第十八話 蒙昧 2
「お邪魔します」
学校から徒歩五分ほどで玲さんの自宅に辿り着いた僕は、誰に聞かせる訳でもなく、最低限の礼儀として訪問時の挨拶を果たしながら玄関の敷居を跨いだ。 日中に指し掛かろうとしている今の時間帯も助けてか、以前夕方に訪問した時より家の中は照度を保ってはいるけれども、やはり人の気配はあまり感じられない。
『あ、来たのー? 早く上がってきなよ、前居た部屋に居るからねー』
玄関の開閉音で僕の訪問に気が付いたのか、二階の方から発せられたであろう玲さんの溌剌な声が家中に反響する。 僕はその声に従って彼女の居る部屋へと向かった。 そうして部屋の戸を開けた僕は、丸テーブルの前に横坐りしている玲さんを確認し「どうも」と言いながら軽く会釈した。 玲さんも僕を見るなり胸元辺りに軽く手を挙げて「こうして会うのも久しぶりだね。 まぁ座りなよ」と挨拶を返してきた。 僕は彼女に促されるがまま、丸テーブルを隔てて玲さんの左斜め前辺りに設置されていた座布団の上に腰を下ろした。
「あ、飲み物あるけど、アイスコーヒーとオレンジジュースどっちがいい?」
「じゃあ、アイスコーヒーをいただきます」
事前に用意してくれていたのか、テーブルの上には一・五リットルサイズのペットボトルのアイスコーヒーとオレンジジュースの容器が置かれていて、僕がアイスコーヒーを注文すると玲さんは、適度に氷の入ったグラスの中に七分程度のコーヒーを注いで僕の前に置いてくれた。
「はい、粗コーヒーですが召し上がれ」
「ふふっ、何ですか粗コーヒーって、聞いた事ないですよ」
「うん、粗茶があるなら粗コーヒーもアリかなと思って」
「じゃあこっちは粗オレンジジュースですか」
「ぷっ、果汁全然入って無さそう」
まるで子供見たようなやりとりでお互い失笑を漏らしている内、彼女の家に辿り着く前に持ち合わせていた緊張はすっかりほぐれていた。 それから互いにグラスに口を付けつつ、飲み物の名称に粗を付けてどのような印象を受けるかというこれまた稚拙な遊びを、互いのボキャブラリーが尽きるまで言い合っていた。
「――あぁそうそう、キミの話を聞く前に一つだけ確認したかった事があるんだ」
からん。 という小気味良い氷の接触音と共にグラスの中身を飲み干した玲さんは僕に何かを訊こうとしていたので、 先行して僕が「何ですか」と応答すると彼女は、
「前に食堂でさ、キミが私にプリン奢ってくれた日の事覚えてる?」
何の意図があってか、以前の食堂の一件について訊ねてきた。 それはテスト前の事であったけれど、玲さんの傍若無人ぷりが際立っていた事もあり、僕の中ではまだまだ記憶に新しい出来事だった。
「はい、というか、あんな印象強い出来事を忘れろと言う方が難しいですよ」
「そっか、まぁ覚えてくれてたならいいんだけど、あの日私が食べてたプリンの容器は、キミが片付けてくれたんだよね?」
「そうですけど――あ、先輩ダメですよちゃんと最後まで確認しないと。 先輩が置いていった容器の中にまだ一回分掬えるほどのプリンが残ってたんですからね? 勿体無いですよ」
「いやーごめんごめん、すっかり見落としちゃってたみたいでさ。 ……で、キミはまさかそのプリン、食べてないよね?」
「何言ってるんですか、食べたに決まってるでしょ。 カラメルのところが一番おいしいんですよプリンは。 今度からは気をつけてくださいよ?」
僕が平然として諫言気味に玲さんへそう告げると、彼女は「ふぅ」と思わせぶりな溜息をついた後「やっぱりかぁ」と、まるで端から僕の行動を予知していたかのような口ぶりで落胆の色を覗かせていた。
「やっぱり、ってどういう意味ですか」
その言葉がどうしても心に引っかかってしまった僕は、込み上げる訝しさを押さえつつ彼女にそう訊ねた。 すると玲さんは「あのプリンはね、私がわざと残しておいたの」と、些か申し訳なさげに告白した。
「どうしてそんな事をしたんですか」
彼女の意図がとんと掴めないでいた僕は、続けざまに彼女へ問い掛けた。
「ちょっと試したかったんだよ。 男としてのキミをね。 ――キミはさ、私が食べ残したプリンを食べて何とも思わなかった?」
プリンを残す事と僕の男を量る事がどう結びつくのだろうと考を巡らせながらも、先の玲さんの問い掛けに対する答えは既に決まっていたから、
「特に、何とも思わなかったですけど。 それに、僕が奢ったからって訳ではないですけど、折角お金を出して購入してるんですから、そのまま残して捨ててしまう方が勿体無いでしょ」と自信満々に述べ立てた後、この上ない正論を彼女に明示出来たと得意になった。 むしろ、僕が先程明示した理由以外に何を意識しろと言うのかこちらから聞き質したいぐらいである。
しかし玲さんは泰然たる態度で「うん、確かにそうなんだけどさ」と、僕の意見に同意する素振りは見せながらも、その口調はどこか奥歯に物が挟まっているかのようであり、お世辞にも彼女の態度が明瞭とは言い難い。 彼女は僕の顔を見据えたまま、そのまま語りを続けようとしている。




