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そうして君は僕を知る  作者: 琉慧
第二部 私(ぼく)を知る人、知らぬ人
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第十九話 三者三様 1

 時節は水無月。 天に雨空あまぞら、地はしとど。 僕は、屋内から眺める雨が好きだ。 何故かと問われれば、雨に濡れる気遣きづかいが無いからと、すまして答える。 屋内にいるのだから、雨に濡れないのは当然だと思われる事だろう。 その当たり前(・・・・)が、僕に雨を好きだと言わせている所以ゆえんに相違無いのだ。


 ああ、雨があんなにざぁざぁ降っているけれど、自分は濡れる事の無い安全な場所に居るという一種の安堵が、僕を良い心持にさせてくれる。 真昼間からあかりをけなければならないほど空が暗澹あんたんとし、間もなくして、雨の一粒一粒に意志でも宿っているのかと見紛みまごうほどの力強さで地を幾度も殴り付けるが如き豪雨に見舞われた時などは辛抱たまらない。


 こんな時に外に居たらどうなっていただろうと何の益体やくたいも無い気遣をしては、やはり僕は屋内で守られているのだと無闇に安心したりもする。 要するに、雨に濡れない状況を、環境の変化は激しいけれど自身には一切関わりが無いという高みの見物的な感覚に見立てているのである。 これが、僕が雨を好きな理由だ。


 そして僕は、雨が嫌いでもある。 その理由に関しては、最早語るまでもないかも知れない。 雨に濡れない事を条件として良い心持を得ているのだから当然、僕は雨に濡れるのがすこぶる嫌いだ。 その昔――小学生低学年の時分、下校直後まったく短兵急たんぺいきゅうな夕立に見舞われて頭の天辺てっぺんから爪先までぐっしょりとずぶ濡れになってしまった事がある。


 靴は歩くたびにがっぽがっぽと吸い込んだ水を地面に吐き出し、濡れた衣服はまるで皮膚に癒着ゆちゃくしてしまったかのよう、ぴったりと肌に吸い付き離れない。 いわんや、ランドセルの中身などはご想像の通りで差し支え無い。 そうして、全身海綿質にでもなった気味でやっとの事辿り着いた家ではまず、服を着たまま泳いだのかと言わんばかりの僕の状態を見た母に叱られる。 次に玄関先で服という服を下着まで一切脱がされ、羞恥を覚える。


 それから文字通り丸裸のまま風呂場へ向かい、すっかり血色を忘れた青白い肌へ深く染み入る温水に生きた心地を見出し、ようやく体温を取り戻した頃に居間へ向かうと、ランドセルの中の教科書やノートが濡れてふやけている様をこれ見よがしにテーブルの上に陳列され、再度母に叱られる。 極めつけには、雨による低体温がたたって次の日風邪で学校を休んでしまい、母を看病に走らせる。 ――以来僕は、雨の降る気色の無い天晴あっぱれな晴天日和であろうがお構いなしに、あのような屈辱を二度と味わってたまるものかと躍起やっきになって、折り畳み傘を常時鞄の中に忍ばせている。


 出かける前から雨が降っていたり、いかにも降りそうな気色があれば通常の傘を使用するから、それが活躍したのはほんの指折りで数えられる程度ではあるけれども、それでもいつ何時なんどきに雨が降ろうとも、それさえ持ち合わせていれば全身ずぶ濡れという最悪の事態だけは避けられるので、荷物として多少かさろうとも、僕はそれを手放すつもりは毛頭無い。


 今日は今日で、明朝からしとしとと遠慮気味に降り続いていた雨が、二時間目を終えた頃にははばかりも忘れて、すっかり梅雨の調べをかなでている。 休み時間中、廊下の窓から雲行きを探偵してみると、遠方に一際黒ずんで見える曇天どんてんの中、一筋の稲光いなびかりと共に音も無く放たれた閃光が、暗くよどんだ空を一瞬白く染め上げた。


 のち、三秒ほど経過してから、ごろごろごろと大気中を振るわせる不機嫌そうな鳴動が僕の耳に聞こえて来る。 存外近い所で鳴った(・・・)のだなと僕は例の心持を抱きながら、ことによると今日の調べは奇想曲に成り得るかも知れないなと、一人心をおどらせた。


「おーい優紀、そろそろ行かな遅れるで」


 廊下でたたずんでいた僕を呼び立てたのは竜之介だった。 数週間前に衣替えの移行期間が終わって、僕たち生徒はみな清涼感のある白の学生シャツを身に纏っている。 長袖か半袖、いずれのシャツを着るかは生徒の自由だけれど、六月を迎えてからも朝はちょっと冷え込む時があるから、僕は長袖のシャツを着ていた。


 竜之介や三郎太は既に半袖のシャツを着ていて、特に竜之介は学生服で隠れていた腕周りが半袖によってあらわになり、その腕のたくましさから、一体どういった鍛錬を積んだらそうした肉体を手に入れられるのだろうと、彼のいかにも男らしい筋骨隆々さに羨望をいだかされた。


 そして次の授業は音楽で、実習棟四階まで移動しなければならない。 廊下から教室へ戻ると、教室にはもう三分の一程度の生徒しか残っていなかった。 教室内の掛け時計で時間を確認すると、休み時間はあと三分ほどで終了する。 これは少し例の心持にひたり過ぎたなと反省しながら教科書と筆記用具を準備していると、ふと気に掛かった事があった。


「あれ、古谷さんは?」

 いつもならば僕たちと行動を共にするはずの古谷さんの姿が、教室のどこにも見当たらなかったのだ。


「あぁ、千佳ちゃんならちょっと前に例の子(・・・)と一緒に音楽室に向かってたぜ」と、三郎太が間もなく答えた。


「そうだったんだ、なら大丈夫かな」

「お、何だよユキちゃん、今の(・・)ちょっと、彼女を心配する彼氏っぽかったぜ? そろそろその気になってきたんじゃないのかぁ?」


「からかわないでよ。 でも、前より打ち解けてきた感じはするけどね」


「何や、優紀も言うようになったやんけ。 その時が来るのが楽しみやな。 ――まぁしかし、千佳ちゃんにも女友達が出来て良かったなぁ。 いくら俺らと仲良ぅなっても所詮俺らは野郎(・・)やし、やっぱり女の子には女の子の友達がおらんとな」


 竜之介の語った通り、つい最近、古谷さんに女子の友達が出来た。 詳しい経緯までは聞いていないけれど、体育の時間にたまたまペアとして組んだその女子――名前は、平塚ひらつか真衣まいと言う。 古谷さんに比べると上背があるほうで、ウェーブ掛かったセミショートヘアをふんわりと一本結びにしたヘアスタイルが特徴的な女の子だ。


 僕もこれまでに何度か平塚さんと会話した事があって、快活で裏表の無い、真率しんそつかつ愛嬌のある子だったと記憶している。 ――その平塚さんとペアを組んだ古谷さんは、体育の時間中に彼女と色々会話を交わしたそうで、程なくして彼女達は意気投合し、今ではすっかり二人で行動する事が多くなるほどの仲に発展していたのだ。


「古谷さん、これまでずっと女の子の友達が出来ないって悩んでたからね。 平塚さんみたいな優しそうな子が友達になってくれて本当良かったよ。 その分、僕()と一緒に居る時間が減ったから少し淋しい気もするけどね」


「何だよユキちゃん、遠慮するなって! そこは『僕と一緒に居る時間が少なくなって淋しい』って言うとこだろ? まったく素直じゃねーんだから」


「だからからかわないでよ! もう、これだから三郎太の前では古谷さんの話をしたくないんだよ……」


「まぁそう言うなってユキちゃん、そういう恋バナ(・・・)に花を咲かせるのは女子だけの特権じゃねーっしょ? 今んところ俺らの中で女っ気があるのはユキちゃんだけだし、野郎だらけの会話に一輪の花を咲かせられるのはユキちゃんしかいねーから、頼んだぜ!」


 一体何を頼まれたものやらと、僕は三郎太からの不可解な言葉にまるで要領を得なかった。 ――そう言えば、三郎太はまだ竜之介に彼女が居る事を知らされていないようだから、実際この三人の中で一番女っ気が無いのは三郎太という事になる。 その事実を突き付けられれば、彼はどういった心持を抱くだろうか。 感情の起伏の激しい彼の事だから、ひどく悲哀めいたものになりそうだ。

 それから授業開始一分前となったところで、僕達は慌てて教室を飛び出し、息も切れ切れになりながら実習棟四階まで足を走らせた。


 授業中、時折窓の外を眺めてみたけれど、結局耳に聞こえて来るのは先生のピアノの旋律のみで、期待していた梅雨の奇想曲は何時いつまで経っても耳に聴こえてこなかった。 どうやら今日の演奏は中止になったようだと、窓の奥の薄暗きに心をゆだねながら、覚えず小さな嘆息たんそくを漏らした。

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