月下の庭園で君を待つ
人目を避けるようにして、ひっそりとテラスからダンスホールの外に出る。
誰にも見られていないことを確認すると、わたしたちはホールを背にして走り出した。
白いタイルの道を、前を征く彼に手を引かれながら駆け抜けていく。
バラ園に差し掛かったところで、タイルの道から外れ、人気のない庭園の奥へ向かった。
「ア、アレクセイ殿下」
ホールを出てから一度も後ろを振り向かない彼の名を呼ぶ。
アレクセイ殿下は、ぱっとこちらを振り返ると、つないでいた手を強く引いて、わたしをその胸へと閉じ込めた。
走ったせいで、わたしも殿下も胸がドキドキとうるさかった。
「殿下……」
胸がドキドキいっているのは、なにも走ったからというだけではない。
この速い鼓動がバレないようにと、殿下の胸を押してみるが、わたしを捕まえている彼は、それをゆるさない。
「今だけこうさせて」
いつも自信にあふれている殿下に似つかわしくない、弱々しい声。
耳にかかる息は、少しだけ震えていた。
かたちだけの抵抗しかできないわたしは、言われるまま大人しく抱きしめられていた。
宙ぶらりんになった手をそっと殿下の背中に回すと、わたしを捕まえていた腕がぎゅうときつくなった。
静寂に包まれた庭園で、二人の呼吸と鼓動だけが聴こえる。
規則正しいその音が心地良くなってきた頃、殿下がぽつりと話し始めた。
「俺が卒業したら、もう君のそばにはいられない」
「はい」
「君をそばにおくことだって、俺の気持ちだけじゃ決められない」
「はい」
「でも、俺は君にそばにいてほしい」
「……はい」
「君がいいんだ」
「……はい」
「君のことが好きなんだ、ルルトメリア」
「はい、殿下」
ぽつぽつと語られる殿下の心の内を、ひとつずつ頷いていく。
ぎゅっと一度強く抱きしめられると、背中に回されていた腕がゆるみ、自然と体が離れ、殿下と目が合った。
金と銀の美しい双眸が、わたしだけを見つめている。
彼の瞳に映るわたしも、同じように見つめ返していた。
アレクセイ殿下は待っている。わたしの答えを。
でも、わたしはこれを決して口にしてはいけない。
殿下とわたしとでは、生きる世界も、背負うものも、何もかも違うのだ。
胸を刺すような痛みが襲い、震えそうになる唇を引き結ぶ。
でも。
でも、わたしは。
わたしの手を握っている殿下の手を振り払うことができなかった。
静かにわたしの答えを待ってくれていた殿下の顔が、ゆらゆらと滲んでいく。
とうとう我慢していた嗚咽が喉の奥から漏れ出てしまい、堰を切ったように涙があふれ出た。
ばらばらとこぼれていく涙を、殿下の指が優しくすくいとっていく。
いくつも、いくつも、頬を滑り落ちる前に、まるで宝石を拾うように。
その彼の優しさのせいで、涙は止まってくれそうになかった。
「ごめんね、泣かせたいわけじゃないんだ」
「謝らないでください!」
突然の大きな声に、殿下はびっくりしたように目を見開いた。
わたしも、こんなに大きな声を出すとは思っていなかった。
びっくりしてばらばらとこぼれていた涙も止まっていた。
「謝らないでください。殿下はなにも悪くありません。わたしが、わたしの身分がもっと殿下にふさわしければ」
身分が絶対のこの国において、王子殿下であり公爵令息のアレクセイ殿下と、ただの男爵令嬢のわたしは、まさに月とすっぽんだった。
絶対に結ばれることはない。
結ばれてはいけない。
次期国王となる彼のしあわせを考えれば、わたしがこの想いを断たなければならない。
「身分なんてどうだっていい。たとえルルトメリアが町娘だろうと、遠い異国の姫だろうと、なんだろうと、君が君である限り、俺は君のことが好きだ」
ここで、わたしはあなたが嫌いですと言えたら、どれだけラクだろうか。
どれだけ二人のためになるだろうか。
――どれだけつらいだろうか。
想像しただけで胸が張り裂けそうで、わたしはついに断る機会を逃してしまった。
言い淀むわたしを見守っていた殿下は、まるで騎士のようにその場に跪いた。
わたしを見上げる表情は、慈愛に満ちている。
「ルルトメリア・グレイスフィールド嬢。
どうか俺と、一生を共にしていただけませんか」
「 」
わたしの答えを聞いた殿下は、嬉しそうに微笑んで手の甲にキスを落とした。
胸が高鳴って仕方がない。
きっとわたしも、彼と同じ表情なのだろう。
立ち上がった殿下は、上着の胸ポケットに挿していた一輪の白薔薇を抜き取って、わたしに差し出した。
両手でそれを受け取ると、それを殿下の両手が包み込む。
「たとえ貴女が世界の敵になろうとも、大地が割れ、天が墜ちようとも、貴女を守り、愛すると誓います」
白い花弁が唇に触れる。
月と星のように燦然と輝く殿下の瞳に誘われて、わたしはゆっくりと目を閉じた。