第十八話 蒙昧 9
「あれ、もう十一時過ぎてたんだ。 キミ、お昼はどうするつもりなの?」
ちら、と部屋の掛時計に目をやった玲さんが現時刻を確認した後、僕にそう訊いてくる。
「家に帰ってから食べるつもりでしたけど」
「今から帰ってたらお昼過ぎちゃうだろうし、もしキミさえよかったらここでお昼食べていきなよ。 私がご馳走するよ」
「でも、そこまでしてもらうのも悪いでしょ。 その分手間だって掛かるだろうし」
料理の事はよく分からないけれど、僕はひとまず昼食をご馳走になるのを遠慮した。 人様の家で食事を頂くという行為自体が、理由こそ説明出来ないけれど、何だか落ち着かないのである。 だから僕は玲さんの提案には承諾しかねていた。
「手間なんて全然変わんないよ、一人前が二人前に変わるだけだし。 それに、女の子からの手料理なんてそうそう味わえるものじゃ無いんだから、食べていって損は無いんじゃない?」
なるほどそう考えてみると、それは願って味わおうとしても味わえないものなのかも知れないと、遠慮がちだった僕の心はたちまち稀有な芳香に中てられて、当初の心持から翻ろうとしていた。 ことにわざわざ玲さんの方からご馳走してくれると言って来たのだから、彼女の料理の腕もそれなりのものに違いない。 そうして先程から食に関する思考を巡らせていたからなのか、僕の腹は突然ぐぅと憚りのない音を立てて空腹を知らせてくる。 僕の腹の主張を聞いていた玲さんはふふんと鼻を鳴らしながら、
「キミのお腹は食べたいって言ってるみたいだけど、どうする?」と微笑を浮かべながらちょっと意地悪そうに言ってきた。
どうやら意固地も空腹には敵わなかったらしく、まったく食い意地の張った僕の腹の音を玲さんに聞かれてしまった事により生じた気恥ずかしさを誤魔化すように「じゃあ、お言葉に甘えて」と、シェフにランチを希望した。 すると彼女はすくっとその場に立ち上がり、腹部にあてがうように右腕を前方に差し出すボウ・アンド・スクレープの形を作って「かしこまりました」と慇懃に僕の注文を承った。
「じゃあ作ってくるよ。 多分三十分も掛からないと思うから、お腹空いてるだろうけどもうちょっと辛抱しててね」と言い残して、玲さんは部屋を出て行った。
――しん、と静まり返った部屋の中で、こち、こち、という掛時計の秒針の音が耳を訪ねて来る。 その訪問者は中々図太い神経の持ち主で、一度訪問を許してしまうと、いくらこちらが帰ってくれと懇願しても一向に腰が浮く気色も無く、いつまでも図々しく居座り続ける厄介者だ。 恐らく彼は玲さんが部屋に戻ってくるまで僕の耳に居座るつもりだろう。 全く厚かましい奴だ。 耳も耳で、招いてもいない音を気兼ねなく進入させてしまうのだからとんだお人よし――いや、お耳よしである。
子供の頃、目は閉じられるのに何故耳は閉じられないのかと疑問を抱いた事があるけれど、彼を訪問させている時ほど完全に聴覚を遮断したいと思う事は無い。 あと三十分近くも彼と同じ空気を吸わなければならないと思うとひどく辟易してしまう。 僕は少しでも気を紛らわそうと、今日実施された世界史のテストの答え合わせを、教科書とノートを見ながら自分なりに確認していた。 しばらくそうしている内に、階段を上る足音が聞こえてきたかと思うと、
「――ごめーん、ちょっと両手塞がってるから戸開けてくれなーい?」と引き戸の向こうから玲さんの声が聞こえて来た。 掛け時計で時間を確認してみると、現在は十一時四十分。 玲さんが指定した通り、調理には三十分も掛からなかったようだ。 僕は「今開けます」と言いながら立ち上がり、引き戸を開け放った。
「ありがと、お待たせ」
引き戸を開いて現れたのは、左手にフライパン、右手に数枚の皿を携えた、エプロン姿の玲さんだった。 部屋に入った彼女はまず右手の皿をテーブルの上に置き、皿の一番下に隠れていた鍋敷きをテーブルの中央辺りに設置し、その上にフライパンを置いた。 するとたちまち室内にはバターのような香りが漂い始め、僕の食指を動かしてくる。 そしてフライパンの中身は――どうやら先ほど玲さんの中の流行として語っていた、きのこパスタのようだ。
「私が食べたかったのもあるけど、キミにも是非このおいしさを知ってもらいたくて今日のお昼はきのこパスタにしたよ。 さ、お腹空いてたんでしょ? 食べて食べて」
玲さんはエプロンを外してテーブルの前に座った後、テーブルに置かれていた皿と箸をそれぞれ僕に手渡してくる。 つまり、フライパンの中から食べたい分を自分で皿に盛れという事だろうと解釈した僕は、一旦皿と箸をテーブルの上に置いて「じゃあ、いただきます」と両手を合わせて食前の挨拶をしてから再度皿と箸を持ち直した。




