エス・テロス
私の家には水槽があった。
透明で綺麗な水の中で育てていたのは、小指の先ほどに小さい熱帯魚。ネオンテトラという品種で、頭の方の色は青く尻尾の方は赤い、とても鮮やかな魚だ。まだ年端もいかない子供の私にとってその水槽の中は、輝きと理想に満ちた夢の世界だった。
なぜ今になって、そんな昔のことを思いだしたのか。
ナギサの瞳が、それを想起させるほど綺麗だったからだ。同じ人間とは思えない色合いと深みを持った瞳。光の差し具合によって暗い赤色とも透き通った水色とも見えて、じっ、と何時間も見つめたくなるほど飽きが来ない。
「そんなに見つめられたら恥ずかしいよ」
言葉とは裏腹に薄く微笑み、私の目を見つめ返すナギサ。まだ第二次性徴が始まってもいない少年だが、ナギサはこの大きな屋敷の主人である。
都会とは言いづらい街の一角に建てられた屋敷。土地をぐるりと囲むレンガ造りの塀には蔦が這い、鉄製の門扉とその隙間から見える屋敷の外観は、重々しく荘厳たるものを感じさせる。
私はその屋敷の一室でくつろいでいる。
この部屋の広さは二十帖ほどで、私がよく利用するビジネスホテルの部屋と同じくらいの広さだ。だが飾りつけや家具の一つ一つは良心的な料金のホテルとは格段に違う。
私は家具やアンティークといった物にさほど興味が無く、素材やメーカーなど全くわからない。しかしこの部屋に置いてある物は全て、金色の装飾や宝石とおぼしき色鮮やかな物がはめ込まれていて、高級な品なのだろうと私でもわかる。いま腰かけているソファも、肌に馴染む手触りや、腰が沈むほどの柔らかさからしてかなり上等なのだろう。
「屋敷の主人が直々にお相手してくれるのは、どうしてなんだい」
「よく通ってくれてるから。僕もお礼がしたくなったんだ」
この屋敷は単なる民家では無い。
知る人ぞ知る、完全会員制のカフェだ。外観はそうは見えないし、気の利いた看板一つとして無い。この屋敷に入るには既に会員になっている人から紹介されるしか方法は無い。
私は仕事柄、地下的な人物と多く繋がりがある。その内の一人からここを紹介された。最初に訪れたのはもう半年ほど前の話だ。
ちなみに会員制のカフェ、という言い方は会員のあいだでしか口にされない。
この屋敷の主人であるナギサは屋敷を訪れる人たちに現実的な俗世を忘れてほしいと考えていて、非現実的でありアンリアルな雰囲気を楽しんでほしいのだと。常連の中でも古株の会員からそう聞いたことがある。
店のことは屋敷と呼び、店員のことは使用人と呼ぶ。客はひとりひとり別々の部屋に案内され使用人と一対一で過ごす。ただ飲み物や軽食を頼んでくつろぐのではなく、使用人との時間を過ごすことを楽しむのが目的だ。
私は、この屋敷がひどく気に入っていた。半年前に初めて訪れてから今日に至るまで、一週間に必ず一度は通うほどに。屋敷で使用人と過ごす時間は何物にも代えがたい落ち着きと幸福感があった。
私も他の会員のように、身も心も満たされる感覚の、虜になってしまっていたのだ。
「えっと、加々美撤秋さん、だったよね」
「ああ、そうだよ。名前に似つかわしくない、しょぼくれた顔だろう」
「あははっ。確かに。完全に名前負けしちゃってるね」
ナギサは目を伏せて明るく笑う。不思議だ、彼と直接会うのは初めてだと言うのに、全くそんな距離感を感じない。ずっと前から知り合っていたみたいに、懐かしいような楽しさすら感じる。彼の笑顔はまるで光そのものだ。薄暗い空の中でも光り輝く、宵の明星のような光。
笑うナギサを見ていると私の心が騒めく。胸の奥があたたかくなるような、苦しくなるような感覚を覚えるのだ。
私はテーブルの上へと手を伸ばし、真っ黒な液体で満たされたカップを手に取った。ソファから少しだけ身を乗り出しカップの中身を一口喉へと流し込む。
「加々美さん、眼鏡掛けてるから印象が悪いんじゃないかなぁ」
「――二十代半ばの頃だったかな、急に視力が落ちだしてね。これが無いと、ナギサの顔もぼやけて見えなくなってしまうよ」
「えぇっ。テーブル挟んでるだけの距離だよ、五メートルも離れてないのに」
「夜中に本を読む趣味はやめた方がいいだろう。失敗者からの助言だ」
私は膝の上へと持ってきたカップの中身を覗き込んだ。ティアドロップ型の眼鏡を掛けた、時間の流れに取り残されたような精気の無い顔が映り込んでいる。
するとナギサが立ち上がり、私の隣へと来てソファにぽすんと腰かけた。彼の小さな両手が私の顔へと伸ばされるとそのままするりと眼鏡を取られてしまった。
「ほらぁ。眼鏡外したらカッコいいよ、加々美さん。コンタクトレンズとかにすればいいのに」
「生憎、コンタクトレンズは怖くて駄目なんだ。それが原因で失明したって話をよく聞くんでね」
「そっかぁ。カッコいいのになぁ」
私はナギサの手から眼鏡を受け取り、また掛けなおす。ぼんやりとしていたナギサの表情がくっきりと浮かんだとき、私はふと思った。
今まで相手をしてもらったどの使用人よりもナギサは幼い。幼いがゆえに、面白い答えを持っているのではないかと。今までまともに取り合ってもらったことの無い話に、ナギサはしっかりと向き合ってくれるのではないかと。私は深く考える前に口に出してしまっていた。
「ナギサ、君の存在理由は何だい」
「れぞ、えっと。何かなそれ」
「君が生きている理由だよ。それは一体なんだと思う」
「なんだ、そう言う意味なんだ。難しく言わないでよ」
「それでどうだい。理由はあるかい」
「そんなの簡単だよ。価値があるから。それが理由」
薄く微笑みながらナギサは即答した。
言いよどむことも、考える仕種も無く。真っ直ぐに私の目を見つめながら。
「自分に価値があると思っているから、生きているのか」
「ううん違うよ。僕は自分の価値なんてよくわからない。だけど、周りの人たちは僕に価値があるって思ってくれてる。だから生きてるの」
「自分の意思はどうなんだ、それじゃまるで傀儡じゃあないか」
「傀儡でどうして悪いのさ。僕はそれでいいんだって思ってるよ」
「他人の評価が、全部なのかい」
「うん、そう。それが僕の生きてる理由」
ナギサの答えは、私と全く同じで驚いた。いや、厳密に言うと、昔の私と全く同じでだ。
私は他者からの評価がイコール自分の価値、しいては存在している理由だと思っていた。人からどう思われるか、どうすれば人に認められるか、そればかりを考えて。
自分の中に常に他人がつきまとう、そんな生き方をしていた。
「加々美さんはどうなの。そのレゾなんとかって、生きる理由」
「いまの私の存在理由は、そうだな。いかに痛まずに死に向かえるか、と言ったところかな」
「むー、わかりにくいよそれ」
「今の私は、他人の評価とかそういうものは全てどうでもいいのさ。精神的にも肉体的も苦しまずにゆっくり。ゆっくりと死に向かいたい」
首をかしげるナギサに、私はもう少し噛み砕いて話を続ける。
私自身の存在理由について。そして死生観についてを。
「恙なく死ぬために生きているんだよ私は。生きている私がやる事なす事一切合切は、生きているという事も含めて全て存在する理由だ。死にたくないとか、死が怖いなんて思ったことは無い。私が一番恐れているのは、何よりも恐れているのは、生きているあいだに訪れる痛みだよ」
「痛いのが怖いのに、どうして生きてるのさ。痛いのが怖いなら、死んだ方がいいのに」
「どうやっても死ねないさ。死には必ず痛みが伴う。私が求めているのは痛みの伴わない死だよ。とどのつまりそれを探すのが私の存在理由だ」
「ふーん。加々美さんは具体的にどんなふうに生きようとしてるのかな」
「病気にならないように生きているよ。病気は死に繋がっている、病気に犯されてしまえばおしまいさ。私の求めている死に方が出来なくなる」
そう、私がかたくなにコンタクトレンズの使用を拒む理由もそういうことだ。
酒も飲まない。煙草も吸わない。精神的に追い詰められる状況も徹底的に遠ざけた。私は自身の生きる理由のために、社会的な存在価値をかなぐり捨てたのだ。
「いつもコーヒーを飲むときにブラックなのも、そういう理由があるからだよ」
「あれ、ただブラックの方が好きだからじゃなかったんだ」
「砂糖は麻薬の何倍も依存性が高く、過剰に摂取すればもちろん悪影響を及ぼす。美味しいからと言って砂糖が大量に使われているものを食べすぎないほうがいい。砂糖は甘い罠なのだからね」
私は話し終わりに、カップの中のコーヒーを全て飲み干した。すっかりと冷めてしまって味は落ちていたが、なにせ長話のあとだ。喉の渇きを癒せただけで良しとしよう。
私が空にしたカップをテーブルに置くと、ナギサは私と同じようにテーブルへと手を伸ばしていた。角砂糖入れの瓶の中から一つをつまみ、それを自分の口の中に放り込む。
すると私の方を向きなおしたナギサは、両腕を私の首に回しゆっくりと顔を近づけてきた。私は身じろぐことも無く、ナギサに求められたままに唇を重ねる。
角砂糖はナギサの舌と私の舌に弄ばれ、どちらの口の中でもなく溶けていった。
ナギサはそのまま私に平らな胸を押しつけ、もたれかかるようにして私を押し倒す。私の身体を圧迫する小さな子供の体重は、程よいものだった。
私とナギサは互いの唾液を啜り、舌を絡ませ合い、前歯を擦り合わせた。何時間もずっとそうしていた気がする。やがて唇を離したナギサは目を細めながら微笑みを浮かべた。到底子供のものとは思えない大人びた、到底少年とは思えない少女的な微笑みを。
「ねえ加々美さん。僕にハマっちゃったら、大変だね」
「ああ、ああ。大変だ。君はとびきりに幼く、とびきりに甘い罠なのだから」