の試合見た?」「マジやばかったよね」周囲の声がよりはっきりと聞こえてくる。
横から、後輩の1人がおずおずとドリンクを渡してきた。
「あの、お疲れ様でした」
「ありがと、でも今はいらない」
なんだか受け取る気になれなくて断る。後輩の顔が一瞬翳ったように見えて、思わず眉をひそめてしまう。
断られたのがそんなに怖いのかと、ムッとしてしまう。ちらりと応援席を見ると、皆信じられないものを見たような顔をしていた。
「先輩、そんな……」
「いらないって言ってるんだから」
「でも飲まないと」
「いらないって言ったよね?」
引き下がる後輩に、言葉が強くなる。
我ながら負けて後輩に当たりが強くなるなんてまだまだガキだと思った。後輩に当たったところで負けが勝ちに変わるはずなんてないのに。
それでも、悔しさを隠すことはできなかった。
「はい……あと、先生が呼んでいます」
「分かってる。ありがと。後で飲むから持ってて」
「はい!」
後で飲むから、と言うと、後輩の顔がぱあっと明るくなった。
なんだよ、みんなそんなに私が負けたのがショックなのかよ。私が一番ショックだし、そんな目で見られるのはもっと嫌だよ。心の中で毒づく。
きっと、私の周りには負のオーラが漂っているに違いない。
しかし、いつまでも落ち込んでなどはいられない。個人戦では県大会出場を逃したけれど、明日は団体戦が控えている。団体戦では絶対に負けなければいいだけの話だ。自分だけ勝っても他のみんなが負けたら意味がないけれど。このチームならきっと大丈夫だろう。
それに、高校生になってからもチャンスはあるはずだ。
(次は絶対に負けないからな、近藤未来)
不意に溢れてきそうになった涙がこぼれないように、天井を見上げてから、私は先生のもとへと向かった。
③原田百合子
2回鐘を叩いてから、静かに手を合わせる。写真の中で微笑む母は、華奢で小柄でとても女性らしくて、私とは似ても似つかない。
最後に握った母の手は、細くて白くてガラス細工のようだったことを思い出して、胸がぎゅっとなる。
*
その日私が立っていたのは蒸し暑い試合会場ではなく、ひんやりとした斎場だった。着ていたのは試合着ではなく制服で、竹刀を握る手で遺影を持っていた。
悲しみで、試合で負けてもこんなに泣かないだろうというくらいに、たくさん泣いた。
父と顧問がお互いに気を遣ったのか、大会が終わってから部員たちはうちに線香をあげに来てくれた。
「県大会、行けるよ」そう言って精一杯笑ってみせたチームメイトに、泣き腫らしたひどい顔で「おめでとう」とかすれた声で返した。
何と声をかければいいのか、彼女も分からなかったのだろう。私も、どう返せばいいのか分からなかった。
*
どうしてあのタイミングだったのだろう。そう思いながら膝に置いた手をぎゅっと握りしめる。
上げたばかりの線香の匂いが鼻をつく。
そんなこと考えちゃいけない、とすぐに頭をブンブン振る。そんな考えは母に失礼だ。
「百合子―、兄ちゃんたちを空港まで送ってくるからなー」
父の声がして、私は腰を上げた。どのくらい正座をしていたのか、軽く足がしびれて一瞬よろめく。
「もう戻るの?」
玄関へ行くと、兄たちと父が靴を履いて家を出る準備をしていた。3人とも大柄なのに、ここ数日で少し小さくなったように見える。
「仕事あるけん」
「俺も大学の研究室あるからな。次は、お盆と四十九日にまた帰ってくるよ」
目の下に翳りが見える顔で、兄たちが振り向く。それぞれが私の肩に手を置いて言う。
「じゃあまたな。父さんのこと頼むよ」
「そんな顔すんなって。爺ちゃんと婆ちゃんもいるんだし。それに、母さんは百合子のことこれからもずっと空の上から見てくれてるからな」
兄たちなりの気遣いに、目のあたりが熱くなる。
「だーいじょうぶだって」「お前強いんだから」と2人して頭を撫でてくるから、目にぎゅっと力を込めた。
早くしないと遅れるぞと父に急かされて、兄たちは出て行った。
車が遠ざかる音を聞きながら、しばらく玄関に私はぼうっと立っていた。
静まり返った玄関で、私は呟く。
「空の上じゃなくて、ちゃんと見てほしかったのに」
もう出し尽くしたと思っていた涙が一筋、頬を伝っていった。
④斎藤葵子
重く、暗い空気が道場には満ちていた。
扇風機が虚しくモーター音を立てる中、部員たちが無言で防具やクーラーボックスの片付けをする。
私も淡々と自分の防具を片付ける。
早くこの場からいなくなりたい、そう願っているのは私だけではないだろう。
「……ねえ、なんで負けたん」
沈黙を破る声。
その一言はこの空気をさらに重くした。
外ではギラギラと真夏の午後の太陽が照り付けている。それなのに、この空間だけ切り取ったように真夏からかけ離れた空気が漂っていた。
数人が肩をビクッとさせる。
男子たちが気まずそうに目配せするのが視界の端に見えた。女子の諍いに巻き込まれてしまった彼らに、憐れみの念を向ける。
「なんであそこで足止めて打たれたん? アンタら前3人、揃いも揃って簡単に負けてくるとかありえんやろ。これで最後にしたかったん?」
指摘された3人が互いに顔を見合わせる。その顔には困惑の色が浮かんでいた。
後輩の何人かが、天敵に見つからないようにする動物のように身を寄せ合っている。それを視認して「ごめんな、こんな先輩で」と心の中で手を合わせた。
「こんな結果で悔しくないん?」
「……悔しくないわけないじゃん。何言ってんの」
「ていうか亜里沙は個人戦で勝ったんだから良くないの?」
「それにうちらだって簡単に負けたわけじゃないし」
追撃に対して、3人が反論する。
どんどん部屋の中に不穏な空気が充満していく。小さな火花が散っただけでも引火して、大爆発を引き起こしかねない。そんな不穏のガスが、どんどんこの場に溜まっていく。
そして、だれもこの場から逃げられない。
(……そんな不毛な争いやめなって)
ここまでくると半ば呆れてくる。これはしばらく帰れそうにないな、そう思った矢先――。
「葵子……」
3人の視線が私に刺さる。困惑と驚愕が入り混じった複雑な表情。
いや、3人だけじゃない。亜里沙が、後輩が、男子が。その場にいた全員の視線が私に向いている。
心の中で吐いていたと思っていた溜め息は声になって、思いのほか大きなボリュームになっていたらしい。
男子たちが非難の混じったような視線を投げかける。「余計なことすんなよ」そう無言で訴えかけてくる。
後輩たちは蛇に睨まれた蛙、といった表現が似合うような怯えようだ。
そして亜里沙の目は大きく見開かれ、唇がプルプルと震えている。
「葵子、アンタも私に文句あったの? 結局みんなで私のこと邪魔者扱いしてたの?」
もう一度大きく溜め息をついて、私はすっとその場から立ちあがった。
そして、3人と亜里沙の間に挟まれる形になる。キッと亜里沙を真正面から見据えた。
不穏のガスは、これ以上ないくらいにパンパンに充満している。そして、爆ぜる瞬間を今か今かと待ち構えている。
(みんなごめんね。何が正しいのか分からない。
でも、だれかいつかこれはちゃんと話し合わなきゃいけなかったことなんだよね。本当はもっと問題が小さいときにどうにかしとけばよかったのかもしれない。
もう仕方ないよ。
本当にみんなごめんね。男子も巻き込んじゃってごめん。
後輩たちは私たちみたいな先輩になるんじゃないよ)
心の中で言い訳じみた謝罪を述べる。そして言い放つ。
「そうじゃないけど、言いたいことはたくさんあるよ。亜里沙にも、3人にも――」
そのとき、何が私を突き動かしたのかは覚えていない。高校ではみんなと関わらなくていいことが確定していたからか。それとも、思いのほか含むところがあったからか。
なんにせよ、私が充満した空気に火をつけたことに変わりはない。
⑤山崎梓
それは、一瞬の出来事だった。
ドン! と音がしたと思ったら、あっという間だった。
大きく弧を描いて宙を舞うスポーツバッグ。そして、彼女の身体。
少し遅れて響き渡る甲高いブレーキ音。
「未来!」
呆気にとられていた私は、伊東君の叫び声にハッとする。
真夏の日差しの下、血液の温度がすうっと下がるような感覚に襲われる。
さっきまで笑い合っていたのは何だったのか。この状況は何なのか。足がその場から動けない。理解が追い付かなくて、寒さに凍えているかのように体が震えだす。
「山崎、ケータイ! 救急車!」
伊東君の怒声で我に返った私は、カバンから携帯電話を取り出す。指が震えるせいで画面がなかなか認証してくれない。なんとか119番を押して、コールをかける。
「はい、事故です――」
どうして、どうしてこんなことになってしまったのか――。
そして、これがあんなことに繋がってしまうなんて――。