第十八話 蒙昧 3
「普通さ、一度異性の口にした物ってのは食べたり飲んだりするのを遠慮するものなんだよ。 ほら、間接キスとか言ってからかわれるやつ、キミも経験無い?」
「うろ覚えですけど、小学校の時に何回かあったような気がします。 でも、それって一体何が悪いんですか」
「そこが普通の男の子とキミとの違いだよ。 同性ならそんな事は些細な問題だけど、その相手が異性になったら話は別。 これは私の勝手な想像だけど、キスっていうのは誰もが憧れてる恋人同士の行為だと思ってる。 でも、私達はまだ未成年だし、憧れを抱いている一方で、どこか不純感も抱いてると思うんだ。 子供の頃に大人からキスは不純だって教えられてた先入観もあるんだろうけどね。 だから、キミが思う以上に間接キスを嫌う人は結構居るものなんだよ。 もちろんお互いに同意さえしてれば何の問題もないけど、そういう関係でない間柄の男女がそういう事をするのは傍から見ても当事者として見ても、いい気分はしないはずだよ。 私はそんなの全然気にしない方だけど、どちらかと言うと女の子の方がそういうの気にする子多いからね。 ――まぁ、キミを試すような真似しちゃって悪かったとは思ってるし、キミがさっき言ってた事もごもっともなんだけど、それでもキミが男を目指してるって言うのなら、その辺の男女間のマナーだったりタブーだったりをもっと知っていかなきゃ駄目だね」
普段のおちゃらけた様子も見せず、至って真面目な表情の玲さんの口から真摯に語られた僕への具体的な忠告は、非常に説得力のあるものだった。
何かしらの情報を得る為に誰かを試すという行為については、なるほどあまり褒められたものでは無い。 その実、僕を試したと玲さんに言われた際、僕は幾許かの不愉快を覚えてしまっていた。 その行為について謝罪を行った玲さんも、自分がそうする事によって相手が不快な心持を抱く事は承知していた訳であって、それでもなお僕を試したのは、きっと僕を男へと導く為だったのだろう。
失敗は成功の母であるという言葉は言い得て妙だと思う。 僕達が人生を歩んでいく中で、嫌でも身を以って味わわなければいけないのが『失敗』という苦汁だ。
たとえば――いたずらをして親に怒られた。 熱々の食べ物を口に放り込んだら舌を火傷した。 初めて自転車に乗ったらバランスを崩して転倒した。
――どれもこれも、大人からしてみれば鼻で笑うような失敗ばかりだけれど、その大人の幼少時代にも必ず、これらの失敗を経験しているに違いないのである。 経験というものは、何も成功ばかりで堆積している訳ではない。 むしろ幾十幾百幾千万の失敗の山が在ってこそ、初めて成功とは顔を覗かせるものだ。 故に、先述した失敗の数々も、その失敗を省みる事によって成功へと導く事が出来る。 そうして先の失敗から学ぶとすると、親に怒られない為にいたずらをしない。 熱い食べ物は冷ましてから口に入れる。 バランス感覚を掴むまで自転車のペダルは漕がずに、両足を地面に付けながら走行する、などと言ったところだろう。
人間は地球上の生物の中でとりわけ優秀だと言われているけれども、何も生まれた時から優秀な訳では無い。 失敗してこそ失敗を省み、失敗してこそ失敗を糧にし、試行錯誤の末に成功を導き出せるからこそ人という生きものはこれほどまでに高度な文明を築き上げる事が出来たのである。 つまり、失敗無くして人の成長は在り得ない。 そして玲さんは先の失敗を僕へ学ばせる為、僕に不名誉な心持を抱かれる事を分かっていながら、男女間のタブーを教示してくれたのだ。
そうして彼女の遠回りな優しさに気が付かされてしまったものだから、苛立った感情を一瞬でも彼女へ向けてしまった事を酷く後悔した僕は、たちまち忸怩の念に苛まれた。
どうやら玲さんは僕が思っている以上に僕の事を思ってくれているらしい。
「――玲さんはそこまで僕の事を考えてくれてるんですね。 何ていうか、純粋に嬉しいです。 やっぱり玲さんには本当の僕の事、話して良かったです」
"試した" と言われて幾何ながらも不満げな態度をちらつかせてしまった事への謝罪も込めて、僕は改めて玲さんに対し敬意を表した。 すると彼女は、
「え、ちょっと、急にどうしたの? いや別にそんなに大袈裟な事じゃないよ。 私もたまたま思いついたからやってみただけだし、キミに真顔でそんな事言われると調子狂うし」
突然へどもどし出して、僕の敬意を素直に受け取ってはくれなかった。 それにしても、僕がつまらない事を言って彼女の機嫌を損ねてしまう事はそれなりにあったけれど、こうもあたふたとした玲さんは初めてお目にかかったものだから、どこか新鮮だった。
ことによると彼女は今、照れているのかも知れない。 しかし仮にそうであろうとも、それを僕の口から伝えられる筈もなく、万が一にも口にしたものならきっとまたこっぴどく叱られてしまうだろう。 ――こうした先見の明も、以前に玲さんから教示された教訓の賜だ。 僕は同じ過ちを二度繰り返すようなヘマはしない。
「先輩、ちょっと顔赤いですけど大丈夫ですか」
要は直接的な言葉さえ避ければいいのである。 だから僕は心配を装いつつ平然を保って彼女の心持を探ろうとした。
「~~っ! バカっ! 照れてなんかないからっ! こういう時は何も言わずに察するトコだからいちいちベタなつっこみ入れないのっ!」
女心と秋の空。 数秒前の僕に是非教示してやりたい。
一度失敗を乗り越えたぐらいで調子に乗らず、素直に黙っていろと。