命のスイッチ
細胞はいずれ朽ち果てる。それが人の定めなのだろう。
そして、それに抗おうとするのは心の定めなのだろう。
人は死を恐れる。それはもう、狂気的なほどに。
死に繋がる全てを人は恐れる。病と闘うために医療を必死に進歩させ、科学すらも味方につけた。狂気に支配された人というのは驚くほど有能だ。一心不乱に脳を働かせ、理の外側に手を伸ばし、そして利害を掌握する。
一世紀の間にどれだけ人は進化しただろうか。
街並みは変わり果て、生活は変貌し、死生観もがらりと移り変わった。
一世紀前の前時代的な記録媒体の中に保存されている風景も文化も、まるで別物に見える。それこそ、馬鹿馬鹿しい空想のフィクションではないかと思えるほどに。
人はすでに、肉体の崩壊とは縁を切った。
脳の記憶は魂の情報と共に地下深くのサーバーにアップロードされ、管理されている。そして新鮮で劣化することの無い肉体は企業がこぞって日夜大量生産を行っている。
死を恐れる時代は終わったのだ。
だから私は、ほんのちょっとした手違いで機械の身体が機能を停止した時に焦ったりはしなかった。
ああ、減ることの無い残機がまた一つ減っただけだ。ただそれだけを思う。胸の奥にあるスイッチをオフにすれば、私は別の場所で目覚めるだけなのだから。
しかし、これはどうなんだろうか。
人は死を失くした。永遠に手放すことの出来ない命を手に入れたのだ。
ならば、人の価値とはどうなったのだろうか。
遥か昔、人は死というタイムリミットがあったからこそ必死で生きたという。
いずれ死ぬのだから、生きている間に何かを成し遂げよう、何かを残そうと。
今現在、人は穏やかに、限りない時間を限りない命で過ごしている。何かに急かされることもなく、生き急ぐという言葉も忘れて。
『死を忘れるということは、生を忘れるということだ。』
数年前に観た、前時代の映像がフラッシュバックする。老いさらばえた老人がしゃがれた声でそんなことを口走っていた。
私には理解できない。
人が何なのか、生とは何なのか。
理解する必要もない。そんなことを考えて何になる。
私は人として、恐怖から解放された新時代をただ、ただ生きるだけなのだ。
私たちは幸福だ。考える必要すらなくなった幸福なニンゲンだ。
私は胸の奥へと手を伸ばし、命のスイッチをかちりと落とした。