第十八話 蒙昧 16
果たして玲さんはおもむろに僕の方へ振り返ったと同時に、きっと僕の顔を鋭い目つきで睨みつけてくる。 予想していたよりもずっと険しい彼女の激怒した顔付きを見るに、こうなればもう成り行きを天に任せるしかなさそうだと、僕は相応の覚悟を胸中に拵えた。
「ほんっと信じらんないっ! 女の私にこんなモノ見せてくれちゃって! しかもあんな卑猥な音声まで部屋中に響き渡らせて! 親が居なかったから良かったものを、もし親が家に居たらどう責任とってくれるつもりだったの?! ――まさかとは思うけど、このDVDの内容が分かってて、わざと私に見せたんじゃないでしょうね? だとしたら本気で怒るよ」
玲さんは激怒している。 僕がつまらない事を言って機嫌を損ねてしまった時の彼女とは比べものにならない程にかんかんだ。 下手な弁明は命取りにもなりそうだと、僕は生唾を飲み込んだ後、慎重に言葉を選びながら、恐る恐る口を開いた。
「ち、違いますって! 僕が先輩にそんな事する筈が無いでしょ? それに、僕もこのDVDの内容はこれっぽっちも知らなかったですし……」
「じゃあ何でキミはこのDVDが感動モノの映画だって思ってたわけ?」
「それは――」
ここまで突き詰められては息も出来ないと、僕は罪を白状するかのよう、三郎太にそのDVDを借りるようになった経緯を、当時の会話を思い出しながら玲さんに語った。
「――つまりキミは、そこまでヒントを与えられていながら、弟くんの言わんとするところにちっとも気が付かなかった訳と」
「……そうです」
僕が全てを白状すると、玲さんは大袈裟なぐらい大きな溜息をついた。
「キミ以外の男がそんなふざけた言い訳したものなら思いっきり頬っぺたでも引っぱたいて怒鳴り散らしてやるところだけど、キミの場合はそうもいかないからね。 でも、まさかキミがそこまで浮世離れしてるとは思わなかったよ……」
玲さんは片手で頭を抱え、呆れ返っている。 僕は返す言葉も無く、ばつの悪い心持を抱きながら一人閉口していた。 インターネットでそういう知識はある程度培っていたつもりだったけれど、先の玲さんの言う通り、どうやら僕の性に対する感性は浮世離れしているように思われた。
「え?」
小声過ぎてはっきりと聞き取れなかったけれど、玲さんは俯き加減に何かを口走って――まもなく、唐突に僕の胸辺りを両手で思い切り突き飛ばして来た。 思わぬ衝撃に僕は抵抗の甲斐もなく押された方向に背中から引っ繰り返った。
「いたた……いきなり何するんですか玲さ――」
僕を突き飛ばした玲さんは、転倒した僕のすぐ傍へ四つんばいで近寄り、上体を起こそうとしていた僕の両肩を両手で掴んだままぐいと床へと抑え込み、再び僕に天井を仰がせた。 そして次に僕が見たのは、僕を見下げる玲さんの顔だった。
「な、何してるんですか玲さん」
「何って、決まってるじゃん。 このままじゃ私のムカムカが収まり切らないから、さっきのアレとおんなじ事、キミにもしてやろうと思って。 キミが悪いんだよ、あんな変なモノ私に見せてくれちゃったから。 まずは――キスからだっけ」と言い終えた後、玲さんは片手で鬢辺りの髪を耳に掛けつつ僕の顔目掛けて自身の顔を近づけ始めた。 僕の理解力が乏しいからなのか、玲さんのやろうとしている事がまるで理解出来ない。 いや、きっと僕の理解力がこの上無く優れていたとしても、先の彼女の支離滅裂な言動を理解する事など出来やしなかったろう。
いくら恣意的行動に定評のある玲さんといえども、何をどう解釈すればムカムカとキスが結び付くのだろう。 考えれば考えるほど思考は混乱するばかりである。 しかし今はそのような推察をしている場合では無く、どういう訳か引き起こされたこの状況の落ち所を見極めるのが先だという事ぐらいは愚鈍な僕でも理解出来ている。 そして――ふと頭に過ぎったのは、これまでの玲さんの言動に鑑みた現在の彼女の思惑の方向性だった。
「……止めて下さいよ。 またさっきみたいに僕をからかってるんでしょ?」
先の一人称固定ゲームといい、思わせ振りな雰囲気を醸して上着を脱ぎ始めた時といい、玲さんは隙さえあれば僕をからかおうと躍起になっている節がある。 そうした見え見えの罠に毎度引っかかってしまう僕も僕なのだけれど、だからこそ彼女は僕に落ち度があるこの状況をこれ幸いとほくそ笑み、今回も思わせ振りな言動を働いて、再び僕をからかってやろうと画策しているのだろう――と僕は推断した。
如何に演技派の玲さんだといえども、誰かをからかう為だけに口付けなどは出来やしないに決まっている。 なればこそ、この玲さんの行動は僕をからかう為のブラフに相違無い。 突き飛ばされて肩を押さえ付けられた時はさすがに焦ったけれど、彼女の行為がからかいに違いないと分かった以上、それ程この状況に怯える必要は無い。 僕はようやく幾許かの安堵を得た。
「……」
そうして図星を付かれたからなのか、玲さんの動作がぴたりと停止した。 やはりそうであったのだろうと、僕は更なる安堵を得ようとしていた。 ところへ、彼女はまた僕の顔目掛けて顔をやおら近づけてきた。 ――むしろここまでは僕の想定の範囲内だ。
玲さんの性格からして、恐らく彼女は少なからずの負けず嫌いの気がある事は間違いない。 だから、自身の行為がハッタリだと僕に見破られた時、彼女は持ち前の不撓の念を胸中に拵え、何が何でも僕をからかってやるのだという強い意思を以って、僕にハッタリを悟られまいと虚勢に虚勢を重ねたのだろう。 故に玲さんは再び僕に口づけを迫るような行動を起こし始めたのだ。
しかし虚勢とはそう長く保てるものではない。 その事を理解出来ない玲さんでもないだろうから、上っ面は平然を装いながらも、きっと彼女の本心は今、猛烈に焦燥を覚えているに違いない。
ハッタリを拵えて人をからかってくる人が一番嫌うのは『ハッタリが相手に露呈にしたにもかかわらず、ハッタリを継続しなければならない』という状況だ。 本来からかう筈の相手に優位に立たれるというのは、からかう側からすると耐え難き苦痛でしかなく、ハッタリが露呈した時点で降参していれば傷口もそれほど広くはならないのに、何が何でも負けを認める訳にはいかないという反抗心が降伏という妥協を許さない。
およそ人をからかうという心のはたらきは、自分が相手より優位に立ちたいという虚栄心から生み出されるものである。 だから、常日頃から執拗にからかってくる人というものは、自身がからかわれる事を大いに忌み嫌う。 あくまで優位に立つのは自分であって、相手ではないと決め付けているからだ。
玲さんの場合はまさしくそれだろう。 生意気な僕に主導権を握られないよう常に僕をからかって優位性を保とうとする。 絵に描いたような負けず嫌いの典型だ。 しかし、今この状況において手綱を握っているのはこの僕だ。 踠けば踠くほどに、彼女の足は泥沼に沈み込んでゆくのみ――の、はずなのに、玲さんは身動き一つ取れないような絶体絶命の状況にもかかわらず、なおも僕に顔を近づけ続けている。
早く降参してしまえばいいのにと心の内で降伏を呼び掛ける。 やがて彼女の髪の柔らかな毛先が、僕の頬を擽った。 彼女の瑞々しい両の目が、僕を金縛りにした。 彼女の艶めかしい息遣いが、僕の耳を支配した。
――本当にこれがハッタリなのだろうかと、再度考えを検めさせられた。




